小説 「見上げた空は」前編

泉美トモが初めて書いた、BL(ボーイズラブ)小説です。
じつは、単行本1冊ほどのボリュームがある大長編。

けっこう読みごたえがあると思います。
力をいれず、気軽にお楽しみくださるとうれしいです。

まあ、しかしながらここだけの話……

じつは、男子大学生ふたりとオヤジという
フクザツな人間関係は、とうてい一筋縄ではいかず

おそらくこの後も、シリーズとして続くのではないか
という予感が、恐ろしいけれども、しています。
 

     

見上げた空は 1

T003

 * * *  ≪ 1 ≫

 サンタクロースをやるハメになった。
 初体験なのに、そんな重要な役なんてと思ったけど、赤い衣装と白ヒゲをつけて化粧室から出たとたん、よっちゃんがカウンター席から身を乗りだすようにして
「大山くん、すっげえ。似合う!」
 そう言ってくれたので、なんだか自信が湧いてきた。

 そもそもこの話はよっちゃんが去年までいたという養護施設の繋がりだ。クリスマスイブにサンタの格好で病院などに行くボランティアなんだけど、その賛助家庭をサンタが訪問するなんて活動もあるのだ。
 よっちゃんは大学に入ったらぜひやりたいと思っていたそうで、おれもそれに誘われたってカタチ。メンバーはもうすぐ商店街の集会所に集合するようになっている。
 おれたちは集会所の近くにあるよっちゃんのバイト先を、待ち合わせ場所に選んだ。商店街のメイン通りから少しはずれた喫茶店『カルカヤ』は、イブの喧騒をよそに静かなもので、ママさんは、おれたちがそこで衣装に着替えるのも快く許してくれた。

 おれ、大山賢太とよっちゃんこと水村好男は、同じ大学に通う一年生。おれは社会福祉学科、よっちゃんは国際学科と専攻は違うけど、クラブは同じ映画研究部に所属だ。
 自主映画を作ったりそれを映画祭に出品するのが主な活動で、おれたちのいくつか先輩までは賞を取るレベルの高い部だったんだけど、現在その名残りはない。いつも部室に来るのは、黒木カオルっていう同じ一年の映画オタクと、おれとよっちゃんの三人だけ。

 その黒木はいま、二階に細長く作られた店の窓際ボックス席に座り、不機嫌そうにコーヒーをすすっている。
「大山、そんなにサンタクロースが似合うんだ。せっかくならボランティアじゃなくて、ケーキ屋かピザの宅配のバイトでもやって、資金を調達すればよかったんだ。まあ、どうせ脚本もできてないんじゃ、映画作りはまだまだ先だろうけど」
 いつものごとく皮肉たっぷりな黒木の口ぶりだが、そのとおりなので言い返せない。
「脚本って。もしかして大山くん、夏ぐらいから書く書くって言ってなかった?」
 カウンターの中から、ママがハスキーな声でおれに聞いた。
「はあ、そうなんスけど……ちょっと」
 おれは、もう頭を掻くしかできない。
 カルカヤのママは、四十代後半ぐらいのすごい美人。ウエーブのかかった髪を無造作に後ろで束ねている。昔は役者だったそうで、マイナーながら映画にも出演したという。ただ厳密には女優……ではないらしい。詳細は不明だが。本名が「舜介」で、近隣では有名人物だというのは、もともと地元の人間であるよっちゃんからの情報だ。

T001

 よっちゃんは、すっごくいいやつだ。
 初めて会った頃、よっちゃんはおれの言うことを興味を持って聞いてくれて、それまでおれが、みんなにウソだって言われてバカにされてきたことだって、ちゃんと信じてくれた。おれはそれが嬉しくてよっちゃんと仲良くなって、以来ずっと二人でつるんでいる。
「せっかくだから、並んでみなさいな」
 ママの声によっちゃんはニッコリして席を立ち、おれの横に並んだ。おれの目線の下あたりに、よっちゃんの茶色いくせっ毛がくる。数ヶ月は伸びっぱなしの髪で、後ろには軽い寝ぐせがついたまま。
 玄関のドアにぼんやり映った、自分たちの影を眺めた。
 よっちゃんは細身のセーターとジーンズ姿で、首にはいつもの黄色いマフラー、頭にトナカイの角のカチューシャをつけている。よっちゃんは今回、「トナカイ」と呼ばれる裏方の仕事をすることになっていた。

「ねえママ。こうやってしゃんと背すじ伸ばすと、大山くんってすごく背え高いよね。雰囲気もすごくサンタっぽいし」
 よっちゃんの言葉にママがうなずく。
「それってさ、貫禄があるっていうこと?」
 まじな口調でおれが聞くと、よっちゃんはけらけらと弾けるように笑った。
「言っとくけど、おれはこの状態がベストなの。これ以上やせると、体調が悪くなんだよ」
「いいじゃん。ぼくなんかやせてるから、サンタをやりたくてもやれないし」
 まったくなんでそんなにスリムなのかな。おれはちゃんと標準体重の範囲内なのに、よっちゃんが隣にいると余計にでかく見られるんだよ。だけどそれを言ったら、よっちゃんはいつも「ぼくだって平均身長に近いのに、大山くんといるとすごくチビに見られる」と口応えをしてくる。まあ、お互いさまってとこか。

T002

「あっそうだ。さっきね、今夜ぼくたちがまわる家のリストも、衣装と一緒にもらってきたんだよ」
  よっちゃんが慌ててカウンターに戻った。「ぼくたち二人はI班だって」と言いながら、紙袋からガサゴソと紙の束を引っぱり出し、熱心にめくり始める。
 コーヒーを飲み終えたらしい黒木が、文庫本を手に立ち上がった。
「黒木くん、もう帰るん?」
 おれが聞くと、黒木は黒縁のメガネを中指でくいっと上げた。
「映画作りのミーティングをするって言うから、四駅も離れたこの店まで足をのばしたのに、結局いつもと同じ調子じゃないか。大山、お前はなーんにも考えていないし、水村だってまるで役に立ちそうにない」
「ミーティング……するつもりだったんだけど、いろいろ忙しくて」
 おれが肩をすくめると、黒木はいっそう不機嫌そうな顔になった。
「お前らと一緒にいたって、やっぱり何の進展性もないな」
 そう言い残して、店を出て行った。

 確かに、黒木の言うとおりだった。おれたち、集まっても下らないことを喋ったりゲームで遊んだりしてるだけで、映画研究部だというのに、いまだ何ひとつ内容のあることをしていない。
 いやいや、だからこそいま一念発起で、おれが中心になって映画作ろうってしてんじゃないか。それに、そもそもきっかけは黒木の発した何気ない一言だ。

「水村ってさ、なかなか映像映えするような顔をしてないか?」

 おれは最初、どういう意味かわからなかった。だけど、そのつもりになって気をつけながらよっちゃんを観察すると、黒木の言葉がしみじみと理解できた。

「たまに光の加減であいつ、別人のように見えるだろう?
 額が高くて鼻すじがスッとしている。唇は薄いがあごのラインはバランスがいい。たぶん、陰影が美しく形成される顔のつくりなんだ。ライティングの変化によってさまざまに違う表情が浮かび上がる。キャメラワーク次第で、水村はおそらくころっと化けるぞ」

 無遅刻無欠席で、意外と優秀な学生ってところをのぞくと、普段のよっちゃんはおれと同じくその辺にゴロゴロ転がってるような、ごく普通の男子大学生だ。ファッションには無頓着だし、女の子にもまるで縁がない。だけどおれは、そんなよっちゃんを「化けさせる」という計画に、密かに燃え始めていた。
 ただしそれはまだ誰にも言ってない。黒木にもよっちゃん本人にもだ。だって……だってさ、もし「君を、美しく撮りたい」なんてことヘタに口にしたら、おかしなふうに誤解されること請け合いじゃないか?

「ねえ、大山くん」
 よっちゃんが、おれを呼んだ。
「ん?」
 ふり返ると、よっちゃんがこっちをじっと見ている。
 おれ、たったいま「普通の男子」と言ったばかりだけど、やっぱりそうじゃないと感じた。よっちゃんの柔らかそうな髪、色白の肌、まっすぐな眉と黒い涼しげな瞳は、きっと誰が見てもかなり印象に残る。
「大山くん。ぼくやっぱり、今夜のこれ、やめようかな……」
 眼を伏せ、トナカイの角をはずしながら、よっちゃんがいきなり言った。
「ええっ、いまさら何言ってんだよ。もうすぐこれ始まるんだぜ? おれたちが責任もってまわらないと、たくさんの家にサンタが来ないことになっちゃうんだよ?」
 おれが慌てた声を出すと、よっちゃんは「うん、でも」と、気の乗らない返事をした。
「I班の担当はどこなの?」
 カウンターの中からママが聞く。おれはこそばゆい白ヒゲを取りつつ、よっちゃんの横から書類を覗きこんだ。
「なーんだ、高尾台じゃないか。石橋さんちのすぐ近くじゃん」

 石橋さんというのはよっちゃんのおじさんにあたる人だ。両親のいないよっちゃんの後見人だと聞いている。映像制作の会社をやっていて、ドキュメントのいろんな賞も取ってるすごい人だ。夏にはおれもそこでバイトさせてもらった。資料探しで自宅にお邪魔したこともあるから、おれも家は知っているんだ。
 ママが皿を拭きながら、ふふっと笑うように言った。
「ひょっとして恥ずかしいんじゃない? 仮装までしてのボランティアだもの。大丈夫、高尾台は広いんだから、そうそう知り合いに会うことなんてないわよ」
 そのとおりだ。トナカイの格好が恥ずかしいなら、真っ赤っ赤なサンタのおれはいったいどうすりゃいいんだ。
 よっちゃんは、しばらく考えるようにしていたけど、やがてニッコリ笑って「そうだよね」と、うなずいた。
「ぼくたちが責任もってまわらないと、たくさんのおうちにサンタが来ないことになっちゃうもんね。それじゃあダメだもんね」

 ふと気づくと、集合の時間が近づいてきていた。おれたちは「やばっ!」なんて叫びながらバタバタと荷物を持ち、カルカヤの玄関ドアを開けた。
「あ、よっちゃん。ちょっと待って」
 ママがよっちゃんを呼びとめる。おれが階段の下まで行ってしばらく待っていると、上でカランコロン、とドアベルの音がして、襟にボワボワつきの茶色いジャケットを着こんだよっちゃんが、小さな包みを手に駆け下りてきた。
「あのね、うにたんにママからクリスマスプレゼントだって。ハムスター用のクッキーなんだって」
 そう言ってよっちゃんは、明るい笑顔を見せた。

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見上げた空は 2

T003
 * * *  ≪ 2 ≫

 夕方五時、サンタクロース隊は出発した。
 I班のサンタはおれ大山賢太で、トナカイはよっちゃん、水村好男だ。本当は、サンタとトナカイと運転手という三人でグループを組むはずだったんだけど、手違いがあったそうだ。車と運転手が足りなくて、おれたちI班はH班のワゴン車で一緒に高尾台まで行き、そこで降りて徒歩で家々をまわることになった。「若者だから、体力勝負」ということらしい。
 これからポスターを目印にして、リストに載っている各家庭をまわる。プレゼントを子どもに渡してゆき、ひとつごとに親から千円の参加費を受けとる。
 そうそう、仕事は単純だけど大切なことを忘れちゃいけなかった。サンタ役の人間は、子どもの前ではあくまでもサンタクロースとしてふるまうのが決まりだ。

 おれたちはワゴン車を降りた。訪問先の数はさすがに少し減らしてもらったけど、それでも徒歩でまわるにはかなりの大荷物だった。おれが大きな白い袋を二つ抱えようとしていると、よっちゃんが「ひとつ持つ」と言いだした。
「いいよ。荷物を持つのはサンタの仕事だぜ。トナカイにもお金集めたりポスター回収したりと、いろいろ仕事あるじゃん」
「でも、サンタが袋を二つも持ってるのはちょっとかっこ悪いよ。それに、どんなに重くたって二人で持つと楽ちんだよ」
 口をとんがらせてそう言うので、お言葉に甘えて袋を背負ってもらうことにした。よっちゃん結構、嬉しそうだ。
 団地のバス停に着いたあと、ロータリー横に設置された風よけの建物に入った。ベンチに座りこんで、プレゼントのリストと団地の地図を確認する。H班のスケジュールに合わせて出発したから空もまだ明るくて、訪問を始めるには早すぎる。まだ時間はたっぷりとあった。

「あのね、昨日はビデオ借りて、映画を観てたんだよ」
 よっちゃんが、黒い瞳をキラキラさせて喋り始めた。映画の話をするとこいつ、いつもこんな顔になるんだ。
「へえ、何見たん?」
「あのね、クリスマスっぽい作品って考えて二本。『34丁目の奇跡』と『ニューヨーク東8番街の奇跡』」
「えっ? 何のキセキって?」
 おれが聞きかえすと、もどかしそうにふたつのタイトルをくり返したあと
「でも『東8番街』の原題は全然違うんだけどね。『BATTERIES NOT INCLUDED』で『バッテリー切れ』って意味」
 流暢な発音でつけ加えた。

