小説 「見上げた空は」

見上げた空は 1

泉美トモが初めて書いた、BL(ボーイズラブ)小説です。
じつは、単行本1冊ほどのボリュームがある大長編。

けっこう読みごたえがあると思います。
力をいれず、気軽にお楽しみくださるとうれしいです。

まあ、しかしながらここだけの話……

じつは、男子大学生ふたりとオヤジという
フクザツな人間関係は、とうてい一筋縄ではいかず

おそらくこの後も、シリーズとして続くのではないか
という予感が、恐ろしいけれども、しています。

T003

見上げた空は   ≪ 1 ≫

 サンタクロースをやるハメになった。
 初体験なのに、そんな重要な役なんてと思ったけど、赤い衣装と白ヒゲをつけて化粧室から出たとたん、よっちゃんがカウンター席から身を乗りだすようにして
「大山くん、すっげえ。似合う!」
 そう言ってくれたので、なんだか自信が湧いてきた。

 そもそもこの話はよっちゃんが去年までいたという養護施設の繋がりだ。クリスマスイブにサンタの格好で病院などに行くボランティアなんだけど、その賛助家庭をサンタが訪問するなんて活動もあるのだ。
 よっちゃんは大学に入ったらぜひやりたいと思っていたそうで、おれもそれに誘われたってカタチ。メンバーはもうすぐ商店街の集会所に集合するようになっている。
 おれたちは集会所の近くにあるよっちゃんのバイト先を、待ち合わせ場所に選んだ。商店街のメイン通りから少しはずれた喫茶店『カルカヤ』は、イブの喧騒をよそに静かなもので、ママさんは、おれたちがそこで衣装に着替えるのも快く許してくれた。

 おれ、大山賢太とよっちゃんこと水村好男は、同じ大学に通う一年生。おれは社会福祉学科、よっちゃんは国際学科と専攻は違うけど、クラブは同じ映画研究部に所属だ。
 自主映画を作ったりそれを映画祭に出品するのが主な活動で、おれたちのいくつか先輩までは賞を取るレベルの高い部だったんだけど、現在その名残りはない。いつも部室に来るのは、黒木カオルっていう同じ一年の映画オタクと、おれとよっちゃんの三人だけ。

 その黒木はいま、二階に細長く作られた店の窓際ボックス席に座り、不機嫌そうにコーヒーをすすっている。
「大山、そんなにサンタクロースが似合うんだ。せっかくならボランティアじゃなくて、ケーキ屋かピザの宅配のバイトでもやって、資金を調達すればよかったんだ。まあ、どうせ脚本もできてないんじゃ、映画作りはまだまだ先だろうけど」
 いつものごとく皮肉たっぷりな黒木の口ぶりだが、そのとおりなので言い返せない。
「脚本って。もしかして大山くん、夏ぐらいから書く書くって言ってなかった?」
 カウンターの中から、ママがハスキーな声でおれに聞いた。
「はあ、そうなんスけど……ちょっと」
 おれは、もう頭を掻くしかできない。
 カルカヤのママは、四十代後半ぐらいのすごい美人。ウエーブのかかった髪を無造作に後ろで束ねている。昔は役者だったそうで、マイナーながら映画にも出演したという。ただ厳密には女優……ではないらしい。詳細は不明だが。本名が「舜介」で、近隣では有名人物だというのは、もともと地元の人間であるよっちゃんからの情報だ。

T001

 よっちゃんは、すっごくいいやつだ。
 初めて会った頃、よっちゃんはおれの言うことを興味を持って聞いてくれて、それまでおれが、みんなにウソだって言われてバカにされてきたことだって、ちゃんと信じてくれた。おれはそれが嬉しくてよっちゃんと仲良くなって、以来ずっと二人でつるんでいる。
「せっかくだから、並んでみなさいな」
 ママの声によっちゃんはニッコリして席を立ち、おれの横に並んだ。おれの目線の下あたりに、よっちゃんの茶色いくせっ毛がくる。数ヶ月は伸びっぱなしの髪で、後ろには軽い寝ぐせがついたまま。
 玄関のドアにぼんやり映った、自分たちの影を眺めた。
 よっちゃんは細身のセーターとジーンズ姿で、首にはいつもの黄色いマフラー、頭にトナカイの角のカチューシャをつけている。よっちゃんは今回、「トナカイ」と呼ばれる裏方の仕事をすることになっていた。

「ねえママ。こうやってしゃんと背すじ伸ばすと、大山くんってすごく背え高いよね。雰囲気もすごくサンタっぽいし」
 よっちゃんの言葉にママがうなずく。
「それってさ、貫禄があるっていうこと?」
 まじな口調でおれが聞くと、よっちゃんはけらけらと弾けるように笑った。
「言っとくけど、おれはこの状態がベストなの。これ以上やせると、体調が悪くなんだよ」
「いいじゃん。ぼくなんかやせてるから、サンタをやりたくてもやれないし」
 まったくなんでそんなにスリムなのかな。おれはちゃんと標準体重の範囲内なのに、よっちゃんが隣にいると余計にでかく見られるんだよ。だけどそれを言ったら、よっちゃんはいつも「ぼくだって平均身長に近いのに、大山くんといるとすごくチビに見られる」と口応えをしてくる。まあ、お互いさまってとこか。

T002

「あっそうだ。さっきね、今夜ぼくたちがまわる家のリストも、衣装と一緒にもらってきたんだよ」
  よっちゃんが慌ててカウンターに戻った。「ぼくたち二人はI班だって」と言いながら、紙袋からガサゴソと紙の束を引っぱり出し、熱心にめくり始める。
 コーヒーを飲み終えたらしい黒木が、文庫本を手に立ち上がった。
「黒木くん、もう帰るん?」
 おれが聞くと、黒木は黒縁のメガネを中指でくいっと上げた。
「映画作りのミーティングをするって言うから、四駅も離れたこの店まで足をのばしたのに、結局いつもと同じ調子じゃないか。大山、お前はなーんにも考えていないし、水村だってまるで役に立ちそうにない」
「ミーティング……するつもりだったんだけど、いろいろ忙しくて」
 おれが肩をすくめると、黒木はいっそう不機嫌そうな顔になった。
「お前らと一緒にいたって、やっぱり何の進展性もないな」
 そう言い残して、店を出て行った。

 確かに、黒木の言うとおりだった。おれたち、集まっても下らないことを喋ったりゲームで遊んだりしてるだけで、映画研究部だというのに、いまだ何ひとつ内容のあることをしていない。
 いやいや、だからこそいま一念発起で、おれが中心になって映画作ろうってしてんじゃないか。それに、そもそもきっかけは黒木の発した何気ない一言だ。

「水村ってさ、なかなか映像映えするような顔をしてないか?」

 おれは最初、どういう意味かわからなかった。だけど、そのつもりになって気をつけながらよっちゃんを観察すると、黒木の言葉がしみじみと理解できた。

「たまに光の加減であいつ、別人のように見えるだろう?
 額が高くて鼻すじがスッとしている。唇は薄いがあごのラインはバランスがいい。たぶん、陰影が美しく形成される顔のつくりなんだ。ライティングの変化によってさまざまに違う表情が浮かび上がる。キャメラワーク次第で、水村はおそらくころっと化けるぞ」

 無遅刻無欠席で、意外と優秀な学生ってところをのぞくと、普段のよっちゃんはおれと同じくその辺にゴロゴロ転がってるような、ごく普通の男子大学生だ。ファッションには無頓着だし、女の子にもまるで縁がない。だけどおれは、そんなよっちゃんを「化けさせる」という計画に、密かに燃え始めていた。
 ただしそれはまだ誰にも言ってない。黒木にもよっちゃん本人にもだ。だって……だってさ、もし「君を、美しく撮りたい」なんてことヘタに口にしたら、おかしなふうに誤解されること請け合いじゃないか?

「ねえ、大山くん」
 よっちゃんが、おれを呼んだ。
「ん?」
 ふり返ると、よっちゃんがこっちをじっと見ている。
 おれ、たったいま「普通の男子」と言ったばかりだけど、やっぱりそうじゃないと感じた。よっちゃんの柔らかそうな髪、色白の肌、まっすぐな眉と黒い涼しげな瞳は、きっと誰が見てもかなり印象に残る。
「大山くん。ぼくやっぱり、今夜のこれ、やめようかな……」
 眼を伏せ、トナカイの角をはずしながら、よっちゃんがいきなり言った。
「ええっ、いまさら何言ってんだよ。もうすぐこれ始まるんだぜ? おれたちが責任もってまわらないと、たくさんの家にサンタが来ないことになっちゃうんだよ?」
 おれが慌てた声を出すと、よっちゃんは「うん、でも」と、気の乗らない返事をした。
「I班の担当はどこなの?」
 カウンターの中からママが聞く。おれはこそばゆい白ヒゲを取りつつ、よっちゃんの横から書類を覗きこんだ。
「なーんだ、高尾台じゃないか。石橋さんちのすぐ近くじゃん」

 石橋さんというのはよっちゃんのおじさんにあたる人だ。両親のいないよっちゃんの後見人だと聞いている。映像制作の会社をやっていて、ドキュメントのいろんな賞も取ってるすごい人だ。夏にはおれもそこでバイトさせてもらった。資料探しで自宅にお邪魔したこともあるから、おれも家は知っているんだ。
 ママが皿を拭きながら、ふふっと笑うように言った。
「ひょっとして恥ずかしいんじゃない? 仮装までしてのボランティアだもの。大丈夫、高尾台は広いんだから、そうそう知り合いに会うことなんてないわよ」
 そのとおりだ。トナカイの格好が恥ずかしいなら、真っ赤っ赤なサンタのおれはいったいどうすりゃいいんだ。
 よっちゃんは、しばらく考えるようにしていたけど、やがてニッコリ笑って「そうだよね」と、うなずいた。
「ぼくたちが責任もってまわらないと、たくさんのおうちにサンタが来ないことになっちゃうもんね。それじゃあダメだもんね」

