小説 「見上げた空は」後編

見上げた空は 12 par.3

T014

 * * *  ≪ 12 ≫

【 parenthesis 3 ~堕ちる天使の情景~ 】

「女を、連れこんでいる」
 石橋遼一は思った。
 メイン通りから入りこんだ細い道に建つ小さな映画館『セントラル』。五枚綴りチケットの一枚を出そうと、狭い窓口をのぞきこんだ瞬間だった。
 窓口にいるのは、石橋もよく知っている男だ。
 この古い映画館のいちおう跡取り息子ではあるが、映画のことなど何もわかっちゃいない。就職もせずブラブラしていて、たまに今日のように窓口に座っていたりもする。だがそんな時は必ずガールフレンドだか何だかが一緒にいて、こちらが券を買おうと窓口の前に立っても、平気で目障りな行為に及んでいたりするのが常だ。
 いまもカウンターの下、こちらからは見えない位置に誰かいるようだった。不愉快な気持ちで石橋は館内に入った。

 この男さえいなければ、ここは彼のお気に入りの場所だ。けっして快適ではない。椅子は古くて固いし、便所で使う消毒の臭いがロビーにまでただよっている。
 しかしそれらの何もかもが、映画に夢中になった十代の頃まで石橋の記憶を誘った。  
 いまの職業が映像関係なのも、それらの十代の体験がきっかけだ。ここは自分のルーツだと例えてもいい、と石橋は思う。
 いまは二週間、変則的に五本の古いフランス映画が上映されている。五枚綴りのチケットが発売されていて、同じ通りにある行きつけの喫茶店『カルカヤ』で買わされた。
「そのかわり、チケットを見せれば、うちのコーヒー百円引き」
 主人は笑って言った。
 長いつきあいのある主人だ。会社を経営する身でまっ昼間から映画鑑賞などする暇もないだろうが、いちおう券は購入した。まあ、コーヒー百円引きだけでもありがたい。
 そう思っていた石橋だったが、偶然にもすっぽりと午後の予定が空いた。今日の上映はルイ・マルの『地下鉄のザジ』らしい。

 後方の中央から少し右に寄った席が、石橋がいつも座る位置だ。すこし待ったあと開演ブザーが鳴る。と同時に、ひとりの少年が後方口からかけ込んで来た。袖で口をぬぐいながら、少年は石橋から二つほど空いた斜め前の席に座った。一瞬、匂いがした。
「カウンターの下にいたのは、彼だ」
 石橋は直感した。
 館内の照明が落ちた。

 * * *

 次の日も、石橋は映画館に出かけた。クライアントとの打ち合わせを先延ばしにして、無理やりスケジュールを空けたのだ。
 午後から、ゴダールの『はなればなれに』が予定になっている。
 石橋は、前日に見た光景が気になっていた。映画が終わったあと、少年はそそくさといった感じで、窓口のカウンターに戻っていった。
 あの時一瞬、感じた匂い。あんな小さなカウンターの下に入りこんで、あのいけすかない男相手に何をしているか、察することは簡単だ。
「決して、好きでやっているわけではあるまい」
 なぜだかわからないが、石橋はそう思った。
「きっと、かわりに映画を見せてやるなどと言って、それを強要しているのにちがいない」とも思った。
 少年は今日も来ていた。そして、石橋と同じように前日と同じ席に座った。
 石橋の席からは彼の横顔がよく見えた。中学生ぐらいの年頃に見えるが、昼間に映画館にいるぐらいだからそうではないのだろう。
 茶色いくせのある髪。まっすぐな鼻梁、かたちよい顎のラインが見てとれる。ただ顔色がわるくあまり健康そうではない。肩も細くて薄い感じだ。
 ついつい身を乗り出したところで、館内の照明が落ちた。