 よっちゃんはさすが国際学科だけあって英語がうまい。洋画、特にコメディなんか一緒に観てると、明らかに笑う箇所が違ってたりする。おれは字幕がなきゃ何もわかんないから、そんなよっちゃんが当然うらやましい。
 でもそれを言うと「そんなの映画観てたら憶えるじゃん」と、こともなげに返される。いや、それができるようだったら日本人の半分は英語ベラベラだって。
「でもおれ、どっちの映画も知らないなあ」
 よっちゃんは、信じられないというような顔をした。
「それは絶対観なきゃダメだよ! 特に『東8番街』は、大山くんは絶対観なきゃ!」と、口角泡を飛ばす。
「あのね、『ニューヨーク東8番街の奇跡』はかわいい宇宙人と友だちになるんだよ。スピルバーグプレゼンツだよ」
 スピルバーグで宇宙人と友だちつうと『E.T.』『未知との遭遇』みたいなもんか?
「でもね、てっきりクリスマスの話だと思って借りたのに、観てみたらそうじゃなかったんだよ。あと『34丁目の奇跡』はサンタクロースの話で、もとはブロードウェイミュージカルって書いてあったから観たのに、これも実はミュージカルじゃなくてさ」
「というと、どっちともハズレだったん?」
「違う違う、ハズレじゃないよ! どっちも楽しくてきれいだった。ただ、自分が想像してたのとちょっと違ってただけ」

 よっちゃんの一番のお気に入りはミュージカル映画で、ファンタジーやSFっぽいのも好んで観ているようだ。そういうのはおれも観るけど映画自体の好みは微妙に違う。どちらかというとおれはJ・ブラッカイマー製作とかの、男がグッとくるような作品が好きだ。
「クリスマス映画つったらさあ、おれはやっぱり『ダイハード』だな」
 この映画の監督はJ・マクティアナン。『プレデター』『レッドオクトーバーを追え!』など、骨太な演出に定評がある。『ダイハード』は人気作品で続編もたくさん作られたけど、おれはやっぱり最初のやつがベストだと思う。
「『ダイハード』ってさ、クリスマスイブに起こった事件の話なんだぜ」
「ええっ、そうだったっけ?」
「そうだよ。結構みんな忘れがちだけどな」
 よっちゃんは、うーんというふうに眉をひそめた。
「なんかさ、テロリストの人も、わざわざそんなことしなくてもいいのに。せっかくのクリスマスなのに人なんか殺さなくていいのにさあ」
 いや、テロリストだから人を殺すんだし、そんな夜に事件が起きるからドラマになるんだよ、よっちゃん。
 どうやらよっちゃんはその類のシーンがかなり苦手らしい。全然観ないわけじゃないけど、おれが借りてきたバイオレンスホラーやアクション映画を一緒に鑑賞していると、途中で目も耳もふさいじゃってることがしばしばある。よっちゃん、きっと心がすごく優しいんだよね。

T001

「あっそうだ。クリスマスといえばさ、おれ悔しい経験があってさ。中二の冬に大ケガしたって前に話したじゃん?」
 おれが言うと、よっちゃんは「ああ」とこっちを見てニッコリした。
「部活やってたらすっごい風が吹いて、サッカーゴールが倒れてきて、大山くんが下敷きになったんだよね」
「そうそう。あん時十二月初めで、全治一ヶ月って言われてたから、本当はクリスマスには、病院にいるはずだったんだよ」

 おれの『ダイハード』な体験談だ。ひどく頭を打って一時は生命の危機もあったらしい。だけど奇跡的な回復をみせて、数日後には、食事の量が足りないと文句まで言ったそうだ。自分では憶えてないけど。
「んで結局、予定より一週間ぐらい早く退院して。それが二十四日の朝じゃん。その日の夕方ニュースで『サンタクロースが病院を訪問して、よい子にプレゼント』って、おれが朝まで入ってた病院が映ってんの。
 中二なんだから、もちろんサンタなんかまともに信じてないよ。信じてないけど悔しいじゃん。あと半日あそこにいたら、サンタにプレゼントもらえたのに何で退院させちゃったんだよって、親にだんぜん抗議しちゃった」

 よっちゃんは、げらげら笑って
「でもさ、いいじゃない。ちゃんとおうちでクリスマスを迎えられたんだから。きっとそれが一番のプレゼントだよ」
「そりゃそうだけど、やっぱサンタに会いたいじゃん」
「ふうん」
「そりゃそうだけど、やっぱサンタに会いたいじゃん!」
 ついムキになったおれに、よっちゃんはしれっとして言う。
「ぼく、会ったことあるよ」
「どこで?」
「だからぁ、いま話してたじゃない。病院で、だよー」
 よっちゃんもムキになった。口をとがらせオーバーアクションでうつぶせになる仕草をする。
「背中をケガした時だったと思うよ。自分がこうやってベッドで寝てたの憶えてるから。だから、たぶん八歳だよね」

 よっちゃんの背中にはかなり大きな火傷のあとがあった。子どもの頃の傷なのだそうだ。夏に友人たちと行った海で少しだけ聞いた。よっちゃんは自分が小さい頃の話をあまりしない。いい思い出がないのかもしれない。
「赤い大きな男の人が、いきなり入ってきて。何か大きな声で叫んだんだよ。ぼく、それがものすごく怖くてさ。泣いちゃったんだ。わーって」
「怖くて?」
 うん、とよっちゃんはうなずいた。おれ、正直「失敗した」と思った。楽しい話題のつもりだったけど、かえってよっちゃんに、子どもの頃のイヤな話をさせてしまった。
「……あのね。クリスマスって、よく知らなかったんだよ。サンタクロースも知らなかった。だからいきなり来られた時、めちゃくちゃ怖かったんだ。あとで看護師さんが意味をおしえてくれて、やっとわかった」
 よっちゃんが、照れたように笑う。
 クリスマスやサンタクロース。別にクリスチャンでなくとも、普通の子どもだったら普通に知ってるよ。ましてや八歳にもなればさ。よっちゃんは明るく笑ったけど、おれの心はちょっとチクリとした。
 あらためて中二のクリスマスを思い出した。そういえばあの時、母ちゃんもよっちゃんと同じことをおれに言った。
「家でクリスマスを迎えたんだから幸せでしょう。入院していて家に帰れない子は、何人もいるのよ。あんたはいつもそうやって考えなしにものを言う」

 気づくと、よっちゃんは生真面目にリストの確認作業に戻っている。おれも慌てて、よっちゃんの横から書類を覗きこんだ。
「あれ?」
 リストの最後にある申込者の名前には『石橋絵里』と書かれている。石橋さんの中学一年生になる娘さんの名前だ。
「なあよっちゃん。この名前ってさ、ひょっとして石橋さんとこだよな」
 書類の内容から推測すると、どうやら仕掛人が絵里ちゃんで、サンタが贈るプレゼントの相手は、石橋家を訪れている彼女の小さな従姉妹たちらしい。
 よっちゃんが力なくうなずく。
 ああ、わかった。と思った。よっちゃん、これに気づいて、それでイヤがってたんだ。親戚にこんな格好で会うのは、やっぱりちょっと気恥ずかしいもんだよな。
「大丈夫だよ、おれがいるから。それに、親戚の兄ちゃんがサンタクロースと一緒に来るなんてめったにないことだし、すごく喜んでくれるんじゃない?」
 おれはつとめて明るく言った。けどよっちゃんは、まるで聞いてないかのようにリストをぱたんと閉じて立ち上がった。
「もうそろそろ時間だよ。早く始めようよ。大山くん」

 * * *

  サンタの訪問はかなり順調にすすんだ。さまざまな歓迎を受けながらあっというまに時間は経った。八時半をすぎて、よっちゃんが持つ袋はもうとっくにぺしゃんこだった。おれの袋の中身も残り少ない。
 小さな児童公園でひと休みすることにした。
 残念ながら、今夜はホワイトクリスマスにはならないみたいだ。だけどそのかわりに、降らんばかりの星がおれたちの頭上にきらめいている。
「滑り台!」
 よっちゃんは軽やかに上まで登り、立って夜空を見上げた。
「きれいだねえ」
「うん」とおれもうなずいて、袋をそばに置き、滑り台の降り口に腰をかけた。
 白ヒゲをはずしながら空を眺める。しばらくして上からよっちゃんの声がした。まるで歌うようなイントネーションだ。
「大山くん、ぼくの思ってたとおりだった。サンタクロース、ぴったりだったよ」
「うん?」
「さっき、話したでしょ。サンタクロースの出てくる映画」
 ああ確か、ナントカの奇跡ってやつだ。
「お話の中でサンタクロースが言うんだ。自分は、シンボルなんだって」
「シンボル?」
 おれがふり仰ぐとよっちゃんは、うん、とうなずいて、そして一気に言った。

「I'm a symbol of the human's ability to suppress the selfish and hateful tendencies that rule the major part of our lives.」

 当然ながら、おれにはまるで聞きとれない。
 おれが首をかしげると、よっちゃんも同じようにちょっと首をかしげて「あ、ごめん」と、ニッコリ笑った。
「えっとね……『自分勝手や憎しみばかりが支配する世の中で、人々にとってわたしが、それを止められる力のシンボルなんだ』って」
「ふうん」
「もし、サンタクロースを信じることのできない人がいたら、その人の人生は、疑いだらけの寂しいものになってしまうんだ」
 よっちゃんは、また空を見上げた。
「今夜、子どもたちみんな大喜びだった。大山くんはまるで、サンタクロースそのものだったよ。大山くん、やっぱりシンボルだ」
 いやいや、ただコスプレが似合うってだけのやつによっちゃん褒めすぎだよ。おれは無性に照れくさくなって身体を丸め、自分のでっかい口をまた白ヒゲで隠した。
 体格を考えなかったら、心優しいよっちゃんの方がよほどサンタにはふさわしい。おれが、正直にそんなふうに言うと、よっちゃんは笑いながら応えた。
「ぼくは、サンタクロースにはなれないよ」

T002

 その声がやけに寂しく聞こえ、思わず後ろに向き直ろうとして、ドンと衝撃を受けた。
「うわあっ!」
 よっちゃんの顔が間近だった。上から滑り下りてきたんだ。
「何すんだよ、よっちゃん」
 そう言いながら立ち上がろうとしたとたん、互いにバランスを崩した。「おっとと」と、たたらを踏んだあげく、もつれるように二人で地面に倒れこんだ。
 慌てて起き上がり、土をはらう。
「もーっ。危なかったよ。よっちゃんちょっと気をつけろよ」
「ごめん、ごめん」
 よっちゃんはけらけらと笑った。
 冗談抜きでいま危なかった。もし白ヒゲをつけてなかったら、よっちゃんとおれ、危うくチューしてたとこだった。
 袋を拾い上げ、気を取りなおして、おれは明るく言った。
「さあて、あと三軒。帰ったら打ち上げの宴会も待ってるし、ラストは石橋さんちだよ。よっちゃん、盛り上がっていこう!」
 よっちゃんが、急に静かになった。
「……大山くん」
「ん? 何?」
 おれが返事をしたのに黙っている。
「よっちゃん、何だよ?」
 さっきから、石橋さんの話になるとよっちゃん、どうも変だ。
「ううん、なんでもない」
 よっちゃんは、スタスタと先に行ってしまった。

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見上げた空は 3

T006

 * * *  ≪ 3 ≫

 残りの二軒分を順調にすませた。
 いよいよラストの訪問だ。おれとよっちゃんはゆるやかな丘を越えて、上から四軒めだという石橋家へと急ぐ。ささやかなイルミネーションと門扉に貼られたポスターが目に入った。見覚えのある上品な日本家屋だ。立ち木の下に二つの人影があるのが見えた。
「サンタさんですか?」絵里ちゃんの声。もうひとりはどうやらお母さんのようだ。
「そうです。こんばんは」
 おれはそう応えたが、隣にいるはずのよっちゃんの返事がない。あれっと思ってふり向くと、数歩下がった後ろに突っ立っている。
「ごめん大山くん。やっぱりぼくここで待ってる」
「へっ?」
「向こうで待ってる」
「ええっ、な、何だよ、よっちゃん!」
 よっちゃんは返事もせず、踵を返して走っていってしまった。途方に暮れたけど、ここでオロオロしても仕方がない。おれひとりで門の中に入った。

「あのう、すみません。三人分って言ってたんですけど、ひとりキャンセルってできるんでしょうか」
 絵里ちゃんが、すまなそうな声でおれに訊ねた。横からお母さんもフォローする。
「この子の父親の分も頼んでいたんです。だけどまだ仕事から帰ってきてなくて」
 なるほど、隣の駐車スペースに紺のBMWは停まっていない。石橋さんの精力的な仕事ぶりをみると、この時間に帰っていないのは普通なんだけど、今夜ぐらいは早く帰ってくれてもいいのにな。
 申込みリストには確か「小学校高学年向け希望」とあった。絵里ちゃんにとって、きっと父親相手の遊びごころだったんだろうけど、渡す相手がいないんなら仕方ない。おれは「いいですよ」と応えた。
「サンタクロースがじかに手渡すことに楽しさがあるんですから。それにお父さんだったら、あとから学習帳なんかもらったって、あんまり嬉しくないだろうし」
 絵里ちゃんは、ほっとしたように笑った。
「そのかわり、ネクタイを置いておくことにします。こっそり枕もとに」
「ああ、そっちの方が、きっと喜びますね」