 ふと気づくと、集合の時間が近づいてきていた。おれたちは「やばっ!」なんて叫びながらバタバタと荷物を持ち、カルカヤの玄関ドアを開けた。
「あ、よっちゃん。ちょっと待って」
 ママがよっちゃんを呼びとめる。おれが階段の下まで行ってしばらく待っていると、上でカランコロン、とドアベルの音がして、襟にボワボワつきの茶色いジャケットを着こんだよっちゃんが、小さな包みを手に駆け下りてきた。
「あのね、うにたんにママからクリスマスプレゼントだって。ハムスター用のクッキーなんだって」
 そう言ってよっちゃんは、明るい笑顔を見せた。

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見上げた空は 2

T003
 * * *  ≪ 2 ≫

 夕方五時、サンタクロース隊は出発した。
 I班のサンタはおれ大山賢太で、トナカイはよっちゃん、水村好男だ。本当は、サンタとトナカイと運転手という三人でグループを組むはずだったんだけど、手違いがあったそうだ。車と運転手が足りなくて、おれたちI班はH班のワゴン車で一緒に高尾台まで行き、そこで降りて徒歩で家々をまわることになった。「若者だから、体力勝負」ということらしい。
 これからポスターを目印にして、リストに載っている各家庭をまわる。プレゼントを子どもに渡してゆき、ひとつごとに親から千円の参加費を受けとる。
 そうそう、仕事は単純だけど大切なことを忘れちゃいけなかった。サンタ役の人間は、子どもの前ではあくまでもサンタクロースとしてふるまうのが決まりだ。

 おれたちはワゴン車を降りた。訪問先の数はさすがに少し減らしてもらったけど、それでも徒歩でまわるにはかなりの大荷物だった。おれが大きな白い袋を二つ抱えようとしていると、よっちゃんが「ひとつ持つ」と言いだした。
「いいよ。荷物を持つのはサンタの仕事だぜ。トナカイにもお金集めたりポスター回収したりと、いろいろ仕事あるじゃん」
「でも、サンタが袋を二つも持ってるのはちょっとかっこ悪いよ。それに、どんなに重くたって二人で持つと楽ちんだよ」
 口をとんがらせてそう言うので、お言葉に甘えて袋を背負ってもらうことにした。よっちゃん結構、嬉しそうだ。
 団地のバス停に着いたあと、ロータリー横に設置された風よけの建物に入った。ベンチに座りこんで、プレゼントのリストと団地の地図を確認する。H班のスケジュールに合わせて出発したから空もまだ明るくて、訪問を始めるには早すぎる。まだ時間はたっぷりとあった。

「あのね、昨日はビデオ借りて、映画を観てたんだよ」
 よっちゃんが、黒い瞳をキラキラさせて喋り始めた。映画の話をするとこいつ、いつもこんな顔になるんだ。
「へえ、何見たん?」
「あのね、クリスマスっぽい作品って考えて二本。『34丁目の奇跡』と『ニューヨーク東8番街の奇跡』」
「えっ? 何のキセキって?」
 おれが聞きかえすと、もどかしそうにふたつのタイトルをくり返したあと
「でも『東8番街』の原題は全然違うんだけどね。『BATTERIES NOT INCLUDED』で『バッテリー切れ』って意味」
 流暢な発音でつけ加えた。

 よっちゃんはさすが国際学科だけあって英語がうまい。洋画、特にコメディなんか一緒に観てると、明らかに笑う箇所が違ってたりする。おれは字幕がなきゃ何もわかんないから、そんなよっちゃんが当然うらやましい。
 でもそれを言うと「そんなの映画観てたら憶えるじゃん」と、こともなげに返される。いや、それができるようだったら日本人の半分は英語ベラベラだって。
「でもおれ、どっちの映画も知らないなあ」
 よっちゃんは、信じられないというような顔をした。
「それは絶対観なきゃダメだよ! 特に『東8番街』は、大山くんは絶対観なきゃ!」と、口角泡を飛ばす。
「あのね、『ニューヨーク東8番街の奇跡』はかわいい宇宙人と友だちになるんだよ。スピルバーグプレゼンツだよ」
 スピルバーグで宇宙人と友だちつうと『E.T.』『未知との遭遇』みたいなもんか?
「でもね、てっきりクリスマスの話だと思って借りたのに、観てみたらそうじゃなかったんだよ。あと『34丁目の奇跡』はサンタクロースの話で、もとはブロードウェイミュージカルって書いてあったから観たのに、これも実はミュージカルじゃなくてさ」
「というと、どっちともハズレだったん?」
「違う違う、ハズレじゃないよ! どっちも楽しくてきれいだった。ただ、自分が想像してたのとちょっと違ってただけ」

 よっちゃんの一番のお気に入りはミュージカル映画で、ファンタジーやSFっぽいのも好んで観ているようだ。そういうのはおれも観るけど映画自体の好みは微妙に違う。どちらかというとおれはJ・ブラッカイマー製作とかの、男がグッとくるような作品が好きだ。
「クリスマス映画つったらさあ、おれはやっぱり『ダイハード』だな」
 この映画の監督はJ・マクティアナン。『プレデター』『レッドオクトーバーを追え!』など、骨太な演出に定評がある。『ダイハード』は人気作品で続編もたくさん作られたけど、おれはやっぱり最初のやつがベストだと思う。
「『ダイハード』ってさ、クリスマスイブに起こった事件の話なんだぜ」
「ええっ、そうだったっけ?」
「そうだよ。結構みんな忘れがちだけどな」
 よっちゃんは、うーんというふうに眉をひそめた。
「なんかさ、テロリストの人も、わざわざそんなことしなくてもいいのに。せっかくのクリスマスなのに人なんか殺さなくていいのにさあ」
 いや、テロリストだから人を殺すんだし、そんな夜に事件が起きるからドラマになるんだよ、よっちゃん。
 どうやらよっちゃんはその類のシーンがかなり苦手らしい。全然観ないわけじゃないけど、おれが借りてきたバイオレンスホラーやアクション映画を一緒に鑑賞していると、途中で目も耳もふさいじゃってることがしばしばある。よっちゃん、きっと心がすごく優しいんだよね。

T001

「あっそうだ。クリスマスといえばさ、おれ悔しい経験があってさ。中二の冬に大ケガしたって前に話したじゃん?」
 おれが言うと、よっちゃんは「ああ」とこっちを見てニッコリした。
「部活やってたらすっごい風が吹いて、サッカーゴールが倒れてきて、大山くんが下敷きになったんだよね」
「そうそう。あん時十二月初めで、全治一ヶ月って言われてたから、本当はクリスマスには、病院にいるはずだったんだよ」

 おれの『ダイハード』な体験談だ。ひどく頭を打って一時は生命の危機もあったらしい。だけど奇跡的な回復をみせて、数日後には、食事の量が足りないと文句まで言ったそうだ。自分では憶えてないけど。
「んで結局、予定より一週間ぐらい早く退院して。それが二十四日の朝じゃん。その日の夕方ニュースで『サンタクロースが病院を訪問して、よい子にプレゼント』って、おれが朝まで入ってた病院が映ってんの。
 中二なんだから、もちろんサンタなんかまともに信じてないよ。信じてないけど悔しいじゃん。あと半日あそこにいたら、サンタにプレゼントもらえたのに何で退院させちゃったんだよって、親にだんぜん抗議しちゃった」

 よっちゃんは、げらげら笑って
「でもさ、いいじゃない。ちゃんとおうちでクリスマスを迎えられたんだから。きっとそれが一番のプレゼントだよ」
「そりゃそうだけど、やっぱサンタに会いたいじゃん」
「ふうん」
「そりゃそうだけど、やっぱサンタに会いたいじゃん!」
 ついムキになったおれに、よっちゃんはしれっとして言う。
「ぼく、会ったことあるよ」
「どこで?」
「だからぁ、いま話してたじゃない。病院で、だよー」
 よっちゃんもムキになった。口をとがらせオーバーアクションでうつぶせになる仕草をする。
「背中をケガした時だったと思うよ。自分がこうやってベッドで寝てたの憶えてるから。だから、たぶん八歳だよね」

 よっちゃんの背中にはかなり大きな火傷のあとがあった。子どもの頃の傷なのだそうだ。夏に友人たちと行った海で少しだけ聞いた。よっちゃんは自分が小さい頃の話をあまりしない。いい思い出がないのかもしれない。
「赤い大きな男の人が、いきなり入ってきて。何か大きな声で叫んだんだよ。ぼく、それがものすごく怖くてさ。泣いちゃったんだ。わーって」
「怖くて?」
 うん、とよっちゃんはうなずいた。おれ、正直「失敗した」と思った。楽しい話題のつもりだったけど、かえってよっちゃんに、子どもの頃のイヤな話をさせてしまった。
「……あのね。クリスマスって、よく知らなかったんだよ。サンタクロースも知らなかった。だからいきなり来られた時、めちゃくちゃ怖かったんだ。あとで看護師さんが意味をおしえてくれて、やっとわかった」
 よっちゃんが、照れたように笑う。
 クリスマスやサンタクロース。別にクリスチャンでなくとも、普通の子どもだったら普通に知ってるよ。ましてや八歳にもなればさ。よっちゃんは明るく笑ったけど、おれの心はちょっとチクリとした。
 あらためて中二のクリスマスを思い出した。そういえばあの時、母ちゃんもよっちゃんと同じことをおれに言った。
「家でクリスマスを迎えたんだから幸せでしょう。入院していて家に帰れない子は、何人もいるのよ。あんたはいつもそうやって考えなしにものを言う」