 映画の内容はほとんど頭に入らなかった。
 ずっとうわのそらだったのだ。有名なマジソンダンスのシーンでさえ、それを熱心に見入る少年のほうに気を取られていた。
 終わると同時に、石橋は自分でも信じられないことだったが、少年に声をかけた。
「もしよかったら、このチケットあと三枚もあるんだが、使ってくれないか」
 少年は、びっくりしたように石橋を見つめた。
 正面から見ると、細く見えた顎が意外としっかりしているのに石橋は気づいた。不思議なバランスの顔だ。少し角度を変えただけで印象が変わった。
「でも……」少年が声を発した。
 小さくてか細い声。口調も見た目より幼い感じがする。
「券が余っちゃってもったいないんだ。君は映画好きのようだから、使ってくれるとありがたいんだよ。いやいや、決して怪しい者じゃないから」
 石橋は、なぜだか焦っている自分がおかしくてたまらなかった。「いやいや、決して怪しい者じゃない」なんて日常、とうてい使う言葉じゃない。
「ありがとう」
 券を手にした少年がニッコリと笑う。また印象が変わった。

T001
 ロビーに出ると、少年はまた急いでカウンターに向かった。
 自分の早合点だったのか。余計なことをしてしまったのだろうか。石橋がそう考えながら見ていると、少年はなにやら相手の男と口論をはじめた。といっても、男のほうが一方的に何か言っているらしい。
 とうとう男が少年の胸ぐらをつかんだ。
 たまりかねた石橋が二人のあいだに割り込むと、意外と素直に男は引っ込んだ。
「ふん。いいのを引っ掛けやがったじゃないか」
 吐き捨てるように、男がそう言った。

 * * *

 喫茶『カルカヤ』の主人のことを、常連客は「ママ」と呼ぶ。
 ずいぶん若く見えるが、実際には石橋よりひとつふたつ上だ。
 個性的ないでたちのせいでいろいろと世間から誤解もされやすいが、腕はいい。コーヒーの味も出される軽食類も絶品だった。
 カウンター席に座り、石橋は百円引きのコーヒーを注文した。隣には少年がいる。何がいいかと聞くと「紅茶」と応えた。
「ここのフレンチトーストはおすすめだ。食べてごらん」
 そう言って、石橋はフレンチトーストと紅茶のセットを、少年のために頼んだ。
「名前、なんていうの?」
 自分の名を名乗ったあと、石橋は聞いた。
「水村好男」
「好男くんか」
「うん。でもみんな、よっちゃんて呼ぶ」
「あら、よっちゃんっていうの。かわいいじゃないのさ」
 カウンターの向こうから、ママが話しかけてきた。
「どうぞ。ハチミツかシロップは、自分の好きなだけかけてね」
 フレンチトーストセットを少年に出し、石橋をにらんだ。
「罪つくりねえ。どこで引っ掛けてきたの」
「そんなんじゃないってママ。セントラルでたまたま意気投合したんだよ」
 やっぱり「引っ掛けた」ように見えるのだろうか。妙な誤解をされちゃたまらないと焦る石橋に、ママが「冗談よ」と言ってけらけら笑った。

 * * *

 石橋には幼いころから父親がいない。母ひとり子ひとりで育った彼は、母親を幸せにすることが、自分の義務だと思っていた。
 十代の後半から、苦学して海外の専門学校に通い映像を学んだ。
 日本に帰ってマスコミの仕事に就いたのち二十五歳でテレビ映像の製作をする会社を立ちあげた。作るのはおもにドキュメンタリーだ。とにかくがむしゃらに働いた。一週間徹夜ということもざらにあった。
やがて、土曜日の早朝五時半で帯番組をもらった。県内にある古い仏教施設を紹介する十五分ほどの番組だ。これが視聴率をとった。たいした数値ではないが、この時間帯の番組にしては快挙だった。それをきっかけに会社を大きくした。
 結婚したのは三十五歳をすぎてからだ。仕事も安定し、母親を安心させねばという思いが先にたった。
 結婚相談所で出会った妻は瞳という名前で、気立てもよく穏やかな性格だ。今年小学三年のひとり娘、絵里もその気質を受けついでいるようだった。