 絵里ちゃんもお母さんも、おれとは気づかないみたいだ。そりゃ一度会ったきりだし、今夜のおれはサンタクロースだ。特に、みんなに言わせるとおれのチャームポイントらしいでっかい口も、いまは白ヒゲの下に隠れてしまっている。
 でも、あの夏の盛りに冷房のない倉庫で、一昼夜かけて資料を探さなくちゃならなかった時の、冷たいスイカやジュースの差し入れなんかとてもありがたかった。シャワーを貸してくれて、新しい着替えも用意してもらえたのも嬉しくて、そのとき感じた印象は、今夜もそのままだった。

T002

 お金を三人分払う、というお母さんの申し出はありがたくお断わりした。二人が家に戻ったあとにおれの出番だ。白い袋をわっしと担いで玄関から居間まで一気に突入した。
「メリークリスマース!」
 居間では絵里ちゃんとお母さんと、叔母らしい若い女性、そして小さな従姉妹が二人のかわいいパーティをやっていた。女の子たちはサンタの登場に「キャア!」と嬉しい悲鳴をあげた。そしてプレゼントの飛び出す絵本に狂喜し、歌をうたい、おれとの写真を何枚も何枚も撮った。
 玄関先で子どもたちとじゃれあいながら、苦労して靴を履こうとしていた時、からりと玄関の引き戸が開いた。
 ひんやりとした外の空気をまとわりつかせて、石橋さんが帰ってきた。

「あっパパ、おかえりなさい!」
「声が外まで丸聞こえだったぞ。いったい何かと思ったら、サンタクロー……」
 そこで石橋さんはおれの顔に気づいたらしく、小さく「あれっ」と言った。
「メ、メリークリスマス!」
 立ち上がり慌てて大声で叫んだ。子どもたちの前で今夜のおれは、あくまでもサンタクロースだ。
「メリークリスマス」
 石橋さんもそれがわかったんだろう、知らないそぶりで笑顔を返してくれた。
 おれは石橋さんを家に上げようと、急いで身を交わし玄関を大きく開けた。ふと引っぱられる気配にふり向くと、絵里ちゃんがおれの服の裾を持ちいたずらっぽくおれに目配せをしている。あっと思って、おれは袋に残っていた最後の包みを取りだした。
「お父さんにも、サンタクロースからのプレゼントだよ!」
 そう言いながら石橋さんに手渡した。コートを奥さんに預けた石橋さんが「何だろう?」と包みを開けると、大きなヒマワリが表紙の学習ノートと、十二色の色鉛筆が出てきた。
「ちょうどノートが欲しかったんだ。おお、ヒマワリの写真が見事だね」
 笑いながらそう言う石橋さんに、家族みんながどっと湧いた。

「サンタさーん、来年もまた来てねー」
 そんな明るい声に送られて門を出た。楽しい余韻を味わいながら空っぽになった袋を担ぎなおし、坂の上に足を向けようとすると
「大山くん」
 不意に、よっちゃんの声がおれを呼んだ。
 よっちゃんは、門から出たすぐの暗がりに、小さくしゃがみこんでいた。
「よっちゃん、何してんだよこんなとこで!」
 おれは思わず声をあげた。
 暗くてよっちゃんの表情はわからない。石橋さんちの窓に飾られた色とりどりの明かりが、生け垣越しに目に入ってくる。
「いきなり戻っちゃうから、おれ驚いたんだぜ?」
「……ごめんなさい」
「いったいどうしたんだよ。そんなにこの格好で会うのがイヤだった? 別に何でもなかったのに」
 路上で声をひそめて話していると、後ろの方で石橋さんちの玄関がまた開いた気配がした。よっちゃんがはっと息を呑む。ふり向くとスーツ姿をラフなカーディガンに着替えた石橋さんが道に出ていて、「大山くん」と、おれに声をかけた。
「あ、はい」
「ああ、やっぱり君だったんだ。ハンサムなサンタクロースだと思ったよ」
 そう言っていつもの、人好きのする温和な顔で近づいてきた。

「ボランティアなんだってね、いま家内と娘から事情を聞いたよ。夏にうちの会社でバイトしてた子だよって言ったら驚いてた。わたしの分の参加費を支払ってないそうだね。まだ近くにいるかと思っ……」
 そこまで言って石橋さんは、暗がりのよっちゃんに気づいたらしい。
「……よっちゃん?」
 よっちゃんはうつむいて、力なく立ち上がった。石橋さんがゆっくりと近づく。
「……そうか。よっちゃんも一緒だったのか」
「ごめんなさい」
 よっちゃんは、走りだそうとしておれの胸にどすんとぶつかった。よろめくよっちゃんを石橋さんが「おっと」と支えた。よっちゃんはつかまれた手を振りほどくように強くもがいた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい。ぼく、会ってないから。ここまで来たけどおうちの人には会ってないから」
「わかってる。わかってるよ」
 石橋さんが小さな声で応える。横で見ていたおれは混乱した。よっちゃんとおじさんの会話、意味がなんだかよくわからない。
「大山くん」と、石橋さんが言った。
「はい」
「すまないが、先に行っててくれないか」
「あ、はい……」

 おれは慌てて坂道を登った。なんだか妙に気持ちがざわついた。一気に上まで行って、坂の反対側に下りかけたところでふと立ちどまった。
 おれ、親戚だっていうから呑気に考えてたけど、もしかして、石橋さん以外の家族とはうまくいってないのかもしれない。でないと施設にいたりしないだろう。石橋さんひとりでも大丈夫だろうか。さっきのよっちゃんはちょっと普通じゃなかった。やっぱりおれも、一緒にいた方がいいんじゃないか。
 また慌てて引き返した。坂の上に着くと、必死で前方の路上へ眼をこらす。
 暗がりの中で抱き合っていた。
 ……よっちゃんと、石橋さんが。

 * * *

 胸にどっと突風が吹いた感じだった。
 自分が袋を取り落としたのに気づいて、慌てて拾い上げた。そのまま反対側へ走って下りた。もう一度確かめたいと思ったけど、再び見る勇気もなかった。きっといまのは目の錯覚に違いない。そう心に言いきかせながら、おれは機械的に足を動かした。H班と待ち合わせた場所までの道を、ひたすら歩くことに専念した。
 いや別に錯覚じゃなくてもいい。だってよっちゃんのまわりには外国人留学生がたくさんいる。石橋さんも、かつて外国に住んだことがあるって聞いてる。おれにはショックだったけど、きっと彼らにとってはハグなんて日常茶飯事で、別に珍しいことじゃないんだ。必死でそう考えようとした。
 いきなりおれの膝が、ガクンとくだけた。

「うわあ!」
 びっくりしてふり返ると、よっちゃんがすぐ後ろで「エヘッ」と笑っている。よっちゃんはおれに膝カックンを仕掛けていた。おれ、自分でも知らないうちに立ちどまっていたらしい。
「ああもう、何すんだよ、よっちゃん」
 ちょっとだけ息を切らして、よっちゃんはいつもみたいに笑っていた。よっちゃんは「ひとりで先に行かせちゃって、ごめんね」と謝ったあと
「おじさんから参加費の千円、もらったよ」
 とお金を出し、集金用の封筒に入れなおして、上着の内ポケットに収めた。

 おれたちは並んで歩きだした。よっちゃんが、さっきと反対側のポケットから千円札を三枚引っぱり出し、おれに見せた。
「それからね、おじさんからおこづかいもらっちゃった。お腹すいただろうから、帰りに大山くんと温かいもの食べなさいって。あとで一緒に、ラーメンか何か食べに行こうよ」
「あ、う……うん」
 おれは、何と応えていいかわからなくて、ぎこちない返事をした。やっぱりざわざわした気持ちは治まらなかった。よっちゃんが、不意に立ちどまった。
「大山くん」
 おれも、立ちどまった。

 よっちゃんがおれをじっと見た。水銀灯の明かりがよっちゃんの顔を白く照らした。美しい影が顔に落ちている。
「さっき……見た、でしょ?」
「……うん」つい、そう返事をした。
 よっちゃんは、少し笑った。
「愛人なんだ」
「うん?」
「あの人、本当のおじさんじゃないんだ」
「うん? ん?」意味が、わからない。
「血の繋がりは、ないの」
 歌うような抑揚をつけて話す。
「あの人と、セックスしてお金をもらってるの。毎月。三千円とかじゃなくて、すごくたくさん……」
 そしてよっちゃんは、また笑った。
「ぼく、あの人の、愛人なんだ」
 おれの頭の中で、ようやく焦点が合った。

Tc0103
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見上げた空は 4 par.1

T005

 * * *  ≪ 4 ≫

 【 parenthesis 1 】

 今夜じゅうに、企画書をひとつ書かなければならなかった。
 手早く食事をすませてしまうと、石橋遼一は書斎の椅子に腰かけた。
 自分がワーカホリック気味なのはわかっている。それ以外なら、健康には気をつかっているつもりだった。
 妻と娘が「メタボリック症候群だ!」と腹を指差して笑うが、ある程度の肉付きは年齢的なことで、毎年の健康診断もクリアなものだ。
 煙草を一本取り出す。そんなわけだからここ数年、吸うのをほとんどやめてはいるが、この一本だけは、新しい仕事に入る前の欠かさぬ儀式となっていた。

 ライターを机の引き出しに戻そうとしながら、石橋はふと思い立った。
 確か、あったはずだ。
 石橋はくわえ煙草で腰をかがめ、引き出しを探ってみる。
 いちばん奥のすみで冷たく硬いものが指の先にふれた。なめらかな感触だが一部がギザギザと尖っている。それを手元に引き寄せた。クリスマスツリーの飾りに使う小さな天使の人形だった。陶器製で、片方の羽が折れて欠けている。
 石橋は、人形を手のひらに乗せ、その欠けて尖った部分をゆっくりと親指の腹でなでた。先に残る小さな汚れは石橋の血だ。
 こんな思いにかられるのは、さっき抱いた彼の背中の感触のせいかもしれない。何年も前に通り過ぎたはずの痛みがよみがえって、石橋は自嘲気味に少し笑った。

 これで殴りつけられたときには、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
「いったいぼくを、何だと思ってんだよ」
 泣いてそう叫ぶ彼に、あのとき石橋は耳元で何度もささやいたのだ。

 愛している、と。

Tc0301
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見上げた空は 5

T007

 * * *  ≪ 5 ≫

  すぐにH班のワゴン車と合流した。お互い空いたところに座ったから、よっちゃんとおれは席が離れてしまった。
 おれはよっちゃんの言葉を「まじ?」って確かめたくてやきもきしてたのに、車の中は今夜の武勇伝で盛り上がっていて、全然そんな雰囲気じゃなかった。
 集会所に着くと、早く帰ったほかの班がすでに車座になって宴会を始めていた。おれが隣の部屋で普段着のパーカとジーンズに着替えているあいだに、それぞれ空いてるところに座らされたので、よっちゃんとはまた席が離れてしまった。
「まあ一杯、一杯」と、せわしく紙コップを渡され、おれとよっちゃんには一応未成年ということでジュースが注がれた。乾杯がされて、クリスマス用オードブルや熱いシチューがどんどんまわってきた。

 よっちゃんは居合わせた留学生グループの中にいて盛り上がっていた。おれは気後れしてそっちには全然近づけなかった。他の人とたわいもない話をしたけど、それもいまいち乗れなくて、ひとりで壁によっかかってビールの缶を開けた。
 おれの頭の中ではよっちゃんの「愛人なんだ」って言葉が、グルグル回っていた。愛人ってことは要するに不倫関係だ。不倫、フリン。もしそれが本当なら、あんなにあの家に行きたがらなかったのが理解できる気もした。不倫している相手の奥さんや子どもに、誰だって会いたいはずがない。
 いやしかしそれにしても、石橋さんは五十代の男性でよっちゃんはおれと同じ大学一年生の男子で、男同士じゃないか。オトコドーシ。愛人、愛人、アイジンなんてそーゆー関係はあり得るんだろうか。セックスしてるって、あのよっちゃんが本当にセックスなんかしてるんだろうか。
 ああ、ショック。
 だっておれ、……やったことないのに。

 ふと気づくと、どうやら最初のお開きになったらしい。何人かがいとまを告げ始めている。よっちゃんのまわりも静かになっていて、おれもやっと近づくことができた。よっちゃんは体操座りで、あごを膝に乗せてぼんやりしていた。
 おれは少し驚いた。すごく陽気に笑っていたみたいだったのに、よく見るとよっちゃんはオードブルにもシチューにも、お菓子類にもほとんど手をつけていなかった。乾杯のジュースさえ半分残したままだ。
「よっちゃん。もう帰ろう」
 おれの言葉に返事もしない。
「よっちゃん!」
 つい、きつい調子になる。よっちゃんは意外と素直に「うん」と立ち上がった。
「ぼく、トイレに行ってくる」

