15日目の雨の朝 2
* * * 《 2 》
やがて、炊飯器がしゅうと湯気を吹き、お味噌汁も煮えてきたようだ。台所には、ほかほかとおいしい匂いが立ち込めた。
「そろそろご飯ができるから、あのお兄さんも起こしてきてくれないかね」
そういう博士の言葉に、わたしは台所から居間へと抜け、襖を開けて仏壇の部屋に戻った。
この部屋は家の奥に位置しているから、日中でも電気をつけないとちょっと暗い。わたしは腕をのばして、ぶらさがった蛍光灯のスイッチを引っぱった。ブゥゥゥンと音が鳴り、しばらくしてカチリと青白い明かりがついた。
顔を洗い終えた男の子が気付いて、廊下側の障子を開けこちらに入ってくる。
Lは、ガーゼの掛け布団にくるまりカブトムシの幼虫みたいに丸まって、まるで赤ん坊がするように指をくわえた状態で、布団の上にくったりと横たわっていた。
「L、朝だよ起きて」
枕もとでそう呼びかけようとし、急に言葉が詰まった。
Lの寝顔は透きとおるように白くて、まるであのときのお母さんみたいだった。
どんなに名前を読んでも揺すっても、起きてくれなかった、応えてくれなかった、笑い返してくれなかった、あのときのお母さんにそっくりだった。
感じた。この臥せたまつ毛は、もう二度と開かないかもしれない。
「……L、エル、L!」
わたしはLの肩に手をかけ、必死で揺さぶった。
「死なないで! 死なないで!」
男の子がそんなわたしにびっくりしたのか、一緒になってLに跳びついた。
ふたりで必死にLを揺すった。やがて男の子が大声を上げて泣き出し、わたしもたまらなくなった。涙があとからあとから溢れてきてどうしようもない。ふたりでわんわん泣きながら「死なないで、死なないで」と、Lをめちゃくちゃに揺さぶった。
「生きてます」
Lがいきなり、ぱっちりと目を開けた。
「生きてます」
またそうつぶやき、Lはがばっと身を起こした。それから呆然としてあたりを見回した。大きくしゃくり上げているわたしたちと目が合うと、戸惑うように視線を泳がせ、何回も瞬きをした。
「いったい、何の騒ぎじゃ?」
かっぽう着姿の松戸博士が、襖を開けてこちらをのぞき込む。
「状況が、把握……できません」
まだ呆然としたまま、Lはそう応えた。博士は持っていたおたまを彼に向け
「おんな子どもを泣かせるとは、おぬしも罪な男じゃ」
と、意味不明なことを言った。
Lが着替えているあいだに、わたしも顔をもう一回洗うことにした。
鏡の中の、涙でぐちゃぐちゃになった顔を見て、さっきの自分がやたらと恥ずかしく感じた。……変なの。何であのとき、あの人が死ぬなんて思ったんだろ。
ばしゃばしゃと顔を洗い、ふと顔を上げると後ろに、いつもの白い長袖Tシャツとジーンズに着替えたLが、ぬそっとして立っている。髪の毛がものすごい寝ぐせだ。たしか夕べ、ろくに乾かさずに寝たんだよね。
「あ、どうぞ」
慌てて場所をゆずった。Lは洗面台の前に立つと蛇口をひねり、手を水でじょぼじょぼ濡らした。袖さえまくろうとしないから、わたしが「袖、袖」と慌てて横からまくってあげた。
Lはまるで、憶えたての子どもがするように、じつにぎこちない手つきで顔を洗う。なるほどこのありさまでは、夕べのお風呂はさぞかし大変だったに違いない。
手先が不器用というわけでは決してないと思う。一昨日、ウイルスに感染したわたしを調べたときは、まるで本物のお医者さんみたいに手際が良かった。きっとこの人、興味のあることと興味がないこと、できることできないことの差が大きいんだ。
わたしは白いタオルを腕にかけて、丸めたその背中をじっと眺めた。
「何ですか」
下を向いたまま、Lがわたしに聞いた。
「うん。ちゃんと生きてるな~って、思って」
わたしがそう応えると、Lは「生きてます」とつぶやき、きゅっと蛇口をしめた。
「なぜさっき、泣いていましたか」
そんなことをわたしに聞く。
「えっ?」
「わたしとあなたは、ほんの数日の知り合いでしかありません。お互いのこともほとんど知らない。たとえわたしがあそこで死んでいたとしても、あのように激しく泣くような理由はないのでは」
「……泣くのに、理由がいるの?」
そう問い返した。
「知り合ったばかりとか、お互いのこと知らないとか、そういう問題じゃないでしょ? 死んだらもうその人は、そこにはいなくなるんだよ。喋ったり笑いあったり、いろんなことができなくなっちゃうんだよ? 二度とできなくなっちゃうんだよ?」
何だか自分が、ひどく腹をたてていることに気付いた。
ワタシガ死ンダッテ、コノ人ハ泣カナイノダロウカ。
「ねえL、そんなこと簡単にあきらめられる?」
わたしのリュックには、使われなかったメジャーが入ったままだ。あの夜、お父さんの肩幅を計ろうとして結局、使わなかった裁縫用のメジャー。わたしは心のなかで、そのメジャーをLの丸まった背中に押しあてた。
「どんなに遠い場所にいたって同じこの世界にちゃんと生きてるのと、この世にいないっていうのは違うの、全然違うの。L、わかる?」
Lは向こうを向いたまま、応えてくれない。
「ねえL、目の前で人が死んだとこ、見たことある?」
Lは応えない。そしてふたたび蛇口を開いて、今度は寝ぐせのついた髪の毛に、びちゃびちゃと水をかけ始めた。せっかくまくったのにいつのまにかすべり落ち、水に濡れていく白い袖口。
「黙ってないで応えてよ。ねえ目の前で人が死んだとこ、ちゃんと見たことある?」
洗面台に頭を突っ込んだままLは、小さな声で言った。
「……あります」
「誰? お父さん? お母さん?」
Lは応えてくれない。
「兄弟? お友だち?」
この人に対してひどく残酷なことをしているのかもしれない。そう思う。だけど止まらなかった。不器用なこの人が、自身の力ではどうしても引っぱり出せずにいる何かを、わたしはいまこの手で引っぱって、引きずり出してやりたかった。
「ワタリ?」
あなたが自分の口から、もういないって言った人。ワタリ。
「ワタリって人は、Lの何だったの?」
突然、Lが手をこっちに向けて突き出してきた。
あまりにもいきなりだから、ぶたれると思ってつい身をすくめたわたしに、彼は下を向いたままこう言っただけだ。
「……タオル」
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