 昨年、母親が死んだ。この秋で一年になる。
 いくつかの法要を終え、日常の暮らしに戻っていくうちに石橋は、自分の中で何かが足りないことに気づいた。母を失った寂しさともちがう、いくばくかの寂寥感。それがどこから来るものやらわからないが、石橋はいつもそんな思いにさいなまれていた。
 はっと我にかえった。
 となりで好男が、ハチミツをたっぷりかけたフレンチトーストと格闘している。ずいぶん長いあいだ考えにふけっていたはずだったが、皿の上のものはまだ半分しか減っていない。
「腹は減っていなかったのか」
 そう思ったが、どうやらそうではないようだ。
 とにかく食べるのが遅い。見ていると、まさにパンと対局でもしているかの様相で、ひとくちずつ口に入れる。柔らかいフレンチトーストだというのにそんなに咀嚼する必要があるのかと思うぐらい、しみじみ噛みしめている。
「おいしい?」
 石橋が聞くと、好男が彼のほうを向いた。しばらく口をもぐもぐさせながら彼をじっと見つめた。
「うん、すごくおいしい」飲み込んで、やっとそれを言った。
「そうか、よかった」
「うん」好男がニッコリと笑う。
「こんなふうに、おいしそうに食べてくれるとさ、こっちだって作り甲斐があるってもんよ、ねえ」
 ママが口をはさむ。いつも犬みたいにさっさと食べてしまう石橋へのあてつけかと思ったら、そうではないらしい。本当に喜んでいるのだ。
「ねえ、イシバシちゃん」
 ふたたび皿の上のものと格闘しはじめた好男をよそに、ママが話しかけてきた。
「またこのコ連れてきなさいよ。いろんなもの食べさせたげたいわ。それに映画好きなんでしょ、話もあうわよ。」
 そう聞いて石橋は、やっと好男と映画についてひとことも話さなかったことに気づいた。

「また今度」石橋はつぶやいた。
 また、今度。
 そう思っただけで石橋は、自分の中にひとすじの灯が点るような、そんな気持ちになっていたのだ。

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見上げた空は 13 par.4

 * * *  ≪ 13 ≫

【 parenthesis 4 ~堕ちる天使の情景~ 】

 その「今度」は、思いもかけないかたちでやってきた。
 テレビ局からの依頼で、新しい企画が持ち上がっていた。「家族」をテーマにしたドキュメンタリーだ。
七月上旬の晴れた日、石橋はリサーチのため、ある養護施設に足を向けた。
 本来、何らかの家庭の都合で子どもを養育できない場合に、親に代わって子どもを養護し、自立を支援するための施設なのだが、現在かなりの割合で、家庭内での被虐待児が増える傾向にある。
 石橋が訪れたのは、中でもそれが顕著だといわれている施設だった。

 小さなグラウンドを抱えた白いコンクリート製の建物で、門の表札には『愛光園』と記してある。
 応接室で施設職員としばらく打ち合わせをしたあと、石橋は愛用のハンディカメラを手に、ゆっくりと施設内を歩いた。
 リノリウムの床にスリッパの音がぺたぺたと響いた。梅雨明け宣言がまだの天気は、日が照ってはいるがかなり蒸し暑く、屋外よりも空調の効いた室内にいる子どもが多かった。興味深そうに近寄ってくる子もいれば、恥ずかしがって逃げ出す子もいて、石橋にも思わず笑みがこぼれた。
 ふと窓の外を見た石橋は、日差しの照るグラウンドの隅っこでひとり小さくしゃがみ込む人影に気付いた。
 靴に履きかえ外へ出る。自分の影がくっきりと映る地面を視線の端に捕らえながら、石橋はその子に近づいていった。
 気配を感じたのか、子どもがふっと顔を上げた。
「……あ」
「あれっ、君か」
 石橋は思わず声に出した。
「好男くん。よっちゃん……だったね」
「うん」
 好男は、石橋の手にあるハンディカメラに目を留めたらしい。
「……おじさん、相談所の人?」児童相談所のことだろうか。
「あ、いや、テレビの人だよ」
「テレビの人……」
 つぶやくように小さな声で好男が言う。石橋は「ここ、いいかい?」と、好男の隣に腰を掛けた。のんびりとした調子で話を続ける。
「ドキュメンタリーを撮るんだけど、いまどういうものを撮ろうか考えているところ。よっちゃんはテレビは好きかい?」
「うん、好き」
 そうやって、フェンスを背にしばらくとりとめもない会話を続けた。好男は石橋と目を合わせるでなく、淡々と質問に応えた。いま中学三年生だという。ではあのとき映画館にいたのは、やはり学校をサボタージュしていたのだろうか。そう石橋は思った。