 ここからおれとよっちゃんの住む町までは私鉄で四駅。のんびり歩いて一時間ぐらいの距離だ。貧乏学生としてはわずかな金もケチりたいとこだけど、終電には微妙な時間だし、今日はさんざん歩いたあとだからタクシーで帰ろうと思った。
「そこのでかい大学生、残りものを持っていきなさいよ」
 炊出しのお姉さんたちに足止めをくらった。ありがたくオードブルとおにぎりとお菓子をビニールの風呂敷に包んでもらう。あとでよっちゃんと二人で分けよう。そう思いながら集会所を出たけど、よっちゃんはそこにいなかった。
「あれ、よっちゃん?」
 まだトイレかな、と戻ってのぞいてみたけど、そこにもよっちゃんの姿はなかった。慌てて道まで出てみると、はるか向こうにひょろりとした人影がある。なんてこったい。おれはよっちゃんを追いかけながら叫んだ。
「よっちゃーん!」
 そのとたん、よっちゃんが脱兎のごとく駆けだした。

「よっちゃん! どうしたんだよ!」
 おれは驚いて追いかけた。コンパスの差も体力差もあるし簡単につかまえられると思ったのに、なかなかその差を縮めることができなかった。信じられない思いでおれはよっちゃんを追いかけ続けた。右わき腹が痛くなってきたけど止まるわけにはいかない。おれは腹に手を当て押さえながら走り続けた。
「よっちゃん! 待ってくれよ!」
 あれ、こんな感じで主人公がいきなり走りだす映画があったよな、なんて思った。そうそう『フォレスト・ガンプ』だ。主人公って結局どれぐらい走ったんだっけ。げげっ確か、ラストのあたりではアメリカ大陸横断してなかったか?
 おれたちもすでに持久走の様相を呈していた。自宅まで歩いて一時間の距離。これを最後まで走りぬくつもりなんだろうか。それともまさかよっちゃん、ひょっとしてあのガンプみたいにヒゲがぼうぼう生えて、人が後ろから大勢ついて来るまで走るのをやめないつもりだろうか。

 クリスマスのイルミネーションを施した商店街はすでに明かりを消してあり、忘年会の帰りらしき酔っぱらい親父がごきげんでフラついていたけど、よっちゃんとおれの姿を見たとたん驚いて飛びしざった。
 走りながらおれは、やっぱりまた妙なことを考えた。うにたんのことだ。
 うにたんというのはゴールデンハムスターだ。よっちゃんちの隣に住む留学生の李さんが連れてきた。研究用のやつが何かの事情で余ってしまったらしく、結局よっちゃんがもらい受け面倒をみている。
 そのうにたんが大ケガをした。ちょうどおれたちがまだ入学したてで、おれがよっちゃんちに遊びに行っていた春の夜のできごとだった。

「ジュッ」という声が聞こえたので、おれとよっちゃんは何ごとかと、うにたんのケージを覗きこんだ。うにたんの左足はおかしな方向に曲がっていて、ひとめで折れているとわかった。遊んでいて回し車とカゴのあいだに足をはさみ、そのまま自分でポキリとやってしまったらしい。
 それなのにうにたんは回し車に再び乗って、それはそれは猛烈ないきおいで回り始めた。ぶらりとなった足がハシゴ状になった車のすき間に引っかかり、いっそう変な方に曲がる。
「うわあーっ。痛い、痛いよ。うわーぎゃーやめてやめて、ああやめてうにたん!」
 慌ててうにたんをつかまえおとなしくさせたあと、カゴを分解し、回し車に巣箱にトイレなど、足の引っかりそうなものを全部はずしてやっと安心できた。

 翌日、動物病院に連れていった帰り
「それにしても、なんで走っちゃったんだろうねえ。あんなふうに足が折れてたら、本当はものすごく痛かったはずだよね」
 おれがそう言うと、よっちゃんは
「うん、あのねえ。逃げようとしてたんじゃないかなあ」
 そう応えて、抱えたケージを眺めた。
「何かの拍子にね、すごく驚くことがあるんだけど、その時はうにたん、しばらくビュンビュン回し車を回してるんだ。そしてここまで来れば大丈夫かなあって顔しながら、おそるおそる車から降りてくるんだよ。あれってきっと、自分ではずっと遠くまで逃げてきてるつもりなんだよ」
 ゆうべはきっと、ケガをしてものすごく痛かったから、走ってその痛みから逃げようとしたんだよ。
 よっちゃんはつぶやくように言った。
 その時の表情がおれの中で、水銀灯に白く照らされた今夜の顔と、なぜか重なった。

T0043

 とうとう、帰路をほとんど走りぬいた。
 いま下りているゆるやかな坂の、三叉路を曲がってすぐがおれのアパートで、そのまま行って十分ほどのところによっちゃんちだ。
 よっちゃんは走るスピードを落とさないまま、その曲がり角のあたりでちらっとおれの方をふり向いた。そのとたん何かにつまづいたのか、ものの見事に前方にでんぐり返って転んだ。
「よっちゃん!」
 その場にぐったりと座りこみ、はあはあと肩で大きく息をしているよっちゃんに、おれはやっと追いつくことができた。だけどおれも心臓がばくばくで、息も上がってしまっている。両膝に手を当てかがんだまま、しばらくまともに喋れなかった。
「よっ……。だっ、だい、だいじょ……いったい……」
 おれがなんとか口を開いたとたん、よっちゃんが、がばっとおれの腕をつかんで、顔をゆがめ悲鳴をあげた。
「ああ、あし足! 足つった! 大山く……右足つった!」

 * * *

 足がつるまで走るなんて、まったくどうかしてるよ。よっちゃん。
 その場でスニーカーを脱がせ応急手当てをしたあと、おれはよっちゃんを、有無を言わせず自分の部屋に連れていくことにした。
「だから、こんなとこで休んでたって寒いだけだって。こうして食べものもあるし、うちでゆっくり休めばいいじゃん」
 そう言って、いやがるよっちゃんを無理やりおぶった。
 ゆっくりとまた坂道を上がってアパートに向かう。よっちゃんの身体は信じられないくらいに軽かった。これじゃ実家にいるおれの姉ちゃんの方が、よっぽど担ぎがいがあるってもんだ。
「……大山くん」
 よっちゃんが、おれを呼んだ。
「何?」
「ごめんなさい」
「なんで、謝っ、てんだよ」
 さすがにまた息が上がってきた。
「いったいさ、どうし、ちゃったん、だよ。……よっちゃん」
 空気はしんとして、吐く息が白くなった。夜空に星がきらめいている。よっちゃんの手にぶら下がった黄色いスニーカーが、モスグリーンのパーカを着たおれの腹でぽんぽんと軽くはねた。
 よっちゃんが鼻をすすったのが背中で聞こえた。どうやら、息を殺して泣いているようだった。
 石橋さんにプレゼントを渡した時、おれは玄関の戸を大きく開けていた。ずっとあそこにいたんだったら、あの時の会話はよっちゃんにも聞こえていたはずだ。もし「愛人」が本当だとしたら、あの幸せそうな光景はいたたまれなかったことだろう。

 おれんちは鉄筋コンクリート三階建てのボロアパートだ。エレベータなんて文明の利器はついてないから、アパートに着いても、さらに最上階のおれの部屋まで狭い階段を上がらなきゃならなかった。さすがに歩きどおし走りどおしで、おれの足はもうがくがくだった。目の前もなんだかひどくぐらついて、二階まではなんとか上がってこれたけど、とうとう三階の手前の踊り場で足がよろけて転びそうになった。
「ちょ……ちょっと、タンマ」
 壁に手をついて、息を継いでいると
「もう降りる」
 よっちゃんが身をよじるので、おれは意地になってそれを止めた。こんなところで降ろしたくなかった。よっちゃんは前にまわした腕でおれの胸を力なく何回か叩いたけど、かなわないってわかったのか、すぐにだらりと手を下げた。
「ごめんなさい」
 また謝った。さっきからよっちゃんはずっと謝ってばかりいる。
「なんで、よっちゃんが謝るんだよ。よっちゃんが謝ることないよ。よっちゃんが謝ること全然ないよ」

 あの幸せな光景を目の当たりにし何も知らない家族の姿を見て、きっとよっちゃんは罪悪感を感じてるんだ。だからこんなに謝ってるんだと思った。
 でも、それってよっちゃんのせいじゃない。よっちゃんが悪いわけじゃない。たとえ「愛人」が本当のことだとしても。悪いのはあんないい家族にウソをついて、不倫なんかしてるあの石橋さんのはずだ。
 おれの目に、どっと涙が溢れた。

T008

 息を切らしながらようやく玄関のドアを開け、もつれるように二人倒れこんだ。
 貧乏学生のむさくるしい1Kは玄関から上がってすぐに狭いキッチンだ。その冷たい床に横たわったままよっちゃんを見た。二人とも、顔がぐしゃぐしゃだった。
「何で、なんでだよ」
 おれは思わず言葉を吐いた。いったん堰を切るともう止まらなかった。
「何でそんなことしてんだよ。そんなこと、そんな思いまでしてすることないじゃん。そんなつらい思いまでしてすることないじゃん。愛人なんてよっちゃんらしくないよ。そんなんすぐやめちまえよ」
 よっちゃんはしばらく黙って目をつぶり、小さな声で応えた。
「ダメだよ。やめられない」
「何で?」
「何でって……言われても」
 よっちゃんがかすかに身じろぐのを押さえこむようにして、おれは言った。
「おれが、何とかするから!」
 え? というふうに、よっちゃんがおれを見る。
「おれが、何とかするから。お願いだから……石橋さんなんかとそんなことするのやめてくれよ!」

 よっちゃんはしばらく黙ったあと、おれから離れてゆっくりと身を起こした。スニーカーの残ったもう片っぽのひもをほどきにかかる。二人とも床に倒れたまま靴も脱いでなかったことに、おれはやっと気がついた。よっちゃんが背中をこちらに向けたまま言った。
「大山くん、セックスする?」
「え?」
 聞きかえすおれに、もう一度言った。
「大山くん、ぼくとセックスする?」
 おれの声が掠れた。
「おれは、おれはそういうつもりで言ったんじゃ……」
「そういうつもりじゃないの? 何とかって」
 よっちゃんがふり返る。黒い瞳が刺すようにおれを見た。
 おれは返事ができないでいた。
 急によっちゃんは「うぅ」とくぐもった声を出し、口を押さえて立ち上がった。おれは突き飛ばされて尻もちをついた。よっちゃんはそのまま流しに顔を突っこみいきおいよく蛇口をひねる。水の音に混じり、激しく嘔吐する音がした。
 まるで、おれを拒絶する音に聞こえた。
 しばらくして水が止まると、よっちゃんは大きく息を吐きながら、その場に座りこんだ。そして、そのままゆっくりと横たわり身を丸くした。
「……よっちゃん?」

 おそるおそる声をかけたけど返事がない。慌てて自分も靴を脱ぎ捨て、顔をよせて息と脈拍を確かめる。規則ただしい息だ。どうやら眠っただけらしい。おれはよっちゃんを抱えようとした。さっきと違ってずいぶん重く感じた。おれの力が抜けちゃったせいかもしれない。やっとの思いで部屋の狭いパイプベッドに移した。上着を脱がせて、もう大丈夫とは思ったけど一応、吐いた物がつまらないように横に向けて寝かせた。
 水にぬれた顔をそっとタオルで拭いた。布団を肩まで引き上げてやり、その中に入れようとはみ出した手を握る。よっちゃんの手は白くて細くて冷たかった。
 また、涙が出てきた。
「何とか」なんて簡単に言って、どうするつもりだったんだろう。おれ何も事情を知らないのに。よっちゃんのあんな眼を見たのは初めてだった。あんな口調も初めてだった。きっと嫌われたに違いなかった。
 考えなしな自分の、浅はかさを恥じた。

 * * *

 なのに翌朝、よっちゃんは「おはよー」と、やたらスッキリした顔で起き上がった。
 どてらを被ったまま床にじかに寝ていたおれを見つけると「ベッドを取っちゃってごめん」と、慌ててお湯をわかし、ティーバッグの紅茶をおれの分まで入れてくれた。おれがぼーっとしているあいだに、よっちゃんは、昨夜さんざん揺らしてぐちゃぐちゃになったオードブルと、おにぎりとお菓子を食べた。
「うにたんにクリスマスプレゼントを上げるから、ぼくもう帰るね」
 明るくそう言うと、よっちゃんはいつものようにニコニコしながら帰っていった。おれはそれを呆然として見送った。

 あからさまに嫌われている態度じゃなくて幸いだけど、うまくはぐらかされた感じもした。ひょっとしたらすっとぼけて、あえて何もなかったふりをされているんだろうかと思った。
 玄関脇の鏡に映る腫れぼったい自分の顔が、どうにもこうにも情けない。
「……いったい何なんだよ。よっちゃん」
 思わず、そうつぶやいた。