 気づくと、よっちゃんは生真面目にリストの確認作業に戻っている。おれも慌てて、よっちゃんの横から書類を覗きこんだ。
「あれ?」
 リストの最後にある申込者の名前には『石橋絵里』と書かれている。石橋さんの中学一年生になる娘さんの名前だ。
「なあよっちゃん。この名前ってさ、ひょっとして石橋さんとこだよな」
 書類の内容から推測すると、どうやら仕掛人が絵里ちゃんで、サンタが贈るプレゼントの相手は、石橋家を訪れている彼女の小さな従姉妹たちらしい。
 よっちゃんが力なくうなずく。
 ああ、わかった。と思った。よっちゃん、これに気づいて、それでイヤがってたんだ。親戚にこんな格好で会うのは、やっぱりちょっと気恥ずかしいもんだよな。
「大丈夫だよ、おれがいるから。それに、親戚の兄ちゃんがサンタクロースと一緒に来るなんてめったにないことだし、すごく喜んでくれるんじゃない?」
 おれはつとめて明るく言った。けどよっちゃんは、まるで聞いてないかのようにリストをぱたんと閉じて立ち上がった。
「もうそろそろ時間だよ。早く始めようよ。大山くん」

 * * *

  サンタの訪問はかなり順調にすすんだ。さまざまな歓迎を受けながらあっというまに時間は経った。八時半をすぎて、よっちゃんが持つ袋はもうとっくにぺしゃんこだった。おれの袋の中身も残り少ない。
 小さな児童公園でひと休みすることにした。
 残念ながら、今夜はホワイトクリスマスにはならないみたいだ。だけどそのかわりに、降らんばかりの星がおれたちの頭上にきらめいている。
「滑り台!」
 よっちゃんは軽やかに上まで登り、立って夜空を見上げた。
「きれいだねえ」
「うん」とおれもうなずいて、袋をそばに置き、滑り台の降り口に腰をかけた。
 白ヒゲをはずしながら空を眺める。しばらくして上からよっちゃんの声がした。まるで歌うようなイントネーションだ。
「大山くん、ぼくの思ってたとおりだった。サンタクロース、ぴったりだったよ」
「うん?」
「さっき、話したでしょ。サンタクロースの出てくる映画」
 ああ確か、ナントカの奇跡ってやつだ。
「お話の中でサンタクロースが言うんだ。自分は、シンボルなんだって」
「シンボル?」
 おれがふり仰ぐとよっちゃんは、うん、とうなずいて、そして一気に言った。

「I'm a symbol of the human's ability to suppress the selfish and hateful tendencies that rule the major part of our lives.」

 当然ながら、おれにはまるで聞きとれない。
 おれが首をかしげると、よっちゃんも同じようにちょっと首をかしげて「あ、ごめん」と、ニッコリ笑った。
「えっとね……『自分勝手や憎しみばかりが支配する世の中で、人々にとってわたしが、それを止められる力のシンボルなんだ』って」
「ふうん」
「もし、サンタクロースを信じることのできない人がいたら、その人の人生は、疑いだらけの寂しいものになってしまうんだ」
 よっちゃんは、また空を見上げた。
「今夜、子どもたちみんな大喜びだった。大山くんはまるで、サンタクロースそのものだったよ。大山くん、やっぱりシンボルだ」
 いやいや、ただコスプレが似合うってだけのやつによっちゃん褒めすぎだよ。おれは無性に照れくさくなって身体を丸め、自分のでっかい口をまた白ヒゲで隠した。
 体格を考えなかったら、心優しいよっちゃんの方がよほどサンタにはふさわしい。おれが、正直にそんなふうに言うと、よっちゃんは笑いながら応えた。
「ぼくは、サンタクロースにはなれないよ」

T002

 その声がやけに寂しく聞こえ、思わず後ろに向き直ろうとして、ドンと衝撃を受けた。
「うわあっ!」
 よっちゃんの顔が間近だった。上から滑り下りてきたんだ。
「何すんだよ、よっちゃん」
 そう言いながら立ち上がろうとしたとたん、互いにバランスを崩した。「おっとと」と、たたらを踏んだあげく、もつれるように二人で地面に倒れこんだ。
 慌てて起き上がり、土をはらう。
「もーっ。危なかったよ。よっちゃんちょっと気をつけろよ」
「ごめん、ごめん」
 よっちゃんはけらけらと笑った。
 冗談抜きでいま危なかった。もし白ヒゲをつけてなかったら、よっちゃんとおれ、危うくチューしてたとこだった。
 袋を拾い上げ、気を取りなおして、おれは明るく言った。
「さあて、あと三軒。帰ったら打ち上げの宴会も待ってるし、ラストは石橋さんちだよ。よっちゃん、盛り上がっていこう!」
 よっちゃんが、急に静かになった。
「……大山くん」
「ん? 何?」
 おれが返事をしたのに黙っている。
「よっちゃん、何だよ?」
 さっきから、石橋さんの話になるとよっちゃん、どうも変だ。
「ううん、なんでもない」
 よっちゃんは、スタスタと先に行ってしまった。

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見上げた空は 3

T006

 * * *  ≪ 3 ≫

 残りの二軒分を順調にすませた。
 いよいよラストの訪問だ。おれとよっちゃんはゆるやかな丘を越えて、上から四軒めだという石橋家へと急ぐ。ささやかなイルミネーションと門扉に貼られたポスターが目に入った。見覚えのある上品な日本家屋だ。立ち木の下に二つの人影があるのが見えた。
「サンタさんですか?」絵里ちゃんの声。もうひとりはどうやらお母さんのようだ。
「そうです。こんばんは」
 おれはそう応えたが、隣にいるはずのよっちゃんの返事がない。あれっと思ってふり向くと、数歩下がった後ろに突っ立っている。
「ごめん大山くん。やっぱりぼくここで待ってる」
「へっ?」
「向こうで待ってる」
「ええっ、な、何だよ、よっちゃん!」
 よっちゃんは返事もせず、踵を返して走っていってしまった。途方に暮れたけど、ここでオロオロしても仕方がない。おれひとりで門の中に入った。

「あのう、すみません。三人分って言ってたんですけど、ひとりキャンセルってできるんでしょうか」
 絵里ちゃんが、すまなそうな声でおれに訊ねた。横からお母さんもフォローする。
「この子の父親の分も頼んでいたんです。だけどまだ仕事から帰ってきてなくて」
 なるほど、隣の駐車スペースに紺のBMWは停まっていない。石橋さんの精力的な仕事ぶりをみると、この時間に帰っていないのは普通なんだけど、今夜ぐらいは早く帰ってくれてもいいのにな。
 申込みリストには確か「小学校高学年向け希望」とあった。絵里ちゃんにとって、きっと父親相手の遊びごころだったんだろうけど、渡す相手がいないんなら仕方ない。おれは「いいですよ」と応えた。
「サンタクロースがじかに手渡すことに楽しさがあるんですから。それにお父さんだったら、あとから学習帳なんかもらったって、あんまり嬉しくないだろうし」
 絵里ちゃんは、ほっとしたように笑った。
「そのかわり、ネクタイを置いておくことにします。こっそり枕もとに」
「ああ、そっちの方が、きっと喜びますね」

 絵里ちゃんもお母さんも、おれとは気づかないみたいだ。そりゃ一度会ったきりだし、今夜のおれはサンタクロースだ。特に、みんなに言わせるとおれのチャームポイントらしいでっかい口も、いまは白ヒゲの下に隠れてしまっている。
 でも、あの夏の盛りに冷房のない倉庫で、一昼夜かけて資料を探さなくちゃならなかった時の、冷たいスイカやジュースの差し入れなんかとてもありがたかった。シャワーを貸してくれて、新しい着替えも用意してもらえたのも嬉しくて、そのとき感じた印象は、今夜もそのままだった。

T002

 お金を三人分払う、というお母さんの申し出はありがたくお断わりした。二人が家に戻ったあとにおれの出番だ。白い袋をわっしと担いで玄関から居間まで一気に突入した。
「メリークリスマース!」
 居間では絵里ちゃんとお母さんと、叔母らしい若い女性、そして小さな従姉妹が二人のかわいいパーティをやっていた。女の子たちはサンタの登場に「キャア!」と嬉しい悲鳴をあげた。そしてプレゼントの飛び出す絵本に狂喜し、歌をうたい、おれとの写真を何枚も何枚も撮った。
 玄関先で子どもたちとじゃれあいながら、苦労して靴を履こうとしていた時、からりと玄関の引き戸が開いた。
 ひんやりとした外の空気をまとわりつかせて、石橋さんが帰ってきた。

「あっパパ、おかえりなさい!」
「声が外まで丸聞こえだったぞ。いったい何かと思ったら、サンタクロー……」
 そこで石橋さんはおれの顔に気づいたらしく、小さく「あれっ」と言った。
「メ、メリークリスマス!」
 立ち上がり慌てて大声で叫んだ。子どもたちの前で今夜のおれは、あくまでもサンタクロースだ。
「メリークリスマス」
 石橋さんもそれがわかったんだろう、知らないそぶりで笑顔を返してくれた。
 おれは石橋さんを家に上げようと、急いで身を交わし玄関を大きく開けた。ふと引っぱられる気配にふり向くと、絵里ちゃんがおれの服の裾を持ちいたずらっぽくおれに目配せをしている。あっと思って、おれは袋に残っていた最後の包みを取りだした。
「お父さんにも、サンタクロースからのプレゼントだよ!」
 そう言いながら石橋さんに手渡した。コートを奥さんに預けた石橋さんが「何だろう?」と包みを開けると、大きなヒマワリが表紙の学習ノートと、十二色の色鉛筆が出てきた。
「ちょうどノートが欲しかったんだ。おお、ヒマワリの写真が見事だね」
 笑いながらそう言う石橋さんに、家族みんながどっと湧いた。