 白い建物に光が反射して眩しかった。強い日差しが二人に当たっている。
 空気も重くじっとりと肌にまとわりついて息苦しく感じた。不快指数がかなり高いようだ。石橋はにじむ汗をタオルでぬぐいながら好男に言った。
「それにしてもよっちゃん、ここは暑いよ。あっちの木蔭のほうが風も通って涼しそうだし、ちょっと移動しないかね」
「……あ、うん」
 そこが日なただったことに初めて気づいたようすで、好男がうなずく。
 ふたり揃って立ち上がろうとしたとたん、好男がぐにゃりと、まるで崩れ落ちるようにその場に倒れ込んだ。
「好男くん?」
 返事はない。好男の顔が妙に赤らんでいる。脱水症状を起こしかけているようだ。
「おおい、誰か来てくれ!」
 助けを求めながら石橋は好男を抱え上げた。彼の身体はまるで羽根のように軽かった。ばたばたと職員たちが駆け寄ってきて、好男はそのまま医務室へ運ばれた。

 応急処置で、何とか落ち着いたらしい。
 石橋は職員の柴田ミツコに導かれ、ふたたび応接室へ戻った。柴田は銀縁のメガネをかけた四十がらみの女性だ。着古したジャージ姿がかえって何か貫禄を感じさせる。子どもからも「ミツコ先生」とかなり慕われているようだった。
「熱中症です。いつものことですよ」
 熱いお茶を出しながら、ぶっきらぼうな口調で柴田が言う。
「鈍感なんですよ、あの子」
「え?」
 石橋がその意味をわかりかねていると、柴田はさらに言葉を継いだ。
「苦痛や不快感に対して麻痺しているんです。たとえば人が、暑い寒いとか空腹とか苦しいとか、そういう普通に持っている感覚が、あの子の場合は極端に鈍いんです」
「それは、やはり……」
 石橋が言いよどむと
「ええ、もちろん幼少期の虐待の影響ですよ」
 柴田は大きくため息をついた。
「今回みたいな調子で、どんなに身体がきつくっても本人は自覚なしにケロッとしているんです。でも肉体的にダメージを受けているのは確かなわけですから、そこを周囲がちゃんと見ておかないともう大変で」
 特に、何か他のことに気を取られている時など気をつけないといけない、ということだった。石橋は恐縮する思いだったが、柴田はこちらこそ説明しなかったからと詫びた。
 恐縮ついでに、好男を取材したいという話を持ちかけてみる。
「あの子は、ちょっと大変だと思いますよ」
 眉間にしわをよせ、柴田が応えた。

 * * *

 まもなく石橋は、その意味を理解した。
 愛光園で取材を続けるいっぽう関係機関をまわり、好男の父親については現在の所在地までつきとめたが、石橋はそこに足を向けることを保留した。好男の身の安全を優先するためだ。
 好男の場合だけではない。他の児童数人のケースもリサーチを始めたとたんに同じような壁にぶつかった。取材自体が、何よりも守るべき子どもたちの安全とプライバシーを脅かしかねないパラドックスに石橋は気付いた。これは企画としては失敗だった。