Tc0104
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見上げた空は 6

T009

 * * *  ≪ 6 ≫

 この界隈はいわゆる学生街だ。昔は交通の要所だったらしく古い町並みがそこかしこに残っている。JRと交差した私鉄の駅近くに住宅が集中し、その周辺の広い地域に、規模のさほど大きくない短大や大学が点在していた。おれたちが通っている福祉系大学もそのひとつだったりする。
 おれは大学構内にある映画研究部の部室へ足をのばした。目的は黒木だ。
 部室はとにかくガラクタでいっぱいだった。壁のスチール棚には、歴代の先輩が残した八ミリフィルムやVTRや資料や小道具が雑然と詰めこまれていて、その反対側には粗大ゴミのごときテレビやデッキ類がトーテムポール状に積み上がっている。そんな部屋の中央に鎮座したレトロな応接セットにゆったりと腰かけ、これまた古そうな石油ストーブに当たりながら、黒木はまた本を読んでいた。

「うぃーす」
 おれの声に、黒木は文庫本から眼を離さないまま、片手をちょっとだけ上げて言う。
「サンタは、成功だったか?」
「あ……うん。まあまあ、かな」
 おれは、しばらく黒木の様子をうかがったあと、おそるおそる切り出した。
「……あのさ、黒木くん」
「うん?」
 黒木がわずらわしそうに髪をかき上げる。おれはちょっと口ごもった。
「……をテーマにしたので、何かいい作品ない……かな」
「何? 何をテーマに?」
 思いきって口に出す。
「あ、あの、あ……愛……人、を」
 黒木が本から顔を上げ、黒縁メガネの眼を大きくむいた。
「なんだって、愛人だって? ……宇宙人、じゃなくて?」
「うん」
「地底人、じゃなくて?」
「うん」ああもう黒木、しつこい。
「だからぁ、特撮やアクションばっかりじゃなくて、そういう人間を深く描いたような作品も見ろって普段、黒木くんが言ってることじゃん。せっかく脚本のために勉強しようとしてんじゃん、お願いだから水を差すなよ」
 黒木はおかしそうに含み笑いをしたあと、文庫本を閉じてあごに手を当てるポーズをとった。
「一言で愛人ものって言っても、組み合わせによるよな。大山、どういう組み合わせがいいんだ?」
「え?」
「伴侶のほかに愛人とすると、要するに三角関係なわけだろ。女一人に男二人か、男一人に女二人かで内容はずいぶん違う」

 おれはちょっと考えて「男二人に、女一人」と応えた。黒木が、ふん、と得意げに鼻を鳴らす。
「厳密にいって愛人ものでなくても、観るべき作品として挙げるからよく聞けよ。
『郵便配達はニ度ベルを鳴らす』『「ダイヤルMを廻せ』『生きるべきか死ぬべきか』『ダメージ』『嘆きのテレーズ』『シャンドライの恋』『隣の女』『コックと泥棒、その妻の愛人』『竜馬の妻とその夫と愛人』……」
 そんなにナントカのナントカとナントカのナントカって一気に言われたって憶えられないし、根本的な間違いにも気づいて、おれは途中で遮った。
「あっごめん黒木くん。男一人に、女……が二人だ」厳密には、違うけど。
「それからさ、これぞオススメってやつ一本だけでいいや」

T0043

 黒木は「一本だけ?」と、ちょっと不満そうに顔をしかめたあと
「一本というなら、おれはカウフマン監督の『存在の耐えられない軽さ』を推薦するな。三人の男女の関係と『プラハの春』をからめ、まさに三時間もの長丁場を見事な脚本と演出と役者の力で乗り切っている。官能的な映像表現もじつに巧みだ。それに愛人役レナ・オリンの最後のセリフは深いぞ。肉体的関係がないから友人、あったら愛人だなんて、そんな単純な括りで人間関係は語れないって……」
「ああっ黒木くん、もういいや」
 黒木の『ナントカの耐えられないナントカ』に対する講釈には、もはやこっちが耐えられない。
「もういいって何だよ。人にさんざん喋らせといて」
 黒木が眉間にしわをよせる。
「それにさ、量からいえばたぶんこの、男一人女二人を描いたパターンの方が多いんじゃないかと思うぜ。まあ、作品の良し悪しは別としてさ」
「多いって、なんで?」
 おれが聞くと
「だって、基本的にはこれまで世界じゅうで男中心の社会が続いてたじゃないか。女が間男を作るより、男が浮気をしたり妾をとる方が圧倒的に多かったはずなんだ。国によっては一夫多妻制というのもあるし、日本だってわりと最近まで『浮気は男の甲斐性』『めかけ手かけは男の働き』なんて、言われてたくらいだ」
「メカケテ……何?」
「『めかけ手かけは男の働き』だよ。正妻のほかに愛人を作れるのは金と力に余裕のあるやつで、要するにデキるやつってこと」
「はあ……」
「その場合、当の妾にしてみても経済的な援助を旦那から受けている……つまりさ、金で飼われてるわけだから、要するにどちらも納得ずみってこと。そんなのに周囲があれこれ、とやかく言う筋合いはないって意味さ」
「……金で?」
「飼われてる、だよ」
 おれの頭の中には、またよっちゃんのあの白い顔が浮かんでいた。
「黒木ごめん、映画はもういい」
 おれは逃げるように、部室をあとにした。

 * * *

 これは夢だと、始めから自覚はあった。
 おれは仰向けで眼をつぶったまま、下腹部にもやもやとした快感を感じていた。「ああ、おれ最近ヌイテなかったからこんな夢見てるんだなぁ」なんて考えつつ眼を開けると、細くて白い腰がおれの下半身に覆いかぶさり律動していた。
 不思議と、夢の画面のあちこちにボカシが入ったようになっていて、そのあたりに眼をこらそうとしても目蓋が重くてたまらない。おれは必死になって、自分にまたがる柔らかそうな身体に両手を伸ばした。
「ああ、ン……」悩ましげな声がした。よっちゃんの声のような気がした。

「よっちゃん?」
 そうだ。よっちゃんのことが、一日じゅう気になっていた。「やめられない」っていうのはやっぱり昼間に黒木が言ってたように、お金の問題があるんだろうかとおれは思った。
 心配だった。ちゃんと話をしたいけど、実はあいつ携帯電話を持っていない。家にもないから話をするには直接行くしか手段はない。でも、そうやってじかに会うことを考えるとやっぱりためらわれた。昨夜のこともあるし、本当は会うのが怖い気もしていた。

T010

「よっちゃん?」
 おれの手が、その白い足のつけ根に触れたと同時に視界が開けた。
 よっちゃんの、これまで見たこともなかった表情がそこにあった。眉をひそめ眼をつぶり、額に汗をかいている。頬が紅潮し小さく開けた唇からは白い歯がわずかにのぞいて、そして絶えず声があがり続けていた。不思議な光がどこからか当たっていて、それの作り出す陰影が、よっちゃんをいっそう凄絶な妖しさへと導いていた。
「よっちゃん、やめてくれ!」
 思わず叫んだおれに、よっちゃんは返事もせず腰を動かし続けた。おれは止めようと腕に力をこめたけど力はまるで入らず、反対におれの下半身の抵抗が効かなくなった。
 波のように何度も押し上がってくる快楽にいつしか、おれはよっちゃんと一緒に必死になって動いていた。大きな快感がうねって押しよせ、いきなり眼の前が白くなると、おれは頭から足の先まで、じんとしびれるような感覚に襲われた。
「ああぁあ……っ」
 まるで絞りだしたような自分の悲鳴で、目がさめた。

 枕もとの時計は深夜の三時をさしている。冬のしんとした寒さの中、おれは全身にじっとりと汗をかいていた。おれは「あぁ……」とため息をついた。下腹部に違和感があった。下着に手を入れて確かめるとやっぱりだ。やっちゃった。
 おれは寝間着を脱ぎ捨てユニットバスに向かった。
 照明をつけ、トランクス一枚になって空のバスタブに入った。シャワーのコックを回し、冷たいままの水を下半身にかける。たちまち全身に鳥肌が立った。水で流しながらトランクスを脱いでそのまま足で踏みつける。身体は冷めて震えがきた。歯の根もあわずガチガチと大きく鳴った。おれはつい「くそっ」と、つぶやいた。

 夢で見たよっちゃんがまだ眼の前にちらついていた。まるで陶酔しきったような艶めかしい表情だった。自分が知らないところで、よっちゃんはあんな顔をしてるんだろうかと思った。石橋さんの上にあんなふうに乗って、ああいう感じに声をあげたりするんだろうかとも思った。
 そんなモヤモヤとした考えが頭をよぎったとたん、急激に自分の身体が反応するのを感じた。冷たいシャワーは何の役にも立たなかった。おれは信じられない思いで、猛り立った自分の下半身を眺めた。
「ああ、くそっ」
 もうどうにもこうにも耐えられなかった。ようやく温水になりはじめたシャワーを止め、おれは背中を丸めて狭いバスタブの中に座りこんだ。
「よっちゃん、ごめん」
 そうつぶやいて、おれは自分のそれに手をかけ、激しくしごき始めた。
 おれは、そっちの方とかじゃ決してない。ないと思う。確かに女の子とつき合った経験はないけど、それは単に高校が男子校だったせいだ。もちろんいまの学友たちにも、ましてや黒木なんかにもそんな感情はまるでわかない。おれはあくまでもノーマルのつもりだ。
 だけどいま、おれが夢中で自慰をしながら頭の中に思い浮かべているのは、よっちゃんの淫らな姿だった。

 おれは想像の中でよっちゃんにいろんなことをした。経験のないおれだったけど、それでも思いつける限りのさまざまな媚態をとらせた。細い身体を仰向けにしてのしかかったり、逆に後ろから覆いかぶさったり、横にして背中から抱きしめたり、起き上がって自分の上に座らせたりした。かがませて、おれ自身を口に含ませながら、おれはよっちゃんの柔らかい髪の毛を両手でまさぐった。そうしながら唱えるように名前を呼び続けた。
「ああ、よっちゃん、……よっちゃん、よっちゃん、よっちゃん」
 名前を呼ぶたびにおれの鼓動は昂まった。身体もかっと熱くなり、どんどん絶頂に近づいていった。そしてついに自分の欲望をバスタブに激しくほとばしらせた。

 はっと我に返った。
 白けた照明が、宇宙船のカプセルじみたユニットバスの狭い空間をすみずみまで照らしていた。シャワーからは水がしたたり落ちている。脱ぎ捨てられた下着はバスタブの底でぐしゃぐしゃになっていた。
 何てことをしたんだって思った。
 自分の荒い息と鼓動がしずまっていくのを感じながら、同時におれは自分のまわりの温度までも急速に失われていくような、そんな感覚をおぼえた。

Tc0402
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見上げた空は 7

T011

 * * *  ≪ 7 ≫

 再び寝ついたのは明け方だったのに、翌朝九時前に、黒木にケータイで呼び出された。結局は二度寝をしてしまったから、部室へ行ったのは昼近くだ。
 まだ眠い目をこすりつつ「いったい何だよ、黒木」と、言いながらドアを開ける。
 ソファからはずむように立ち上がったのは、黒木ではなくよっちゃんだった。おれの顔は、かあっと熱くなった。
「おかえりなさ……あれっ、大山くんかあ」
 ニッコリするよっちゃんに、おれはうつむいてぼそぼそ「おはよう」と返事をした。昨夜のあれのせいで、よっちゃんの顔をまともに見ることができない。
「黒木くんが、お昼ご飯を買いに行ってるあいだ留守番してるんだ。ストーブいったん消すと、部屋の中が石油臭くなるのがイヤなんだってさ」
 人を呼び出しといて留守はないだろう、黒木。そう思ったけど、自分の方がこんなに遅れて来たんだから仕方ない。

 部室の中はストーブの熱気で、上着のままだと汗ばむくらいに気温が高かった。
 よっちゃんはマフラーをテーブルに置き、ボーダーの丸首シャツに、先日と同じ茶色のジャケットを軽く引っかけている。ボワのついた襟もとからのぞく首すじが、何だかやけに生々しくて、おれは思わずゆうべの夢を思い出した。
 いきなり下半身に脈動を感じた。
 おれはよっちゃんの向かいの、黒木がいつも座っている席に慌てて腰を下ろした。チェックのネルシャツの裾をパタパタとあおぎながら「あっついなあ」とか言って何とかごまかす。腰まわりに余裕のあるズボンを穿いてて本当によかったよ。それにしてもこんな調子でいちいち反応してたらまずい、まじでまずい。

「あのね、黒木くんから預かってるよ。これを観ろって」
 よっちゃんが、テーブルの上にあった紙袋をおれに差し出した。開けてみると昨日、黒木がやたら熱く語っていた、耐えられないナントカっていう映画のDVDだった。きっとこのままだと絶対こいつは観ない、とでも思ったんだろう。何だかすごく大人っぽい雰囲気のパッケージだったから、それだけでもう気恥ずかしかった。
「大山くん。それ、何の映画?」
 よっちゃんがそう言いながら、興味深げに身を乗りだしてきた。うわあ、胸もとをそんなに無防備に見せないでくれ、よっちゃん。
「ダメ! こ……これは、グログロのゲロゲロのバイオレンスなスプラッターものだから、よっちゃんには無理っ」
 まさか愛人ものだとは、口が裂けても言えないよ。おれはDVDを慌てて自分のカバンに入れる。
 なあんだ、という顔でよっちゃんはソファに座りなおした。
 なんとなく気詰まりな雰囲気だった。いま、あの話……石橋さんについての話をもちかけても大丈夫だろうか。おれは密かに焦った。