「サンタさーん、来年もまた来てねー」
 そんな明るい声に送られて門を出た。楽しい余韻を味わいながら空っぽになった袋を担ぎなおし、坂の上に足を向けようとすると
「大山くん」
 不意に、よっちゃんの声がおれを呼んだ。
 よっちゃんは、門から出たすぐの暗がりに、小さくしゃがみこんでいた。
「よっちゃん、何してんだよこんなとこで!」
 おれは思わず声をあげた。
 暗くてよっちゃんの表情はわからない。石橋さんちの窓に飾られた色とりどりの明かりが、生け垣越しに目に入ってくる。
「いきなり戻っちゃうから、おれ驚いたんだぜ?」
「……ごめんなさい」
「いったいどうしたんだよ。そんなにこの格好で会うのがイヤだった? 別に何でもなかったのに」
 路上で声をひそめて話していると、後ろの方で石橋さんちの玄関がまた開いた気配がした。よっちゃんがはっと息を呑む。ふり向くとスーツ姿をラフなカーディガンに着替えた石橋さんが道に出ていて、「大山くん」と、おれに声をかけた。
「あ、はい」
「ああ、やっぱり君だったんだ。ハンサムなサンタクロースだと思ったよ」
 そう言っていつもの、人好きのする温和な顔で近づいてきた。

「ボランティアなんだってね、いま家内と娘から事情を聞いたよ。夏にうちの会社でバイトしてた子だよって言ったら驚いてた。わたしの分の参加費を支払ってないそうだね。まだ近くにいるかと思っ……」
 そこまで言って石橋さんは、暗がりのよっちゃんに気づいたらしい。
「……よっちゃん?」
 よっちゃんはうつむいて、力なく立ち上がった。石橋さんがゆっくりと近づく。
「……そうか。よっちゃんも一緒だったのか」
「ごめんなさい」
 よっちゃんは、走りだそうとしておれの胸にどすんとぶつかった。よろめくよっちゃんを石橋さんが「おっと」と支えた。よっちゃんはつかまれた手を振りほどくように強くもがいた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい。ぼく、会ってないから。ここまで来たけどおうちの人には会ってないから」
「わかってる。わかってるよ」
 石橋さんが小さな声で応える。横で見ていたおれは混乱した。よっちゃんとおじさんの会話、意味がなんだかよくわからない。
「大山くん」と、石橋さんが言った。
「はい」
「すまないが、先に行っててくれないか」
「あ、はい……」

 おれは慌てて坂道を登った。なんだか妙に気持ちがざわついた。一気に上まで行って、坂の反対側に下りかけたところでふと立ちどまった。
 おれ、親戚だっていうから呑気に考えてたけど、もしかして、石橋さん以外の家族とはうまくいってないのかもしれない。でないと施設にいたりしないだろう。石橋さんひとりでも大丈夫だろうか。さっきのよっちゃんはちょっと普通じゃなかった。やっぱりおれも、一緒にいた方がいいんじゃないか。
 また慌てて引き返した。坂の上に着くと、必死で前方の路上へ眼をこらす。
 暗がりの中で抱き合っていた。
 ……よっちゃんと、石橋さんが。

 * * *

 胸にどっと突風が吹いた感じだった。
 自分が袋を取り落としたのに気づいて、慌てて拾い上げた。そのまま反対側へ走って下りた。もう一度確かめたいと思ったけど、再び見る勇気もなかった。きっといまのは目の錯覚に違いない。そう心に言いきかせながら、おれは機械的に足を動かした。H班と待ち合わせた場所までの道を、ひたすら歩くことに専念した。
 いや別に錯覚じゃなくてもいい。だってよっちゃんのまわりには外国人留学生がたくさんいる。石橋さんも、かつて外国に住んだことがあるって聞いてる。おれにはショックだったけど、きっと彼らにとってはハグなんて日常茶飯事で、別に珍しいことじゃないんだ。必死でそう考えようとした。
 いきなりおれの膝が、ガクンとくだけた。

「うわあ!」
 びっくりしてふり返ると、よっちゃんがすぐ後ろで「エヘッ」と笑っている。よっちゃんはおれに膝カックンを仕掛けていた。おれ、自分でも知らないうちに立ちどまっていたらしい。
「ああもう、何すんだよ、よっちゃん」
 ちょっとだけ息を切らして、よっちゃんはいつもみたいに笑っていた。よっちゃんは「ひとりで先に行かせちゃって、ごめんね」と謝ったあと
「おじさんから参加費の千円、もらったよ」
 とお金を出し、集金用の封筒に入れなおして、上着の内ポケットに収めた。

 おれたちは並んで歩きだした。よっちゃんが、さっきと反対側のポケットから千円札を三枚引っぱり出し、おれに見せた。
「それからね、おじさんからおこづかいもらっちゃった。お腹すいただろうから、帰りに大山くんと温かいもの食べなさいって。あとで一緒に、ラーメンか何か食べに行こうよ」
「あ、う……うん」
 おれは、何と応えていいかわからなくて、ぎこちない返事をした。やっぱりざわざわした気持ちは治まらなかった。よっちゃんが、不意に立ちどまった。
「大山くん」
 おれも、立ちどまった。

 よっちゃんがおれをじっと見た。水銀灯の明かりがよっちゃんの顔を白く照らした。美しい影が顔に落ちている。
「さっき……見た、でしょ?」
「……うん」つい、そう返事をした。
 よっちゃんは、少し笑った。
「愛人なんだ」
「うん?」
「あの人、本当のおじさんじゃないんだ」
「うん? ん?」意味が、わからない。
「血の繋がりは、ないの」
 歌うような抑揚をつけて話す。
「あの人と、セックスしてお金をもらってるの。毎月。三千円とかじゃなくて、すごくたくさん……」
 そしてよっちゃんは、また笑った。
「ぼく、あの人の、愛人なんだ」
 おれの頭の中で、ようやく焦点が合った。

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見上げた空は 4 par.1

T005

 * * *  ≪ 4 ≫

 【 parenthesis 1 】

 今夜じゅうに、企画書をひとつ書かなければならなかった。
 手早く食事をすませてしまうと、石橋遼一は書斎の椅子に腰かけた。
 自分がワーカホリック気味なのはわかっている。それ以外なら、健康には気をつかっているつもりだった。
 妻と娘が「メタボリック症候群だ!」と腹を指差して笑うが、ある程度の肉付きは年齢的なことで、毎年の健康診断もクリアなものだ。
 煙草を一本取り出す。そんなわけだからここ数年、吸うのをほとんどやめてはいるが、この一本だけは、新しい仕事に入る前の欠かさぬ儀式となっていた。

 ライターを机の引き出しに戻そうとしながら、石橋はふと思い立った。
 確か、あったはずだ。
 石橋はくわえ煙草で腰をかがめ、引き出しを探ってみる。
 いちばん奥のすみで冷たく硬いものが指の先にふれた。なめらかな感触だが一部がギザギザと尖っている。それを手元に引き寄せた。クリスマスツリーの飾りに使う小さな天使の人形だった。陶器製で、片方の羽が折れて欠けている。
 石橋は、人形を手のひらに乗せ、その欠けて尖った部分をゆっくりと親指の腹でなでた。先に残る小さな汚れは石橋の血だ。
 こんな思いにかられるのは、さっき抱いた彼の背中の感触のせいかもしれない。何年も前に通り過ぎたはずの痛みがよみがえって、石橋は自嘲気味に少し笑った。

 これで殴りつけられたときには、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
「いったいぼくを、何だと思ってんだよ」
 泣いてそう叫ぶ彼に、あのとき石橋は耳元で何度もささやいたのだ。

 愛している、と。

Tc0301
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見上げた空は 5

T007

 * * *  ≪ 5 ≫

  すぐにH班のワゴン車と合流した。お互い空いたところに座ったから、よっちゃんとおれは席が離れてしまった。
 おれはよっちゃんの言葉を「まじ?」って確かめたくてやきもきしてたのに、車の中は今夜の武勇伝で盛り上がっていて、全然そんな雰囲気じゃなかった。
 集会所に着くと、早く帰ったほかの班がすでに車座になって宴会を始めていた。おれが隣の部屋で普段着のパーカとジーンズに着替えているあいだに、それぞれ空いてるところに座らされたので、よっちゃんとはまた席が離れてしまった。
「まあ一杯、一杯」と、せわしく紙コップを渡され、おれとよっちゃんには一応未成年ということでジュースが注がれた。乾杯がされて、クリスマス用オードブルや熱いシチューがどんどんまわってきた。

 よっちゃんは居合わせた留学生グループの中にいて盛り上がっていた。おれは気後れしてそっちには全然近づけなかった。他の人とたわいもない話をしたけど、それもいまいち乗れなくて、ひとりで壁によっかかってビールの缶を開けた。
 おれの頭の中ではよっちゃんの「愛人なんだ」って言葉が、グルグル回っていた。愛人ってことは要するに不倫関係だ。不倫、フリン。もしそれが本当なら、あんなにあの家に行きたがらなかったのが理解できる気もした。不倫している相手の奥さんや子どもに、誰だって会いたいはずがない。
 いやしかしそれにしても、石橋さんは五十代の男性でよっちゃんはおれと同じ大学一年生の男子で、男同士じゃないか。オトコドーシ。愛人、愛人、アイジンなんてそーゆー関係はあり得るんだろうか。セックスしてるって、あのよっちゃんが本当にセックスなんかしてるんだろうか。
 ああ、ショック。
 だっておれ、……やったことないのに。