 秋の始めごろ石橋は、番組の企画が頓挫したことを施設に告げに行った。
「世の中にこういう現実があることを、本当は皆さんに知ってもらいたかったんですけどね……」
 取材をする中ですっかり顔なじみになっていた柴田が、そう言って残念そうにため息をついた。
 施設長にはあらためて挨拶にうかがうことを告げ、腰を上げようとしたところ、柴田がためらいながらも少し慌てた声を出した。
「あの、石橋さん」
「はい」
「もし、もしよかったら、よっちゃん……水村好男くんと、また会う機会を作ってくれませんか?」
 石橋が「は?」と怪訝な声を出すと、柴田はさらに焦ったように早口で言葉を継いだ。
「あの子、どういうわけか石橋さんが来たときはとてもいい状態で、助かってるんです。学校も休みがちだったのがちゃんと通うようになったし。フラッとどこかへ行って帰ってこないっていうのもなくなったし。本当にずいぶん良くなってきたんです。
 私たちもあの子にだけ手をかけるというわけにはいかないので。あの、本当にこんなことお願いするの申しわけないんですけど……」
 柴田の言いたいことはよくわかった。実際、職員たちの仕事はかなりのオーバーワークで、彼ら自身が疲れの限界に達しているはずだ。子どもの状態がよくなるという望みがあれば、部外者にだってすがりたい気持ちなのだろう。
「ええ、いいですよ。わたしでよければ」
 石橋は微笑んだ。
「好男くんは映画が好きみたいだから、たまに映画に連れ出すことにしましょう。それほど時間は取れないと思うのですが。そうですね、最低でも月に一回ぐらいは」
 柴田は、表情をパッと明るくして「ありがとうございます!」と叫んだ。

 * * *

「ラストシーンがすばらしかった」
 石橋の声に、カウンターの隣で好男がうなずく。
「家に続く細い曲がりくねった階段が、あの老女の生きて暮らしてきた道なんだと情景が雄弁に語っていた。静かだがさまざまなことが伝わってくる見事なラストシーンだったね」
 いくぶん興奮して喋っている自分が、自分でもおかしく思う。だが石橋が喋らないと、隣にいるこの少年はずっともぐもぐと口を動かしているだけなので間がもたない。それに、いま観たばかりの映画についてこうやって話ができるというのも、ずいぶん久しぶりのような気がして、石橋は心が弾んでいた。

T001

 月に一回、と言っていた割に、石橋はすでに三回も好男を映画に連れ出している。
 ひとりで観るのはもったいない良い映画が、続けて掛かっていたせいもあったが、本当は自分がこの子に会いたかったのだと、石橋自身も気付いていた。
 この日観たのは、セントラルで時期を遅れて上映されていた韓国の映画だ。
 カルカヤ特製のフレンチトーストをいつものようにゆっくり飲み込んで、好男は
「山の景色もきれいだったね」
 と、ニッコリした。その口の端にハチミツがついているのをぬぐってやろうと、石橋はつい手を伸ばしたが、ふと気づいてやめた。
「よっちゃん、ここ」
 石橋の言葉に、あっと気づいたように好男が袖で口をぬぐう。
「そういうときは袖じゃなくて、これを使うんだよ」
 差し出した紙ナプキンを慌てて使いながら、好男は「エヘッ」と笑った。
 些細なことだが石橋は、好男の身体に触れる行為を自分に禁じていた。先日のママの「引っ掛けた」という冗談のように、妙な誤解をされちゃたまらないと思っていた。
 それでなくても身を預かった立場だ。大人の責任というものがある。

「イシバシちゃん、ずいぶん楽しそうねえ」
 カウンターの向こうからママが話しかけた。余計なことを言うなよ、と石橋は密かに毒づく。
「あんなに仕事仕事ってやってた人間が、いつからこんな場所で油を売るようになったのやら。そろそろ一年じゃないの、あなたのお母さん」
「ああ、十月で一周忌だよ」
 石橋は応える。
 一年前、母親は認知症で自分の息子さえわからないようになっていた。介護を病院や妻にまかせっきりにしていたせいだった。
 仕事にかまけていたのだ。全国規模のTVドキュメンタリーの賞を狙っていた。三年間の長いリサーチを終え、実質的な番組製作にとりかかったばかりだった。おかげで月に一回、病院に行ければいいほうで、妻から「母親が自分の名を呼んでいる」と聞かされてもその時間がなかった。番組が完成したら思うぞんぶん会うから、と先延ばしにした。

 テレビ局で最終の編集チェックをしていたその深夜に、母親の容態が急変した。作業を終えたあと病院に向かったが、夜の明ける前に彼女は息を引きとった。石橋は母親の死に目に会うことはできなかった。
 けっきょく、賞も逃した。
 自分の中にぽっかりと穴が空いていることに石橋が気付いたのは、その頃だった。

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※すみません、工事中ですm(_ _)m