T008

 よっちゃんが、マフラーと一緒に置いてあった英和辞典を手にとった。
「あのね、今日はこれを取りにきたんだ。サンタボランティアの日、いろいろやって家に帰ってたら時間がなさそうだったし、ここにちょっと置かせてもらってたの」
「その辞書、いつも持ってるやつだよね」
 無難そうな話題に、内心ほっとしておれが応えると、よっちゃんはニッコリして「うん」とうなずいた。
 英和辞典はかなり古いものらしく、ボロボロになった背表紙をガムテープで補強してある。確か『ペイ・フォワード』で、先生が生徒に「これを持ち歩け」って辞書を配るシーンがあったけど、まじでそれを実践してるやつはそういない。
「これ、後ろの方からは和英になってるからとても便利なんだ。ぼく日常会話は何とかできるんだけどさ、ちょっと複雑になるとやっぱり苦手で。だからなるだけこれ持ってて、気になった言葉があったらすぐ見るんだよ。」
 よっちゃんは、大切そうに辞書のページをめくる。
「あっそうだ、大山くん。イブの日さ、おじさんにお金もらったじゃん?」
 いきなり切り出されて、おれの心臓がドキンとはね上がった。

 よっちゃんはポケットから千円札を三枚取りだす。
「これで、ラーメン食べにいかなきゃなんないんだよ。大山くんは、お昼はもう食べた?」
「ううん」
「じゃあ、これから……あっ」
 よっちゃんはしまった、という顔をした。
「せっかくだから黒木くんも誘えばよかったよね。コンビニから帰ってきたら言おうか。きっと買ってくるのパンだから、それはおやつか晩ご飯にしなよって言ってさ。それともラーメンを晩にする? あっでも夜はぼくバイトだからダメだ。明日にする? 明日のお昼ご飯」
 呑気なことをペラペラと喋り続けるよっちゃんが、なんだか癪にさわった。
「そうそう。そういえばね、黒木くんにも言おうと思ってたんだけど」
 よっちゃんが、また思いついたように話題を変える。
「映画作る時ってさ、機材とかいるでしょう。大山くんそれ、おじさんに頼んでみたらどうかなあ。おじさんの会社なら機材もいろいろレンタルしてるし、ぼくがあいだに入ったら少しは割引してくれるかもしんないから、あそこで借りようよ」

 よりによって何で、あの親父の話ばかり持ち出してくるんだ。しかもこんなにケロッとした調子で。よっちゃんとはそんな話をしたいわけじゃない。おれはだんだん腹が立ってきた。
「やだよ」
 ついきつい口調で言った。よっちゃんがおびえたように言葉を止めた。
「機材、借りるの……イヤ?」
「そうじゃなくてさ」
「……黒木くんと一緒にご飯、イヤ?」
「そうじゃなくてさ」
 ああ、こんなことでイライラしたってしょうがないのに。
「……ラーメン?」
 おれは、とうとう爆発した。
「そうじゃないよ! 何で……何でよっちゃん、あんな思いしたのにそんなに平気でいられるんだよ。何でそんな、はぐらかすような態度とるんだよ。おれが心配したのがバカみたいじゃないか。じゃ何のためにおれにあんな……あんなこと言ったんだよ。そりゃおれは頼りにならないかもしんないけど、そうやってまるで何もなかったようにされると、こっちがたまんないよ。話すなら話すで、ちゃんとあのこと話そうよ」
 よっちゃんの顔がたちまち強張るのがわかった。まずいと自分で思うのに、感情が先にたってどうしようもできなかった。
「デリケートな問題だと思うからさ、こっちだって遠慮して言えなかったけど、やっぱりどうかと思うよ。そんなふうにお金をもらって平気でいるなんて、まるで金で飼われてい……」
 いきなり顔面に、衝撃を受けた。

 おれの膝に英和辞典がバサリと落ち、これをぶつけられたんだと気づいた。マフラーは床に落ち、三枚の千円札もばらばらに散っている。よっちゃんの顔は蒼白だった。立ち上がり唇をわなわなと震わせている。
「バカアーッ!」
 よっちゃんはそう叫んで、おれとの間にあった応接テーブルを突然なぎ倒した。テーブルは石油ストーブに激しくぶつかった。ガシャンと安全装置の音をたてて炎が消える。石油のつんとするいやな臭いがたちまち部屋にひろがった。
 よっちゃんは踵を返すと、荒々しくドアを開けそのまま部室をとび出した。走り去る足音が小さくなるのが聞こえたけど、今日はさすがに追いかけられない。
 よっちゃんのせいじゃなかった。おれが勝手に思いこんだり後ろめたかったり腹を立てたりして、そのイライラを我慢できずによっちゃんにぶつけただけだ。また考えなしにひどいことを言ってしまった。おれはがくりと膝をついた。
 開け放ったままのドアから冷たい空気が入り、たちまち室内の熱気を奪う。
 三枚の千円札が、ひらひらと風に舞った。

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見上げた空は 8

T012

 * * *  ≪ 8 ≫

 黒木が帰ってきて、何でストーブが消えてるんだとか、DVDはちゃんと受けとったかだとかいろいろ言ったけど、ろくに返事もしないでおれは部室を出た。
 よっちゃんが置いてった辞書とマフラーとそれから三千円をカバンに入れ、さんざんほっつき歩いたあげく、夕方、自然におれの足が向いたのは、よっちゃんのバイト先。カルカヤだった。
 カルカヤのある通りの並びには『セントラル』という名前の小さく古い映画館がある。よっちゃんが近くの喫茶店でバイトをしてるって初めて聞いたのも、以前その映画館に行った時だった。
「でも、バイトっていうか、本当、お手伝いに毛の生えたようなものだから……」
 よっちゃんは、ずいぶん照れくさそうで、あまり来ては欲しくないふうに思えた。実はおれも、もし同じ金額を出すならコーヒーよりラーメン食べたい人間だから、先日のイブみたいに特別なことがない限り、あまりここまで足をのばすことはない。
 だけど今夜ばかりは別だった。辞書とマフラーと三千円を返して、一言でいいからあいつに謝りたかった。あんなこと言っちゃって、簡単に許してはもらえないだろうけど。

 狭い階段を二階へ上がり木製のドアを押すと、とたんに若い女性の笑いさざめく声が聞こえてきた。びっくりしておそるおそる見まわせば、窓際にあるボックス席はすべて女性客で埋まり、カウンターにも二つ空席があるきりだ。肝心のよっちゃんの姿は店内になかった。いれば渡してすぐ帰ろうかと思ったんだけど、そんなわけにいかないみたいだ。
「あらあ、いらっしゃいませ」
 ママが気づいて、声をかけてくれた。
「今夜は水曜だから女の園よ。カウンターしかないけどよろしい?」
「あ……はい」
 カウンターもほとんど女性客ばかりだったから、おれは身を小さくして端から二番目の、中年男性の隣に座った。
 一番端っこにいたその男性がふと、こちらを見る。
「あれ、大山くんじゃないか」
 石橋さんだった。とたんにわきの下から汗がどっと吹きだした。
「そ、そそ、その節はどうも」
「先日はおつかれさま。サンタクロースの仕事はうまくいったかい?」
「は、はは、はい。おかげさまで」
 石橋さんは、深紅色の高級そうなネクタイをつけている。ひょっとしてこれ、絵里ちゃんちゃんからのプレゼントだろうか。
 ママに「コーヒー」とひっくり返りそうな声でオーダーをして、おれは一気に水をあおった。
 やっぱり本人に聞くのが、一番早いはずだ。
「よっちゃんの、本当のおじさんじゃないそうですね」
 ……いや、唐突すぎるか。
「よっちゃんって、あなたの愛人なんだそうですね」
 ……もっと、唐突すぎるか。

 石橋さんはいつもの穏やかな笑顔で、学校のことやら部活のことやら聞いてきたけど、おれの返事は全部うわのそらだった。きっと、こいつ変だと思われたに違いない。
 不意に、カウンターの中でのれんがゆれて、その奥のキッチンらしき場所からよっちゃんが出てきた。昼間見たボーダーの長袖シャツに黄色いエプロン姿。手にはこれまた黄色い何かが乗った皿を持っている。
「フレンチトースト、お待たせしました」
 シロップの器と一緒にカウンター越しで置こうとするところに、石橋さんが「よっちゃん、ほら大山くんだよ」と、示してくれて、よっちゃんはやっとおれに気づいた。
「あ……」
「あの、すぐ帰るからごめん。さっきはホントにごめん。……これ持ってきた」
 おれは慌てて、カバンの中からマフラーと辞書を持ち上げた。
 よっちゃんは、すごく嬉しそうにした。
「あれっ、わざわざ届けてくれたんだ。大山くんありがとう」
 違和感を感じた。よっちゃんまたケロッとしてる。まるで何も、なかったみたいに。

T001

「何? どうしたの?」
 石橋さんが、横から口をはさむ。
「あのね、大山くんが、ぼくの忘れものを届けてくれたんだよ」
 ニッコリと笑うよっちゃんにおれは、ああ、と思った。きっと何でもないふうにしたいんだ。この人の前だから。
 おれも、わざとらしいくらいにニッコリ笑って、うなずいてみせた。
 ママが、おれのコーヒーを運んできた。
「ごめんねぇ。レディスデーはいつもこうなのよ、セントラルからお客が流れてくるから、やたら忙しいの。……サンタはどうやら楽しかったみたいね」
 ママにも、ニッコリ笑ってみせた。
「ゆっくりして行ってね。じゃあよっちゃん、カウンターの方をお願い」
 そう言ってママは慌ただしくキッチンに入った。石橋さんがまたおれに話しかける。
「大山くん、ここのフレンチトーストを食べたことはあるかい?」
 以前から、メニューを見て気にはなっていた。でも告白するとおれ、実は『フレンチトースト』って何か知らなかったんだ。けど、聞くのってさ、なんか……恥ずかしいじゃん! だからついそのままになってたんだけど。
「あ、いいえ」
「それじゃあ一度、食べてみたまえ。本当に絶品なんだよ」
「フレンチトーストって、それっすか?」
 石橋さんの前にある黄色い皿に、ついつい身を乗りだしたおれに
「違う違う、絶品はママのだよー。ぼくのはまだ修行中だから、食べないでー!」
 食器を洗っていたよっちゃんが、カウンターの中から大慌てで叫んだ。
 あ、いや、よっちゃん。言われなくても他人の皿からはそんな食べないし。
 いつもだったらこいつの天然ボケって、おれもう最高にウケる。だけどなぜか、この時ばかりはひどく不愉快だった。何だか自分の無知をさらけだされた気がした。
「んな食べねえよー。おれ、そんなに食い意地はってるように見えるん?」
 笑いながらそう発した自分の声が、震えたのがわかった。

T0043

 窓際の席にいた女性三人組が会計レジに並び「おねがいしまーす」と声をかけてきた。よっちゃんが急いで手を拭いてレジに行く。お客のひとりから質問されたらしいよっちゃんの声が、こちらまでとぎれとぎれに聞こえてきた。
「……大学の、部活の友だち」
「……あ、うんそう。映画研究部だよ」
 楽しそうに会話をしたあと、三人組はこちらに軽く会釈をして店を出ていった。よっちゃん、長いことここで働いてるみたいだから、きっと馴染みのお客が大勢いるんだ。よっちゃんにはおれの知らなかった一面がこんなにある。あらためてそう気づいた。
 耳もとでブゥン……とかすかに雑音がする。やばい、耳鳴りが始まった。

 何度もつばを飲みこんでみたけど治まらない。膝に置いた手のひらに汗がじっとりと湧いてきた。おれはその汗を、密かに何度もズボンでぬぐう。
 店内のお客さんが、ぼちぼち帰りだした。石橋さんも立ち上がり、コートを羽織って「お先に失礼するよ」と、おれに声をかけた。おれは「どうも」と返事をしようとしたけど、声にならなかった。
 石橋さんは、レジでよっちゃんといくつか言葉を交わし店を出ていった。カランコロン、というドアベルの音が、不意におれの頭の中のノイズを打ち消した。おれは反射的に立ち上がった。そのままドアに突進し、ものすごい音で階段を駆け下りた。

 石橋さんは通りに出てすぐのところにいた。どたばたというおれの足音が聞こえたのか、けげんそうにこちらをふり向いていた。
「あ、あの……よっちゃんはっ」
 ああ、何を言えばいいんだ。
「よっちゃんは、愛人なんですかっ!」
 どわああ、直球ど真ん中!
 額から汗がどっと吹きだす。石橋さんは、片方の眉をちょっとだけ上げた。
「何?」
「聞きました。あなたの、愛人だって」
「誰が、言ったの」
「……よっちゃんです」
 ほんの少し沈黙が降りた。
「よっちゃんが、そう言ったんだ。君に?」
「……はい」
 石橋さんは、五十代としては普通だろう少し丸みを帯びてきた体格に、高めで張りのある、それでいて柔らかな声を持っていた。それがこの人をひどく好人物に見せる要因だった。だけど短期間ながら下で働かせてもらった時、見かけによらず、この人が相当にしたたかな切れ者だということを、おれは幾度もかいま見ていた。
 石橋さんはコートのポケットに手を入れたまま、ふっと笑っておれを見た。