 ふと気づくと、どうやら最初のお開きになったらしい。何人かがいとまを告げ始めている。よっちゃんのまわりも静かになっていて、おれもやっと近づくことができた。よっちゃんは体操座りで、あごを膝に乗せてぼんやりしていた。
 おれは少し驚いた。すごく陽気に笑っていたみたいだったのに、よく見るとよっちゃんはオードブルにもシチューにも、お菓子類にもほとんど手をつけていなかった。乾杯のジュースさえ半分残したままだ。
「よっちゃん。もう帰ろう」
 おれの言葉に返事もしない。
「よっちゃん!」
 つい、きつい調子になる。よっちゃんは意外と素直に「うん」と立ち上がった。
「ぼく、トイレに行ってくる」

 ここからおれとよっちゃんの住む町までは私鉄で四駅。のんびり歩いて一時間ぐらいの距離だ。貧乏学生としてはわずかな金もケチりたいとこだけど、終電には微妙な時間だし、今日はさんざん歩いたあとだからタクシーで帰ろうと思った。
「そこのでかい大学生、残りものを持っていきなさいよ」
 炊出しのお姉さんたちに足止めをくらった。ありがたくオードブルとおにぎりとお菓子をビニールの風呂敷に包んでもらう。あとでよっちゃんと二人で分けよう。そう思いながら集会所を出たけど、よっちゃんはそこにいなかった。
「あれ、よっちゃん?」
 まだトイレかな、と戻ってのぞいてみたけど、そこにもよっちゃんの姿はなかった。慌てて道まで出てみると、はるか向こうにひょろりとした人影がある。なんてこったい。おれはよっちゃんを追いかけながら叫んだ。
「よっちゃーん!」
 そのとたん、よっちゃんが脱兎のごとく駆けだした。

「よっちゃん! どうしたんだよ!」
 おれは驚いて追いかけた。コンパスの差も体力差もあるし簡単につかまえられると思ったのに、なかなかその差を縮めることができなかった。信じられない思いでおれはよっちゃんを追いかけ続けた。右わき腹が痛くなってきたけど止まるわけにはいかない。おれは腹に手を当て押さえながら走り続けた。
「よっちゃん! 待ってくれよ!」
 あれ、こんな感じで主人公がいきなり走りだす映画があったよな、なんて思った。そうそう『フォレスト・ガンプ』だ。主人公って結局どれぐらい走ったんだっけ。げげっ確か、ラストのあたりではアメリカ大陸横断してなかったか?
 おれたちもすでに持久走の様相を呈していた。自宅まで歩いて一時間の距離。これを最後まで走りぬくつもりなんだろうか。それともまさかよっちゃん、ひょっとしてあのガンプみたいにヒゲがぼうぼう生えて、人が後ろから大勢ついて来るまで走るのをやめないつもりだろうか。

 クリスマスのイルミネーションを施した商店街はすでに明かりを消してあり、忘年会の帰りらしき酔っぱらい親父がごきげんでフラついていたけど、よっちゃんとおれの姿を見たとたん驚いて飛びしざった。
 走りながらおれは、やっぱりまた妙なことを考えた。うにたんのことだ。
 うにたんというのはゴールデンハムスターだ。よっちゃんちの隣に住む留学生の李さんが連れてきた。研究用のやつが何かの事情で余ってしまったらしく、結局よっちゃんがもらい受け面倒をみている。
 そのうにたんが大ケガをした。ちょうどおれたちがまだ入学したてで、おれがよっちゃんちに遊びに行っていた春の夜のできごとだった。

「ジュッ」という声が聞こえたので、おれとよっちゃんは何ごとかと、うにたんのケージを覗きこんだ。うにたんの左足はおかしな方向に曲がっていて、ひとめで折れているとわかった。遊んでいて回し車とカゴのあいだに足をはさみ、そのまま自分でポキリとやってしまったらしい。
 それなのにうにたんは回し車に再び乗って、それはそれは猛烈ないきおいで回り始めた。ぶらりとなった足がハシゴ状になった車のすき間に引っかかり、いっそう変な方に曲がる。
「うわあーっ。痛い、痛いよ。うわーぎゃーやめてやめて、ああやめてうにたん!」
 慌ててうにたんをつかまえおとなしくさせたあと、カゴを分解し、回し車に巣箱にトイレなど、足の引っかりそうなものを全部はずしてやっと安心できた。

 翌日、動物病院に連れていった帰り
「それにしても、なんで走っちゃったんだろうねえ。あんなふうに足が折れてたら、本当はものすごく痛かったはずだよね」
 おれがそう言うと、よっちゃんは
「うん、あのねえ。逃げようとしてたんじゃないかなあ」
 そう応えて、抱えたケージを眺めた。
「何かの拍子にね、すごく驚くことがあるんだけど、その時はうにたん、しばらくビュンビュン回し車を回してるんだ。そしてここまで来れば大丈夫かなあって顔しながら、おそるおそる車から降りてくるんだよ。あれってきっと、自分ではずっと遠くまで逃げてきてるつもりなんだよ」
 ゆうべはきっと、ケガをしてものすごく痛かったから、走ってその痛みから逃げようとしたんだよ。
 よっちゃんはつぶやくように言った。
 その時の表情がおれの中で、水銀灯に白く照らされた今夜の顔と、なぜか重なった。

T0043

 とうとう、帰路をほとんど走りぬいた。
 いま下りているゆるやかな坂の、三叉路を曲がってすぐがおれのアパートで、そのまま行って十分ほどのところによっちゃんちだ。
 よっちゃんは走るスピードを落とさないまま、その曲がり角のあたりでちらっとおれの方をふり向いた。そのとたん何かにつまづいたのか、ものの見事に前方にでんぐり返って転んだ。
「よっちゃん!」
 その場にぐったりと座りこみ、はあはあと肩で大きく息をしているよっちゃんに、おれはやっと追いつくことができた。だけどおれも心臓がばくばくで、息も上がってしまっている。両膝に手を当てかがんだまま、しばらくまともに喋れなかった。
「よっ……。だっ、だい、だいじょ……いったい……」
 おれがなんとか口を開いたとたん、よっちゃんが、がばっとおれの腕をつかんで、顔をゆがめ悲鳴をあげた。
「ああ、あし足! 足つった! 大山く……右足つった!」

 * * *

 足がつるまで走るなんて、まったくどうかしてるよ。よっちゃん。
 その場でスニーカーを脱がせ応急手当てをしたあと、おれはよっちゃんを、有無を言わせず自分の部屋に連れていくことにした。
「だから、こんなとこで休んでたって寒いだけだって。こうして食べものもあるし、うちでゆっくり休めばいいじゃん」
 そう言って、いやがるよっちゃんを無理やりおぶった。
 ゆっくりとまた坂道を上がってアパートに向かう。よっちゃんの身体は信じられないくらいに軽かった。これじゃ実家にいるおれの姉ちゃんの方が、よっぽど担ぎがいがあるってもんだ。
「……大山くん」
 よっちゃんが、おれを呼んだ。
「何?」
「ごめんなさい」
「なんで、謝っ、てんだよ」
 さすがにまた息が上がってきた。
「いったいさ、どうし、ちゃったん、だよ。……よっちゃん」
 空気はしんとして、吐く息が白くなった。夜空に星がきらめいている。よっちゃんの手にぶら下がった黄色いスニーカーが、モスグリーンのパーカを着たおれの腹でぽんぽんと軽くはねた。
 よっちゃんが鼻をすすったのが背中で聞こえた。どうやら、息を殺して泣いているようだった。
 石橋さんにプレゼントを渡した時、おれは玄関の戸を大きく開けていた。ずっとあそこにいたんだったら、あの時の会話はよっちゃんにも聞こえていたはずだ。もし「愛人」が本当だとしたら、あの幸せそうな光景はいたたまれなかったことだろう。

 おれんちは鉄筋コンクリート三階建てのボロアパートだ。エレベータなんて文明の利器はついてないから、アパートに着いても、さらに最上階のおれの部屋まで狭い階段を上がらなきゃならなかった。さすがに歩きどおし走りどおしで、おれの足はもうがくがくだった。目の前もなんだかひどくぐらついて、二階まではなんとか上がってこれたけど、とうとう三階の手前の踊り場で足がよろけて転びそうになった。
「ちょ……ちょっと、タンマ」
 壁に手をついて、息を継いでいると
「もう降りる」
 よっちゃんが身をよじるので、おれは意地になってそれを止めた。こんなところで降ろしたくなかった。よっちゃんは前にまわした腕でおれの胸を力なく何回か叩いたけど、かなわないってわかったのか、すぐにだらりと手を下げた。
「ごめんなさい」
 また謝った。さっきからよっちゃんはずっと謝ってばかりいる。
「なんで、よっちゃんが謝るんだよ。よっちゃんが謝ることないよ。よっちゃんが謝ること全然ないよ」

 あの幸せな光景を目の当たりにし何も知らない家族の姿を見て、きっとよっちゃんは罪悪感を感じてるんだ。だからこんなに謝ってるんだと思った。
 でも、それってよっちゃんのせいじゃない。よっちゃんが悪いわけじゃない。たとえ「愛人」が本当のことだとしても。悪いのはあんないい家族にウソをついて、不倫なんかしてるあの石橋さんのはずだ。
 おれの目に、どっと涙が溢れた。

