15日目の雨の朝 3
* * * 《 3 》
タオルを使うLの濡れた袖口を、わたしは横からドライヤーで乾かした。水のこぼれた床をせっせと雑巾で拭きながら、わたしは密かにいま自分が口にしたことを後悔していた。いらいらして余計なことを言ったかもしれない。ごめん、L。
「お~い、ご飯だぞ~」
そんな松戸博士の声に、わたしたちは慌てて台所に戻った。
朝ご飯は博士の手により、すでにテーブルに準備されていた。四人がけのテーブルの、わたしの正面に博士、その隣に男の子。わたしの隣はLだ。わたしはお腹がぐうと大きく鳴ったのを慌てて手でおさえた。さっきあんなにいらいらしたのは、きっとお腹が空いてたせいだよね。ほんとにごめんL。
「いただきます」
みんなで挨拶をして、お箸を手にとった。
五分づきのご飯に、実だくさんのお味噌汁。さつまいもとかぼちゃと玉ねぎ、にんじんにさやいんげん、厚揚げ豆腐。テーブルの中央には大きな器に入ったたくわんとかぶ漬け。それぞれに卵焼きがふた切れずつと納豆。……わたしは、納豆は遠慮しとこっと。
ちょっと心配になって男の子を見たら、ちゃんと器用にお箸を使ってご飯を食べている。そっか、タイってお箸も使うんだっけ。日本の食べ物もどうやら大丈夫そう。わたしが苦手な納豆さえ、平気でぱくぱく口に入れてるし。そういえば昨日は、お寿司だって元気に頬ばってた。
問題なのはむしろ、わたしの横に座っているこの大きなお兄さんのほうだ。
いちおう席に着いてはいるものの、膝を抱え背中を丸めたままで、お箸さえ手に持とうとしない。
「ん? どうしたLくん、腹は減ってないのか?」
博士がLに質問した。
そんなわけはないだろう。この人は夕べもご飯を食べなかった。あれだけたっぷりご馳走になったわたしたちがこんなに空腹なんだから、彼は当然ぺこぺこのはずだ。お腹がぐうぐういう音だって、さっきからしっかり聞こえてる。
「そうか、白いご飯が苦手なんだろう。そんなときのために秘密兵器があるぞ!」
博士は戸棚から「じつはうちの孫もそうじゃ」と、小袋に入ったふりかけを出して、テーブルの上にざあっと並べた。
「アンパンマン、バイキンマン、ジャムおじさん、メロンパンナちゃん、クリームパンダくん、カレーパンマン。どれでも好きなのを選んでいいぞ!」
ここ数日Lを見ていて、この人の場合たぶんそんな問題じゃないと思ったから、わたしはおそるおそる博士に言ってみた。
「ひょっとしたら、Lがご飯を食べないのは、甘くないからかもしれません」
おおそうか、というように、博士が自分でも選んでいたふりかけの手を止める。
「だったら卵焼きは甘いぞ。ほら食べてみい」
そんなふうにLにうながす。わたしもちょっと勧めてみた。
「お味噌汁も、さつまいもとかぼちゃだったら、ほんのり甘いよ」
「ほら、ひとくち」
「ひとくちよ」
「どうだ、ひとくち」
「ひとくちだから」
「まあまあ、ひとくち」
「ひとくちなのよ」
「ほーれ、ひとくち」
「ひとくちひとくち」
わたしたちの執拗な「ひとくち」攻撃に、Lは冷静に耐えた。そしてうつむいていた顔をくるりとこちらに向けると、毅然とした表情で主張してみせた。
「食事は自分で選びます」
「何じゃ?」
「食事の内容は、わたしが自分で選びます」
そんなLのようすに、博士はふふんと笑みを浮かべた。わたしがこっそり見回すと、昨夜そこかしこに置いてあった甘いお菓子類は、全部どこかに片付けられてある。
松戸博士はじつに威厳のある口調で、Lにこう申し渡した。
「お菓子を食べてよいのは、ちゃんとご飯をごちそうさましてからじゃ」
いよいよ我慢の限界に達したのだろう。Lは、がたんと大きな音をたて椅子から立ち上がった。そしてお箸を逆手に持ちぐさりとご飯に突き刺した。口をぱくぱくさせ、何か言おうとしている。
「他人と違……嗜好……きちんと自覚し……あなたがたには理解……がこれ……理由……なのに黙っ……ども扱……誤解……と考え……どうせあと……ぬのに……何もかも調子が狂っ……いまは感情……まとまらない!」
きちんと言葉にできないらしい。そのまま踵を返し台所から出ていこうとした瞬間、目測を誤ったのか、ガラス戸の端に思いきり右足の小指を激突させた。
ガシャンと大きな音がして、彼が声にならない悲鳴を上げたのがわかった。そのまま戸口にくたくたとへたり込むと、右足を押さえ、丸く小さくうずくまる。