「大山くん」
 ずい、とおれに近寄ってくる。おれの方が背だって高いはずなのに、石橋さんがものすごく大きく見えて、おれは思わず後じさった。
「確かにあの子の毎月の学費、生活費。経済的な面ですべて、わたしが面倒をみているよ。そしてその見返りといっちゃ何だが、いい思いもさせてもらっている。まあ、これを世間一般から見ると、愛人っていうんだろうねえ」
 気づくと、おれの喉はからからだ。
「こんなこと聞いて、君はどう思う?」
 石橋さんが、逆におれに問いかけてくる。
「……ひどい人だ」
  絞りだすように、必死で声を出した。
「イブの夜によっちゃん、あなたの家の前でどんな思いをしたか、あなたもわかってるでしょう? それに、あなただって家族を……裏切っている」
「そうだね」
「わかってるんなら……」
 石橋さんは笑った。
「大山くん、君は『めかけ手かけは男の働き』って言葉、知ってるかい?」
「……はい」
 掠れた声でおれが応えると
「そう、若いのに感心だ。愛人をつくれるのは金と力に余裕のある人間。働きのある男の当然の権利で、まわりがとやかく言う筋合いじゃない。そういう意味だよね?」
 ふふっと含み笑いをする石橋さんの眼は、ちっとも笑ってなかった。
「君は野暮だね。大山くん」

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見上げた空は 9

T011

 * * *  ≪ 9 ≫

 重い足どりで、カルカヤへ戻った。
 おれは、何も言えないまま石橋さんを見送った。階段の下で、女性客二人とすれ違う。ゆっくり二階まで上ると、よっちゃんが「CLOSED」の看板をドアにかけようとしていた。どうやらいまの二人が最後の客だったらしい。
 おれの顔を見たよっちゃんが、小さく何か言ったけど、うまく聞きとれなかった。さっき治まったと思った耳鳴りが復活している。
「大丈夫?」
 よっちゃんがおれの顔を覗きこんだ。
「うん……大丈夫」
 そう応える自分の声も、ずっと遠くにこもって聞こえた。

 店内に戻って、マフラーと英和辞典とくしゃくしゃの三千円を出し、よっちゃんに手渡した。
「ありがとう」
 そう言ってよっちゃんは、英和辞典を胸に抱える。
「ぼくね、カッとなると何がなんだかわからなくなっちゃう時があるんだ。いけないとはわかってるんだけど……」
 よっちゃんは眼を伏せ、古い辞書の表紙をゆっくりと撫でた。おれはよっちゃんの、その白く細い指を黙って眺めた。
 ママさんが「一緒に帰りなさい」と、よっちゃんを少し早く終わらせた。
 階段を下りたところで、ふり向いてよっちゃんが聞いた。
「大山くんは、電車?」
「うん」と応えた。
 よっちゃんは「ぼくは自転車だから」と、そっけなくおれと反対の方向に向かう。
「じゃね、バイバイ」「うん」
 おれもそのまま、よっちゃんと反対方向に歩いた。向こうから、男二人乗りのチャリが蛇行しながら走ってきた。おれと危うくぶつかりそうになる。
「あっれえ。あそこにいるの、なんかヨシオじゃねえ?」
 よけざまに、チャリの後ろに乗っていた帽子の男の声がそう聞こえた。頭の中の雑音がやむ。背後でキキッとブレーキの音がした。
 思わずふり向いた。映画館の前で、自転車を脇に置いたよっちゃんが、いまの男二人に取りかこまれていた。おれは慌てて引きかえした。
 チャリをこいでいた長髪の男が、よっちゃんの胸ぐらをつかんだ。
「やめろっ!」おれは男がよっちゃんを殴ろうとするギリギリに割って入った。
 男の長髪が一瞬なびいて、右の耳たぶがごっそりとえぐり取られているのが目に入る。男のこぶしはおれの頬をかすり、おれはそのままバランスを崩して、よっちゃんと自転車もろとも道に倒れた。

 ガシャン、と大きな金属音が路上にひびく。自転車の出っぱったどこかがみぞおちに当たって息がつまった。男たちの吐き捨てるような声がした。
「なんだあ、このやろう」
「おい、便所。こいつがお前の新しいコレってわけか?」
 強く背中を蹴られた。けらけらと笑い声が上がった。
「かわいそーに。あの金持ちの中年オヤジは貢ぐだけ貢いで、結局フラれちゃったわけえ」
「そりゃあ、どうせヤルなら若いやつの方がいいよなあ。でないとこいつのことだから満足できねーだろ」
「おーいデカイの。この便所と毎晩ヤッてんの? お前のやつを毎晩こいつにシャブらせてんの?」
 男たちはおれのわき腹にぐいぐいと汚い靴を押しつけてきた。
「こいつすげえウマいだろ。狂ったようにやるだろ。一回ヤルと、もうやめらんないだろ」
「おいデカイの。何か応えろよ!」
 ゴンとにごった音がして、頭から背中にかけ痛みが走った。きっと棒で殴ってるんだろう。何度もおれの背中に激しく振り下ろされてきた。おれは、おれの下敷きになったよっちゃんがどんな状態かもわからないまま、とにかく必死で覆いかぶさっていた。
「こらあ! てめえらなにをやってる!」
 突然、ドスの効いた男の声が、深夜の路上にひびいた。そのあと格闘するような鈍い音に重なり「ぎゃあ」「ひいい」という悲鳴がした。さらにそれが「お、憶えてろよ、このオカマ!」という声と、ガシャガシャと自転車を引きずって逃げる音に変わった。
 やがて静かになった。
 おそるおそる顔を上げると、カルカヤのママが仁王立ちで、あいつらの去った方角をにらんでいた。唖然となったおれと目が会うと、ママは美しい眉毛を八の字にして、困ったように肩をすくめた。

 * * *

 おれとよっちゃんは、ママの住むマンションに連れていかれたらしい。
 らしいというのは、おれは意識がもうろうとしたままで、最初そこがどこなのかよくわからなかったからだ。しばらくソファで横になり、腫れた後頭部に氷を当てて冷やした。頭がだんだん冴えてきて、ふと我に帰ると、ママがおれの顔をぬれたタオルで拭いてくれている。耳鳴りはもう消えていた。
「大丈夫?」
「あ、はい。……あの、よっちゃんは?」
 隣の部屋で寝かせてる、とママは応えた。
「大丈夫、たいしたケガはしてないわ。ちょっとしたカスリ傷程度よ。それよりあなたの方が大変。起き上がれるなら、脱いで見せてごらんなさい」
 おれだって大丈夫、とは思ったけど、黙って起き上がり服を脱いだ。全身にきしむよう
な痛みが走り、思わず顔をしかめた。
 ママが救急箱を持ってきた。おれの背中にていねいに湿布し始める。
「いったい何なんですか、あいつら。何か……ひどいこと言ってた」
 おれが、湿布のひやりとした感触に身をすくめながら聞くと、ママはぶっきらぼうに応えた。
「あの長髪のやつね、すごいワルで以前この界隈では有名だったのよ。当時よっちゃん、あいつらから大層な目に会ってて」
 どんな目だったのかは、やつらの言葉で想像できる。
「ある日とうとう、よっちゃんがあの男に、逆に大ケガをさせちゃったの。……あいつの耳は見た?」
 おれは、無言でうなずいた。
「向こうにヤバい事情がどっさりあって、警察沙汰にはならなかったんだけど。いろいろ噂も飛んだから、やつもこの町にいられなくなってね。まあそれで事件も治まって、四年も経てば安心って思ってたんだけど、まさか戻ってるなんて……」
 ママは、ほうっとおれの背中に深いため息をついたあと、気を取りなおすように明るく、肩をぽんと叩いた。
「さて湿布、終わったわよ」

 おれは静かに服を着た。無性によっちゃんのことが気になった。
「よっちゃんは、大丈夫かな」
「ああ、きっとまた朝になったら、本人は忘れてるわね」
「忘れてる?」
 あれ、知らなかった? という感じで、ママが微笑んだ。
「よっちゃんは、イヤなことがあってもすぐ忘れてしまうらしいの」
「は?」
「なんだか、脳みその作りがそうなってるみたいなのね。わたしも、そういうの素人だからわからないけど」
「はあ」
「つかぬことをお聞きしますがあなた、お酒を大量に飲んで記憶がとんだことは?」
 そこまではまだ、と応えると、ママは笑って「そうか、一応まだ未成年だったわね」と続けた。
「素人考えなんだけどね、よっちゃんの頭の中では、酒に酔った人と似たような作用が起こっているみたい。強いストレスがかかると、眠ってるあいだにその前後の記憶がリセットされてしまうみたいでね。酔っぱらいが、翌朝になったら何も憶えていないとか、または記憶があちこち抜け落ちてるとか、そういう話ってよく聞くでしょう? たぶんそんな感じだと思うけど」
 ああ、飲み会で先輩から聞いたことがある。「泥酔して目がさめたら、知らないあいだに家に帰って飯炊いて、チャーハン作って食ってたんだよお!」って。

「わたしも、そんな状態を初めて目の当たりにした時には驚いたけどね」
 ママはそう言いながらキッチンに立ち、ヤカンに水を入れてコンロにかけた。
 そのあいだ、おれの心は嵐になっていた。もしかしてよっちゃん、はぐらかしたんじゃなくて、あの夜のこと本当に憶えてなかったんじゃないだろうか。それならおれ、とんでもないことであいつを責めたことになる。
 それにもうひとつ。あの男たちが言ってたような下衆な行為を、想像上だったけど昨夜おれは確かにやった。よっちゃんを慰み者にし、欲望の捌け口にした。そういう意味ではおれはやつらと変わらないクソ野郎だった。これじゃ石橋さんのことだって非難する資格もない。

T010

「あらあら、どしたの」
 戻ってきたママはおれの顔を見て驚き、慌ててティッシュの箱を持ってきた。
「そんなに泣くことないでしょう。よっちゃんは大丈夫だから」
「いいえ、いいえ」おれはかぶりを振った。あとからあとから涙が溢れた。
「クリスマスイブに石橋さんちに行ったんです。サンタやってて。途中からよっちゃんどんどんおかしくなっちゃって、いきなりおじさんが愛人なんだって告白して……」
 どさくさにまぎれてとんでもないこと口走ってると自分で思ったけど止まらなかった。幸いといっていいのか、ママはよっちゃんと石橋さんのことはとっくに承知している様子で、たいして顔色も変えずおれの話を聞いていた。
「結局、おれんちでちょっとケンカみたいになって。でも翌日にはウソみたいにケロっとしてて、はぐらかされたと思ってそれで余計に腹がたって。おれよっちゃんにひどく怒っちゃって。でもいま聞いてひょっとしたら、あの夜のこと憶えてないのかもしれないと思って……」
 この自宅でのくだりが一番問題なとこなんだけど、ここはさすがに大幅にはしょった。
 ママは「なるほど」と言いながら、再びキッチンに立ち、ヤカンの熱湯を手際よく紅茶ポットに注いだ。
「本当に憶えてないのなら、それに調子を合わせてあげるってのもまあ、ひとつの方法。わたしや石橋は、これまでそれでやってきたけど」
 紅茶を乗せたお盆を手に、ママがこちらへ戻ってきた。
「四年前にくらべたら、あの子もずいぶん落ちついたもので、そんなこと、最近はなかったんだけどねえ」
 そう言って、おれにカップを渡した。
「四年前っていったい、よっちゃん……」
 おれの質問に、ママが笑った。
「そりゃいまの彼しか知らないと、きっと信じられないわね。すさんだ顔つきでひどくやせてて、情緒もすごく不安定だった。激しい癇癪をたびたび起こしてたし」
 おれは眼を丸くした。よっちゃんがさっき自分で「カッときたらわからなくなる」って言ってたけど。

「記憶のリセットはよっちゃんにとって、自己防衛というか現実逃避というか、精神的に安定するためのひとつの手段よ」
「手段……」
「でも、そうやって無理に消そうとすることで、かえってそれが昇華せずに、ずっと残ってるってこともよくあるわけ」
「残って……」
「結局、あの子の心の傷は一生癒えないのかもしれないわ」
「一生……」
「まあ、だからといって、ずっと腫れものに触るようにして面倒をみるのがいいってことじゃないでしょ? 人間、生きていれば多少の傷は負うもの。あの子が本当の強さを身につけて、自分の力で現実と向き合えるようになればそれが一番いいんでしょうけどね」
「はあ……」
「それにしても、ちょっともう君。いいかげんに泣きやみなさい。そんなにべそべそ泣いてたら台無しよ、いい男が」
 ママは、おかしくってたまらないという顔で、箱からティッシュをわしづかみにすると、おれの顔にぐいっと押しつけた。