T008

 息を切らしながらようやく玄関のドアを開け、もつれるように二人倒れこんだ。
 貧乏学生のむさくるしい1Kは玄関から上がってすぐに狭いキッチンだ。その冷たい床に横たわったままよっちゃんを見た。二人とも、顔がぐしゃぐしゃだった。
「何で、なんでだよ」
 おれは思わず言葉を吐いた。いったん堰を切るともう止まらなかった。
「何でそんなことしてんだよ。そんなこと、そんな思いまでしてすることないじゃん。そんなつらい思いまでしてすることないじゃん。愛人なんてよっちゃんらしくないよ。そんなんすぐやめちまえよ」
 よっちゃんはしばらく黙って目をつぶり、小さな声で応えた。
「ダメだよ。やめられない」
「何で?」
「何でって……言われても」
 よっちゃんがかすかに身じろぐのを押さえこむようにして、おれは言った。
「おれが、何とかするから!」
 え? というふうに、よっちゃんがおれを見る。
「おれが、何とかするから。お願いだから……石橋さんなんかとそんなことするのやめてくれよ!」

 よっちゃんはしばらく黙ったあと、おれから離れてゆっくりと身を起こした。スニーカーの残ったもう片っぽのひもをほどきにかかる。二人とも床に倒れたまま靴も脱いでなかったことに、おれはやっと気がついた。よっちゃんが背中をこちらに向けたまま言った。
「大山くん、セックスする?」
「え?」
 聞きかえすおれに、もう一度言った。
「大山くん、ぼくとセックスする?」
 おれの声が掠れた。
「おれは、おれはそういうつもりで言ったんじゃ……」
「そういうつもりじゃないの? 何とかって」
 よっちゃんがふり返る。黒い瞳が刺すようにおれを見た。
 おれは返事ができないでいた。
 急によっちゃんは「うぅ」とくぐもった声を出し、口を押さえて立ち上がった。おれは突き飛ばされて尻もちをついた。よっちゃんはそのまま流しに顔を突っこみいきおいよく蛇口をひねる。水の音に混じり、激しく嘔吐する音がした。
 まるで、おれを拒絶する音に聞こえた。
 しばらくして水が止まると、よっちゃんは大きく息を吐きながら、その場に座りこんだ。そして、そのままゆっくりと横たわり身を丸くした。
「……よっちゃん?」

 おそるおそる声をかけたけど返事がない。慌てて自分も靴を脱ぎ捨て、顔をよせて息と脈拍を確かめる。規則ただしい息だ。どうやら眠っただけらしい。おれはよっちゃんを抱えようとした。さっきと違ってずいぶん重く感じた。おれの力が抜けちゃったせいかもしれない。やっとの思いで部屋の狭いパイプベッドに移した。上着を脱がせて、もう大丈夫とは思ったけど一応、吐いた物がつまらないように横に向けて寝かせた。
 水にぬれた顔をそっとタオルで拭いた。布団を肩まで引き上げてやり、その中に入れようとはみ出した手を握る。よっちゃんの手は白くて細くて冷たかった。
 また、涙が出てきた。
「何とか」なんて簡単に言って、どうするつもりだったんだろう。おれ何も事情を知らないのに。よっちゃんのあんな眼を見たのは初めてだった。あんな口調も初めてだった。きっと嫌われたに違いなかった。
 考えなしな自分の、浅はかさを恥じた。

 * * *

 なのに翌朝、よっちゃんは「おはよー」と、やたらスッキリした顔で起き上がった。
 どてらを被ったまま床にじかに寝ていたおれを見つけると「ベッドを取っちゃってごめん」と、慌ててお湯をわかし、ティーバッグの紅茶をおれの分まで入れてくれた。おれがぼーっとしているあいだに、よっちゃんは、昨夜さんざん揺らしてぐちゃぐちゃになったオードブルと、おにぎりとお菓子を食べた。
「うにたんにクリスマスプレゼントを上げるから、ぼくもう帰るね」
 明るくそう言うと、よっちゃんはいつものようにニコニコしながら帰っていった。おれはそれを呆然として見送った。

 あからさまに嫌われている態度じゃなくて幸いだけど、うまくはぐらかされた感じもした。ひょっとしたらすっとぼけて、あえて何もなかったふりをされているんだろうかと思った。
 玄関脇の鏡に映る腫れぼったい自分の顔が、どうにもこうにも情けない。
「……いったい何なんだよ。よっちゃん」
 思わず、そうつぶやいた。

Tc0104
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見上げた空は 6

T009

 * * *  ≪ 6 ≫

 この界隈はいわゆる学生街だ。昔は交通の要所だったらしく古い町並みがそこかしこに残っている。JRと交差した私鉄の駅近くに住宅が集中し、その周辺の広い地域に、規模のさほど大きくない短大や大学が点在していた。おれたちが通っている福祉系大学もそのひとつだったりする。
 おれは大学構内にある映画研究部の部室へ足をのばした。目的は黒木だ。
 部室はとにかくガラクタでいっぱいだった。壁のスチール棚には、歴代の先輩が残した八ミリフィルムやVTRや資料や小道具が雑然と詰めこまれていて、その反対側には粗大ゴミのごときテレビやデッキ類がトーテムポール状に積み上がっている。そんな部屋の中央に鎮座したレトロな応接セットにゆったりと腰かけ、これまた古そうな石油ストーブに当たりながら、黒木はまた本を読んでいた。

「うぃーす」
 おれの声に、黒木は文庫本から眼を離さないまま、片手をちょっとだけ上げて言う。
「サンタは、成功だったか?」
「あ……うん。まあまあ、かな」
 おれは、しばらく黒木の様子をうかがったあと、おそるおそる切り出した。
「……あのさ、黒木くん」
「うん?」
 黒木がわずらわしそうに髪をかき上げる。おれはちょっと口ごもった。
「……をテーマにしたので、何かいい作品ない……かな」
「何? 何をテーマに?」
 思いきって口に出す。
「あ、あの、あ……愛……人、を」
 黒木が本から顔を上げ、黒縁メガネの眼を大きくむいた。
「なんだって、愛人だって? ……宇宙人、じゃなくて?」
「うん」
「地底人、じゃなくて?」
「うん」ああもう黒木、しつこい。
「だからぁ、特撮やアクションばっかりじゃなくて、そういう人間を深く描いたような作品も見ろって普段、黒木くんが言ってることじゃん。せっかく脚本のために勉強しようとしてんじゃん、お願いだから水を差すなよ」
 黒木はおかしそうに含み笑いをしたあと、文庫本を閉じてあごに手を当てるポーズをとった。
「一言で愛人ものって言っても、組み合わせによるよな。大山、どういう組み合わせがいいんだ?」
「え?」
「伴侶のほかに愛人とすると、要するに三角関係なわけだろ。女一人に男二人か、男一人に女二人かで内容はずいぶん違う」

 おれはちょっと考えて「男二人に、女一人」と応えた。黒木が、ふん、と得意げに鼻を鳴らす。
「厳密にいって愛人ものでなくても、観るべき作品として挙げるからよく聞けよ。
『郵便配達はニ度ベルを鳴らす』『「ダイヤルMを廻せ』『生きるべきか死ぬべきか』『ダメージ』『嘆きのテレーズ』『シャンドライの恋』『隣の女』『コックと泥棒、その妻の愛人』『竜馬の妻とその夫と愛人』……」
 そんなにナントカのナントカとナントカのナントカって一気に言われたって憶えられないし、根本的な間違いにも気づいて、おれは途中で遮った。
「あっごめん黒木くん。男一人に、女……が二人だ」厳密には、違うけど。
「それからさ、これぞオススメってやつ一本だけでいいや」

T0043

 黒木は「一本だけ?」と、ちょっと不満そうに顔をしかめたあと
「一本というなら、おれはカウフマン監督の『存在の耐えられない軽さ』を推薦するな。三人の男女の関係と『プラハの春』をからめ、まさに三時間もの長丁場を見事な脚本と演出と役者の力で乗り切っている。官能的な映像表現もじつに巧みだ。それに愛人役レナ・オリンの最後のセリフは深いぞ。肉体的関係がないから友人、あったら愛人だなんて、そんな単純な括りで人間関係は語れないって……」
「ああっ黒木くん、もういいや」
 黒木の『ナントカの耐えられないナントカ』に対する講釈には、もはやこっちが耐えられない。
「もういいって何だよ。人にさんざん喋らせといて」
 黒木が眉間にしわをよせる。
「それにさ、量からいえばたぶんこの、男一人女二人を描いたパターンの方が多いんじゃないかと思うぜ。まあ、作品の良し悪しは別としてさ」
「多いって、なんで?」
 おれが聞くと
「だって、基本的にはこれまで世界じゅうで男中心の社会が続いてたじゃないか。女が間男を作るより、男が浮気をしたり妾をとる方が圧倒的に多かったはずなんだ。国によっては一夫多妻制というのもあるし、日本だってわりと最近まで『浮気は男の甲斐性』『めかけ手かけは男の働き』なんて、言われてたくらいだ」
「メカケテ……何?」
「『めかけ手かけは男の働き』だよ。正妻のほかに愛人を作れるのは金と力に余裕のあるやつで、要するにデキるやつってこと」
「はあ……」
「その場合、当の妾にしてみても経済的な援助を旦那から受けている……つまりさ、金で飼われてるわけだから、要するにどちらも納得ずみってこと。そんなのに周囲があれこれ、とやかく言う筋合いはないって意味さ」
「……金で?」
「飼われてる、だよ」
 おれの頭の中には、またよっちゃんのあの白い顔が浮かんでいた。
「黒木ごめん、映画はもういい」
 おれは逃げるように、部室をあとにした。