ぴたりと動きを止めたLを、わたしたちは息を呑んで見守るしかなかった。
雨の音に混じって、ぱり、ぽり、ぱり、ぽりという音が、台所にやたらと響いている。男の子がたくわんを噛んでいる音だ。
わたしも博士も、そしてLも、固まったまま時間だけが過ぎた。
「ふーーーーっ」
やがて、大きなため息をつきながら、Lはゆっくりと身を起こした。
立ち上がると、まるで何事もなかったような、やたら涼しげな顔をしてふらりとこちらに向き直る。そして静かにもとのテーブルに戻って席につき、さっきと同じように膝を抱えた。
「お、そうじゃそうじゃ。いいものがある!」
気を取り直したように、博士が慌てて冷蔵庫の扉を開け、ショッキングピンクの粉みたいなものを取り出した。よくちらし寿司の上にかかっているあの甘いやつだ。
「きっと桜でんぶなら大丈夫だ。食べられる。かけてあげなさい」
そう言いながら、それが入った袋をわたしに手渡した。ちらりと賞味期限が読み取れたけど、その問題についてはわたしが一生、胸にしまっておこう。
わたしは立ち上がり、スプーンを使って、彼のご飯の上に桜でんぶをたっぷりと降りかけてあげた。Lは背中を丸めそれを黙って眺めている。
「その箸は取ってやってくれ。死人みたいで縁起が悪い」
博士の言葉にわたしは慌てて、ご飯に突き立っていた二本のお箸を抜いた。
そのまま静かにLの手に握らせる。反対側の手にはお茶碗を渡した。Lはわたしにされるがままになっている。
「あと、膝」
松戸博士の声に、Lは椅子の上にあった両足を、すとんと床に落とした。
わたしが席に戻ったあと、やがてLは不器用に持った箸で、真っピンクになったご飯を掬いとり、おそるおそる口に入れた。
「……大丈夫?」
こくり、とLがうなずく。
ぱちぱちぱち、と博士が拍手をした。男の子も食べていたお箸を置いてぱちぱち拍手をした。わたしもぱちぱち拍手をしながら、なんだかふいに涙がこみ上げてきた。
「どうして泣くのですか」
Lが、お茶碗とお箸を持ったまま、わたしに聞く。
「えっ?」
どうしてだろ。
「えっと、えっと、えっと……何でだろ……わかんない、わかんない」
わたしはそう応えて笑った。泣きながら笑った。
* * *
そのあとLは二杯もおかわりをして、桜でんぶをすべて使い切った。卵焼きはおろか納豆までちゃんと平らげ、お味噌汁も一滴残らずぺろりとお腹におさめた。
ごちそうさまのあと、Lと男の子と三人がかりで食器類を片付け仏間に戻ると、仏壇に新しい線香が上がっていた。博士の亡くなった奥さんの写真に、わたしたちも手を合わせた。
布団を畳んで、出かける準備を始める。
「あれ、ない?」
リュックを背負ったわたしが、あたりをきょろきょろ見回していると、Lが「これですか」と、布団のあいだに長い手を差し入れ、クマのぬいぐるみを引っぱり出した。
「布団にまぎれて、うっかり一緒に畳んでしまったようです」
そう言いながら、わたしに手渡す。
「よかった。迷子になっちゃったって思った」
わたしが言うと、Lは棒キャンディをくわえた口の端を、ちょっとだけ上げてみせた。
博士と一緒に車庫まで出ていた男の子が、「Hurry up!」とわたしたちを迎えに戻ってきた。ふたりで競争しながら玄関を出てばたばたと車に乗り込むと
「ひさしぶりのにぎやかさだなあ」
運転席の博士が、そう言って楽しそうに笑った。
Lが助手席に座り、わたしたち四人を乗せた車は出発した。雨の中をこの近くにあるという大学まで向かう。研究施設を使わせてもらうためだ。
これから本格的に、わたしたちのウイルスとの戦いが始まる。
わたしは、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめてお母さんを思った。
リュックの中のメジャーとお父さんのことを思った。
写真の中で見た博士の奥さんのことも思った。
隣に座る男の子の、たぶん死んでしまったご両親のことも思った。
わたしが一度も会えなかった、ワタリという人物のことも思った。
そして心の中で、みんなに願った。
今日も一日、とてもいい日でありますように。
たとえ雨が降り続いていても、明日はどうなるかわからなくても
今日だけは一日、とてもいい日でありますように。
(おわり)
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