 * * *

 泊まっていってもいいわよ、というママからの申し出を断って帰ることにした。でもその前に、よっちゃんの無事な顔を見たかった。
 隣室への引き戸を開けると、すみに小さな古い鏡台が置いてある六畳の和室だった。よっちゃんはあの英和辞典をしっかりと握ったまま、中央に敷かれた布団の中に、まるで胎児みたいに丸まって眠っていた。
「よっちゃん」
 そっと呼んでみる。目のふちに涙のあとがあった。右の頬と手の甲には真新しいバンドエイドが貼ってある。この程度ならきっとすぐに治るだろう。おれは、傷の上を手のひらでそっと撫でた。
「頭を打ってるんだし、念のために、明日はちゃんと病院に行きなさいよ」
 玄関先でママがそう言ったので、おれは「はい」とうなずいた。でもおれの傷は、きっと大丈夫だ。
 古いエレベータを使って一階まで降り、マンションの玄関を抜ける。

02

 通りへ出るとおれは左手を肩に、右手をわき腹にまわして、湿布の部分に手を当てた。そうやって自分を抱きしめるような格好で背中を丸め、しばらくそのまま歩き続けた。
 急げば最終電車にも間にあうけど、そんな気にはならなかった。コンビニの白い袋が飛んできて、おれの足にからんだかと思うと、すぐにどこかへ行ってしまった。
 ふと、よっちゃんの声が聞こえた気がした。

「『自分勝手や憎しみばかりが横行する世の中で、人々にとってわたしが、それを止められる力のシンボルなんだ』って」

 あの夜、よっちゃんはおれのことをシンボルだって、そう言ってくれた。
 でもおれは全然そんなんじゃなかった。おれこそが自分勝手で、人を憎んで。どす黒いイヤな気持ちが心にいっぱい渦巻いていた。

「信じることのできない人がいたら、その人の人生は、疑いだらけの寂しいものになってしまうんだ」

 おれは、ついよっちゃんを疑ってしまった。信じることができなかった。だからこんなふうになってしまった。
 それにおれには、よっちゃんは重すぎた。
 立ちどまって夜空を見上げた。吐く息が白く上がる。星が走ったような気がして眼を移したけど光はすぐに消えた。黒く影になったビルのあいだから、オリオン座がじわっとぼやけて見えた。

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見上げた空は 10 par.2

T005

 * * *  ≪ 10 ≫

【 parenthesis 2 】

 自宅の駐車スペースへ入れた車のドアを閉めながら、石橋は無意識にコートのポケットに手を入れた。
 先日、机の中から見つけた天使の人形がカチリと指にあたる。家を見やると玄関灯と窓越し居間の明かりが、あたたかく石橋を迎えようとしていた。
 人形の羽の折れた部分をゆっくりと指で触った。ギザギザした感触を確かめながら石橋は小さくつぶやいた。
「ひどい人……か」
 まったく、自分はよほどひどい人間なのだろうなと思う。あんなまっすぐな目をした青年からも言われてしまうとはね。石橋の唇に思わず笑みが浮かんだ。

 ひどい人。
 妻に投げつけられたのと同じ言葉だ。
 あの日以来、石橋はずっと演じ続けてきた。
 いや、そうではない。演じてきたのはもうずっと前からなのかもしれなかった。ただ演じかたを変えただけだ。
 皮肉な話だ。正直に生きようとすればするほど挫折をくり返した。なのに演じることを意識したとたん、まるでつかえていたものが取れたように、一切が楽になった。それは、どれだけごまかしの生きかたをそれまで自分がしてきたか、というまぎれもない証拠だ。石橋はいまの生きかたに充実を感じていた。
 ある意味、石橋にとってはいまがいちばん正直な状態なのかもしれない。
「ひどい人……だな」
 石橋はふたたびつぶやき、暗い夜空を見上げた。白い息が上がる。天空に掛かるオリオンを横切るように小さな星が流れた。

 一瞬、祈るように目をつぶったあと、次に目を開けたときには、彼はいつもの表情に戻っていた。
 石橋遼一という名の、父親の顔に。
 夫の顔に。

Tc0302
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見上げた空は 11

T013

 * * *  ≪ 11 ≫

 翌朝、また九時前にケータイが鳴った。
「いーかげんにしてくれ、黒木」と文句を言うつもりで通話ボタンを押したら
「君のアパートの前まで来ている。ちょっと出てこられないかね」
 有無を言わせないような声の、石橋さんからの電話だった。カーテンを開けて窓から見下ろすと、あの夜よっちゃんが転んで足をつらせた三叉路に、紺のBMWが停まっている。
 不承不承、身じたくをととのえアパートを出た。おれがBMWの助手席に乗りこむと、石橋さんは右ハンドルの車をゆっくり発進させた。
「舜……ママから、朝早くに電話があってね。若い人は自分の身体を過信して、なかなか病院に行こうとしないだろう。知り合いの医者に連絡をつけているから、いまからすぐ検査してもらいなさい」
 なるほど連絡が行ったか。なら昨夜のことは全部把握してるってわけだな。

 身体は疲れてるけど、ゆうべのケガはまるで問題ない。おれが仏頂面で返事もせずにいると、石橋さんは言葉を継いだ。
「金はこちらで出すから、心配は無用だ」
「あなたにお金を出してもらう筋合いはないです」
 そうおれが応えると、石橋さんは眉をちょっとだけ上げた。車が渋滞気味の大通りへと出る。のろのろと進む車列の後ろにBMWをつけて、石橋さんは言った。
「よっちゃんを助けてケガをしたなら、金はわたしが出すのが当然だ」
「部外者がこれ以上かかわるなって、ゆうべあなたが言ったばかりです」
 ふっ、と石橋さんが笑った。
「おれ、いろいろ考えました。四年前、ひどい状況からよっちゃんを救ったのがおそらくあなただ。あなたがいなければ、いまのよっちゃんもなかった。よっちゃんには絶対、必要なんだ。あなたが」
 すごく、悔しいけど。
「確かにおれの行いは野暮でした。おれ、もうよっちゃんには会いません。映画研究部もやめますから」
 どうせ遊んでばかりの部活動だ。

「学部も違うし、部活がなければきっとよっちゃんとは、めったに会うこともありません。どうか安心して下さい。ケガを心配してくれてありがとうございました」
 赤信号で車列が止まったのを幸いに、おれはドアを開けて車から出ようとした。そのおれの背中に、いきなり石橋さんの声が飛んできた。
「あの子と、離れないでくれ!」
 おれは思わずふり向き、眼を見張った。こんな表情の石橋さんをいままで見たことがなかった。
「乗ってくれ」
 後ろの車両からクラクションが鳴る。信号が変わり車の流れが動きそうだ。おれが慌てて助手席に戻ると、石橋さんはBMWを発進させた。
「あの子が、どうやって英会話をマスターしたか聞いてるかい?」
 石橋さんがおれに聞く。おれがかぶりを振ると、石橋さんはこう言った。
「映画だ。洋画を観ての独学なんだよ」
 絶句した。よっちゃんが「映画観てたら憶えるじゃん」なんて言ってるの、冗談だと思っていたけど、まじだったんだ。

T001

「あの子にとっては映画が、つらい現実から逃れる唯一の手段だった。きっと夢中でくり返し観ていたんだろうね。ある日わたしが、字幕もなしに洋画を観ているあの子に気づいた。ひょっとしてと英語で話しかけたら、あたりまえのように返事が返ってきたよ。本人に聞くと『自然に憶えた』なんて言うんだ。驚いた。
 言語に対する感覚が生まれつき鋭かったんだ。いったん本人が才能を自覚すると伸びるのは早かった。さらに他の学力も信じられないほど上がった。自信がついたことが情緒を安定させた。もともと聡明な子だった。環境がそれを許さなかっただけだ」
 石橋さんは、おれが聞いてるかそうでないかなんて、まるでかまわないようにどんどん話を続けた。

「大山くん、君もわかるだろう。あの子がとてもいい子なのが。感受性が豊かで、素直で、それにとてもユニークだ。可能性もたくさん秘めているのがわかるだろう」
 この時間にやたら混雑する駅前の交差点を過ぎたから、車の流れは速い。

「わたしは、あの子が将来何をするとか何になるとか、そのために何が必要だとか、全然まだ考えちゃいない。それよりも、いまある時間を大切にして幸せに生きていて欲しいと願っている。あの子はまるで奇跡のような子なんだから。
 あの子が学校で、映画を通じて友だちができたと伝えてきた時には本当に嬉しかったよ。家庭でも外でも暴力にまみれて育ち、映画の、架空の世界だけを心の拠りどころにしてきたあの子が、初めて……」
 突然、きしんだ音で急ブレーキがかかり、おれたちは激しく前につんのめった。
 赤信号だった。
 車は停止線を越え、横断歩道のすぐ手前で停まっていた。交差点の横から来たトラックがこれ見よがしなクラクションを鳴らして去った。
「……すまん。うっかりした」
 石橋さんが、大きく首を振りため息をついた。おれに隠すように石橋さんは目頭をすばやく押さえた。おれも気づかないふりをした。信号が青に変わるのを待ち、静かに発車する。石橋さんは黙って運転を続けた。

 まもなく車は病院の広い駐車場に入った。ゆっくりと端の方に停まる。
「何でそんなこと、おれに話すんですか?」
 シートベルトをはずしながらおれが聞くと
「さあ、わからないね。ひょっとしたら、誰かに話したかっただけかもしれない」
 ハンドルに寄りかかって、石橋さんは少しだけ笑った。
「本当にユニークな子なんだよ。携帯電話なんか、友だちとの連絡に必要だろうと与えようとしても、絶対に首を縦に振らない。便利だからと電子辞書を買ってやろうとしても、わたしのお古の辞書で充分だ、そっちがいいんだと」
「あの、ガムテープの英和……」
 思わずそう言うと、石橋さんは笑った。
「遠慮してるつもりなのかねえ。こづかいさえめったに受けとらない。遊ぶお金はバイト代があるからだって。週五日もバイトしたら遊ぶヒマなんかないだろうに。まあ本人がそう言うから、そうしてるけどね」
 石橋さんは、幸せそうに笑った。

T011

 受付で、石橋さんは年配の人物を呼びだし、その人としばらく話をした。
 おれは黙って、石橋さんの後ろ姿を見ていた。頭を眺めていたら、根元の白い髪が意外と多いのに気がついた。
 石橋さんは、おれに向きなおり
「すぐに診てもらえるそうだ。わたしはこのあとすぐ仕事に行くから、何かあったら電話をかけてくれよ」
 おれが看護師さんに連れられて、診察室に入るまでのあいだ、今度は石橋さんがずっとおれを見ていた。

 * * *

 検査の結果は、思ったとおり異常なしだった。
 すべて終わってから、受付で「いくらですか?」と聞くと、さばけた感じのお姉さんが「精算は、先ほどのかたによって済まれてます」と応えた。
 おれは焦った。確かに石橋さんはさっき「金の心配はない」なんて言ってたけど、やっぱりそんなわけにはいかない。
「おれ、自分で払います!」
 慌てて財布を出したけど、中身は野口英世がペラッと一枚。お姉さんがくくっと笑いをこらえながら言った。
「それより保険証、持ってないの? あなた学生さんでしょ。一人暮らし?」
「はい」
「家を離れる時に、親御さんから渡されなかった? 健康保険証のカード」
 そういえば、あったような気がする。
「それがあれば、保険が利くから安くなるわ。明日にでもあらためて持ってこれる?」
「も、持ってきます! いまからすぐ」
 慌ててアパートに戻った。タンスの引き出しを引っかきまわし、近所のつぶれたビデオ店のや何のかもわからないカードに混じって、健康保険証があるのを見つけた。

 おれはごろりと床に寝転がって、そのカードをしみじみと眺めた。
 カードには「被扶養者」と書いてあった。戻りがけに銀行に寄ってお金を下ろしてきたけど、あれも結局は、親からの仕送りだ。自分は病院に行くにも親がかりの、まだまだガキだったんだってことに、いまさら気づいた。
 再び病院へと向かう。その日は、冬とは思えない陽気だったから、ゆっくり歩いていくことにした。少し遠回りをしてよっちゃんちに寄ろうと思った。無性によっちゃんの顔が見たかった。

 よっちゃんちは木造モルタルの古いアパートだ。トイレとお風呂が共同になってて、韓国やバングラデシュなど外国からの留学生もたくさん住んでいる。常に数ヶ国語が飛びかってるような、とてもエキサイティングなアパートだった。
 よっちゃんの部屋は二階の一番端っこだ。石段を上った小高い場所に建っていて、下の道からもよく見える。
 街路樹の影からアパートを見上げると、ちょうど窓が開いて、よっちゃんが布団を干そうとしているところだった。必死にやっているからこちらには気づかないみたいだ。顔と手のバンドエイドははずれていたから安心した。
 ぽかぽかした陽射しの中で、うにたんのケージを横に置き、よっちゃんは布団にゆっくりと寄りかかった。空を見上げながら、楽しげに何かを口ずさんでいる。
 きっと『虹の彼方に』だ。よっちゃんの大好きな、すごく有名なミュージカル映画の曲。虹の向こうに夢のかなう幸せの国があるっていう歌だ。

 Some where Over the Rainbow way up high……

 よっちゃんに背中を向けて大きく深呼吸をしたあと、おれはまた歩きだした。
 泣きたいような笑いたいような、何だかおかしな気持ちだった。

後編につづく。

Tc0201
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