 * * *

 これは夢だと、始めから自覚はあった。
 おれは仰向けで眼をつぶったまま、下腹部にもやもやとした快感を感じていた。「ああ、おれ最近ヌイテなかったからこんな夢見てるんだなぁ」なんて考えつつ眼を開けると、細くて白い腰がおれの下半身に覆いかぶさり律動していた。
 不思議と、夢の画面のあちこちにボカシが入ったようになっていて、そのあたりに眼をこらそうとしても目蓋が重くてたまらない。おれは必死になって、自分にまたがる柔らかそうな身体に両手を伸ばした。
「ああ、ン……」悩ましげな声がした。よっちゃんの声のような気がした。

「よっちゃん?」
 そうだ。よっちゃんのことが、一日じゅう気になっていた。「やめられない」っていうのはやっぱり昼間に黒木が言ってたように、お金の問題があるんだろうかとおれは思った。
 心配だった。ちゃんと話をしたいけど、実はあいつ携帯電話を持っていない。家にもないから話をするには直接行くしか手段はない。でも、そうやってじかに会うことを考えるとやっぱりためらわれた。昨夜のこともあるし、本当は会うのが怖い気もしていた。

T010

「よっちゃん?」
 おれの手が、その白い足のつけ根に触れたと同時に視界が開けた。
 よっちゃんの、これまで見たこともなかった表情がそこにあった。眉をひそめ眼をつぶり、額に汗をかいている。頬が紅潮し小さく開けた唇からは白い歯がわずかにのぞいて、そして絶えず声があがり続けていた。不思議な光がどこからか当たっていて、それの作り出す陰影が、よっちゃんをいっそう凄絶な妖しさへと導いていた。
「よっちゃん、やめてくれ!」
 思わず叫んだおれに、よっちゃんは返事もせず腰を動かし続けた。おれは止めようと腕に力をこめたけど力はまるで入らず、反対におれの下半身の抵抗が効かなくなった。
 波のように何度も押し上がってくる快楽にいつしか、おれはよっちゃんと一緒に必死になって動いていた。大きな快感がうねって押しよせ、いきなり眼の前が白くなると、おれは頭から足の先まで、じんとしびれるような感覚に襲われた。
「ああぁあ……っ」
 まるで絞りだしたような自分の悲鳴で、目がさめた。

 枕もとの時計は深夜の三時をさしている。冬のしんとした寒さの中、おれは全身にじっとりと汗をかいていた。おれは「あぁ……」とため息をついた。下腹部に違和感があった。下着に手を入れて確かめるとやっぱりだ。やっちゃった。
 おれは寝間着を脱ぎ捨てユニットバスに向かった。
 照明をつけ、トランクス一枚になって空のバスタブに入った。シャワーのコックを回し、冷たいままの水を下半身にかける。たちまち全身に鳥肌が立った。水で流しながらトランクスを脱いでそのまま足で踏みつける。身体は冷めて震えがきた。歯の根もあわずガチガチと大きく鳴った。おれはつい「くそっ」と、つぶやいた。

 夢で見たよっちゃんがまだ眼の前にちらついていた。まるで陶酔しきったような艶めかしい表情だった。自分が知らないところで、よっちゃんはあんな顔をしてるんだろうかと思った。石橋さんの上にあんなふうに乗って、ああいう感じに声をあげたりするんだろうかとも思った。
 そんなモヤモヤとした考えが頭をよぎったとたん、急激に自分の身体が反応するのを感じた。冷たいシャワーは何の役にも立たなかった。おれは信じられない思いで、猛り立った自分の下半身を眺めた。
「ああ、くそっ」
 もうどうにもこうにも耐えられなかった。ようやく温水になりはじめたシャワーを止め、おれは背中を丸めて狭いバスタブの中に座りこんだ。
「よっちゃん、ごめん」
 そうつぶやいて、おれは自分のそれに手をかけ、激しくしごき始めた。
 おれは、そっちの方とかじゃ決してない。ないと思う。確かに女の子とつき合った経験はないけど、それは単に高校が男子校だったせいだ。もちろんいまの学友たちにも、ましてや黒木なんかにもそんな感情はまるでわかない。おれはあくまでもノーマルのつもりだ。
 だけどいま、おれが夢中で自慰をしながら頭の中に思い浮かべているのは、よっちゃんの淫らな姿だった。

 おれは想像の中でよっちゃんにいろんなことをした。経験のないおれだったけど、それでも思いつける限りのさまざまな媚態をとらせた。細い身体を仰向けにしてのしかかったり、逆に後ろから覆いかぶさったり、横にして背中から抱きしめたり、起き上がって自分の上に座らせたりした。かがませて、おれ自身を口に含ませながら、おれはよっちゃんの柔らかい髪の毛を両手でまさぐった。そうしながら唱えるように名前を呼び続けた。
「ああ、よっちゃん、……よっちゃん、よっちゃん、よっちゃん」
 名前を呼ぶたびにおれの鼓動は昂まった。身体もかっと熱くなり、どんどん絶頂に近づいていった。そしてついに自分の欲望をバスタブに激しくほとばしらせた。

 はっと我に返った。
 白けた照明が、宇宙船のカプセルじみたユニットバスの狭い空間をすみずみまで照らしていた。シャワーからは水がしたたり落ちている。脱ぎ捨てられた下着はバスタブの底でぐしゃぐしゃになっていた。
 何てことをしたんだって思った。
 自分の荒い息と鼓動がしずまっていくのを感じながら、同時におれは自分のまわりの温度までも急速に失われていくような、そんな感覚をおぼえた。

Tc0402
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見上げた空は 7

T011

 * * *  ≪ 7 ≫

 再び寝ついたのは明け方だったのに、翌朝九時前に、黒木にケータイで呼び出された。結局は二度寝をしてしまったから、部室へ行ったのは昼近くだ。
 まだ眠い目をこすりつつ「いったい何だよ、黒木」と、言いながらドアを開ける。
 ソファからはずむように立ち上がったのは、黒木ではなくよっちゃんだった。おれの顔は、かあっと熱くなった。
「おかえりなさ……あれっ、大山くんかあ」
 ニッコリするよっちゃんに、おれはうつむいてぼそぼそ「おはよう」と返事をした。昨夜のあれのせいで、よっちゃんの顔をまともに見ることができない。
「黒木くんが、お昼ご飯を買いに行ってるあいだ留守番してるんだ。ストーブいったん消すと、部屋の中が石油臭くなるのがイヤなんだってさ」
 人を呼び出しといて留守はないだろう、黒木。そう思ったけど、自分の方がこんなに遅れて来たんだから仕方ない。

 部室の中はストーブの熱気で、上着のままだと汗ばむくらいに気温が高かった。
 よっちゃんはマフラーをテーブルに置き、ボーダーの丸首シャツに、先日と同じ茶色のジャケットを軽く引っかけている。ボワのついた襟もとからのぞく首すじが、何だかやけに生々しくて、おれは思わずゆうべの夢を思い出した。
 いきなり下半身に脈動を感じた。
 おれはよっちゃんの向かいの、黒木がいつも座っている席に慌てて腰を下ろした。チェックのネルシャツの裾をパタパタとあおぎながら「あっついなあ」とか言って何とかごまかす。腰まわりに余裕のあるズボンを穿いてて本当によかったよ。それにしてもこんな調子でいちいち反応してたらまずい、まじでまずい。

「あのね、黒木くんから預かってるよ。これを観ろって」
 よっちゃんが、テーブルの上にあった紙袋をおれに差し出した。開けてみると昨日、黒木がやたら熱く語っていた、耐えられないナントカっていう映画のDVDだった。きっとこのままだと絶対こいつは観ない、とでも思ったんだろう。何だかすごく大人っぽい雰囲気のパッケージだったから、それだけでもう気恥ずかしかった。
「大山くん。それ、何の映画?」
 よっちゃんがそう言いながら、興味深げに身を乗りだしてきた。うわあ、胸もとをそんなに無防備に見せないでくれ、よっちゃん。
「ダメ! こ……これは、グログロのゲロゲロのバイオレンスなスプラッターものだから、よっちゃんには無理っ」
 まさか愛人ものだとは、口が裂けても言えないよ。おれはDVDを慌てて自分のカバンに入れる。
 なあんだ、という顔でよっちゃんはソファに座りなおした。
 なんとなく気詰まりな雰囲気だった。いま、あの話……石橋さんについての話をもちかけても大丈夫だろうか。おれは密かに焦った。

T008

 よっちゃんが、マフラーと一緒に置いてあった英和辞典を手にとった。
「あのね、今日はこれを取りにきたんだ。サンタボランティアの日、いろいろやって家に帰ってたら時間がなさそうだったし、ここにちょっと置かせてもらってたの」
「その辞書、いつも持ってるやつだよね」
 無難そうな話題に、内心ほっとしておれが応えると、よっちゃんはニッコリして「うん」とうなずいた。
 英和辞典はかなり古いものらしく、ボロボロになった背表紙をガムテープで補強してある。確か『ペイ・フォワード』で、先生が生徒に「これを持ち歩け」って辞書を配るシーンがあったけど、まじでそれを実践してるやつはそういない。
「これ、後ろの方からは和英になってるからとても便利なんだ。ぼく日常会話は何とかできるんだけどさ、ちょっと複雑になるとやっぱり苦手で。だからなるだけこれ持ってて、気になった言葉があったらすぐ見るんだよ。」
 よっちゃんは、大切そうに辞書のページをめくる。
「あっそうだ、大山くん。イブの日さ、おじさんにお金もらったじゃん?」
 いきなり切り出されて、おれの心臓がドキンとはね上がった。

 よっちゃんはポケットから千円札を三枚取りだす。
「これで、ラーメン食べにいかなきゃなんないんだよ。大山くんは、お昼はもう食べた?」
「ううん」
「じゃあ、これから……あっ」
 よっちゃんはしまった、という顔をした。
「せっかくだから黒木くんも誘えばよかったよね。コンビニから帰ってきたら言おうか。きっと買ってくるのパンだから、それはおやつか晩ご飯にしなよって言ってさ。それともラーメンを晩にする? あっでも夜はぼくバイトだからダメだ。明日にする? 明日のお昼ご飯」
 呑気なことをペラペラと喋り続けるよっちゃんが、なんだか癪にさわった。
「そうそう。そういえばね、黒木くんにも言おうと思ってたんだけど」
 よっちゃんが、また思いついたように話題を変える。
「映画作る時ってさ、機材とかいるでしょう。大山くんそれ、おじさんに頼んでみたらどうかなあ。おじさんの会社なら機材もいろいろレンタルしてるし、ぼくがあいだに入ったら少しは割引してくれるかもしんないから、あそこで借りようよ」

 よりによって何で、あの親父の話ばかり持ち出してくるんだ。しかもこんなにケロッとした調子で。よっちゃんとはそんな話をしたいわけじゃない。おれはだんだん腹が立ってきた。
「やだよ」
 ついきつい口調で言った。よっちゃんがおびえたように言葉を止めた。
「機材、借りるの……イヤ?」
「そうじゃなくてさ」
「……黒木くんと一緒にご飯、イヤ?」
「そうじゃなくてさ」
 ああ、こんなことでイライラしたってしょうがないのに。
「……ラーメン?」
 おれは、とうとう爆発した。
「そうじゃないよ! 何で……何でよっちゃん、あんな思いしたのにそんなに平気でいられるんだよ。何でそんな、はぐらかすような態度とるんだよ。おれが心配したのがバカみたいじゃないか。じゃ何のためにおれにあんな……あんなこと言ったんだよ。そりゃおれは頼りにならないかもしんないけど、そうやってまるで何もなかったようにされると、こっちがたまんないよ。話すなら話すで、ちゃんとあのこと話そうよ」
 よっちゃんの顔がたちまち強張るのがわかった。まずいと自分で思うのに、感情が先にたってどうしようもできなかった。
「デリケートな問題だと思うからさ、こっちだって遠慮して言えなかったけど、やっぱりどうかと思うよ。そんなふうにお金をもらって平気でいるなんて、まるで金で飼われてい……」
 いきなり顔面に、衝撃を受けた。

 おれの膝に英和辞典がバサリと落ち、これをぶつけられたんだと気づいた。マフラーは床に落ち、三枚の千円札もばらばらに散っている。よっちゃんの顔は蒼白だった。立ち上がり唇をわなわなと震わせている。
「バカアーッ!」
 よっちゃんはそう叫んで、おれとの間にあった応接テーブルを突然なぎ倒した。テーブルは石油ストーブに激しくぶつかった。ガシャンと安全装置の音をたてて炎が消える。石油のつんとするいやな臭いがたちまち部屋にひろがった。
 よっちゃんは踵を返すと、荒々しくドアを開けそのまま部室をとび出した。走り去る足音が小さくなるのが聞こえたけど、今日はさすがに追いかけられない。
 よっちゃんのせいじゃなかった。おれが勝手に思いこんだり後ろめたかったり腹を立てたりして、そのイライラを我慢できずによっちゃんにぶつけただけだ。また考えなしにひどいことを言ってしまった。おれはがくりと膝をついた。
 開け放ったままのドアから冷たい空気が入り、たちまち室内の熱気を奪う。
 三枚の千円札が、ひらひらと風に舞った。

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見上げた空は 8

T012

 * * *  ≪ 8 ≫

 黒木が帰ってきて、何でストーブが消えてるんだとか、DVDはちゃんと受けとったかだとかいろいろ言ったけど、ろくに返事もしないでおれは部室を出た。
 よっちゃんが置いてった辞書とマフラーとそれから三千円をカバンに入れ、さんざんほっつき歩いたあげく、夕方、自然におれの足が向いたのは、よっちゃんのバイト先。カルカヤだった。
 カルカヤのある通りの並びには『セントラル』という名前の小さく古い映画館がある。よっちゃんが近くの喫茶店でバイトをしてるって初めて聞いたのも、以前その映画館に行った時だった。
「でも、バイトっていうか、本当、お手伝いに毛の生えたようなものだから……」
 よっちゃんは、ずいぶん照れくさそうで、あまり来ては欲しくないふうに思えた。実はおれも、もし同じ金額を出すならコーヒーよりラーメン食べたい人間だから、先日のイブみたいに特別なことがない限り、あまりここまで足をのばすことはない。
 だけど今夜ばかりは別だった。辞書とマフラーと三千円を返して、一言でいいからあいつに謝りたかった。あんなこと言っちゃって、簡単に許してはもらえないだろうけど。

 狭い階段を二階へ上がり木製のドアを押すと、とたんに若い女性の笑いさざめく声が聞こえてきた。びっくりしておそるおそる見まわせば、窓際にあるボックス席はすべて女性客で埋まり、カウンターにも二つ空席があるきりだ。肝心のよっちゃんの姿は店内になかった。いれば渡してすぐ帰ろうかと思ったんだけど、そんなわけにいかないみたいだ。
「あらあ、いらっしゃいませ」
 ママが気づいて、声をかけてくれた。
「今夜は水曜だから女の園よ。カウンターしかないけどよろしい?」
「あ……はい」
 カウンターもほとんど女性客ばかりだったから、おれは身を小さくして端から二番目の、中年男性の隣に座った。
 一番端っこにいたその男性がふと、こちらを見る。
「あれ、大山くんじゃないか」
 石橋さんだった。とたんにわきの下から汗がどっと吹きだした。
「そ、そそ、その節はどうも」
「先日はおつかれさま。サンタクロースの仕事はうまくいったかい?」
「は、はは、はい。おかげさまで」
 石橋さんは、深紅色の高級そうなネクタイをつけている。ひょっとしてこれ、絵里ちゃんちゃんからのプレゼントだろうか。
 ママに「コーヒー」とひっくり返りそうな声でオーダーをして、おれは一気に水をあおった。
 やっぱり本人に聞くのが、一番早いはずだ。
「よっちゃんの、本当のおじさんじゃないそうですね」
 ……いや、唐突すぎるか。
「よっちゃんって、あなたの愛人なんだそうですね」
 ……もっと、唐突すぎるか。

 石橋さんはいつもの穏やかな笑顔で、学校のことやら部活のことやら聞いてきたけど、おれの返事は全部うわのそらだった。きっと、こいつ変だと思われたに違いない。
 不意に、カウンターの中でのれんがゆれて、その奥のキッチンらしき場所からよっちゃんが出てきた。昼間見たボーダーの長袖シャツに黄色いエプロン姿。手にはこれまた黄色い何かが乗った皿を持っている。
「フレンチトースト、お待たせしました」
 シロップの器と一緒にカウンター越しで置こうとするところに、石橋さんが「よっちゃん、ほら大山くんだよ」と、示してくれて、よっちゃんはやっとおれに気づいた。
「あ……」
「あの、すぐ帰るからごめん。さっきはホントにごめん。……これ持ってきた」
 おれは慌てて、カバンの中からマフラーと辞書を持ち上げた。
 よっちゃんは、すごく嬉しそうにした。
「あれっ、わざわざ届けてくれたんだ。大山くんありがとう」
 違和感を感じた。よっちゃんまたケロッとしてる。まるで何も、なかったみたいに。

T001

「何? どうしたの?」
 石橋さんが、横から口をはさむ。
「あのね、大山くんが、ぼくの忘れものを届けてくれたんだよ」
 ニッコリと笑うよっちゃんにおれは、ああ、と思った。きっと何でもないふうにしたいんだ。この人の前だから。
 おれも、わざとらしいくらいにニッコリ笑って、うなずいてみせた。
 ママが、おれのコーヒーを運んできた。
「ごめんねぇ。レディスデーはいつもこうなのよ、セントラルからお客が流れてくるから、やたら忙しいの。……サンタはどうやら楽しかったみたいね」
 ママにも、ニッコリ笑ってみせた。
「ゆっくりして行ってね。じゃあよっちゃん、カウンターの方をお願い」
 そう言ってママは慌ただしくキッチンに入った。石橋さんがまたおれに話しかける。
「大山くん、ここのフレンチトーストを食べたことはあるかい?」
 以前から、メニューを見て気にはなっていた。でも告白するとおれ、実は『フレンチトースト』って何か知らなかったんだ。けど、聞くのってさ、なんか……恥ずかしいじゃん! だからついそのままになってたんだけど。
「あ、いいえ」
「それじゃあ一度、食べてみたまえ。本当に絶品なんだよ」
「フレンチトーストって、それっすか?」
 石橋さんの前にある黄色い皿に、ついつい身を乗りだしたおれに
「違う違う、絶品はママのだよー。ぼくのはまだ修行中だから、食べないでー!」
 食器を洗っていたよっちゃんが、カウンターの中から大慌てで叫んだ。
 あ、いや、よっちゃん。言われなくても他人の皿からはそんな食べないし。
 いつもだったらこいつの天然ボケって、おれもう最高にウケる。だけどなぜか、この時ばかりはひどく不愉快だった。何だか自分の無知をさらけだされた気がした。
「んな食べねえよー。おれ、そんなに食い意地はってるように見えるん?」
 笑いながらそう発した自分の声が、震えたのがわかった。

T0043

 窓際の席にいた女性三人組が会計レジに並び「おねがいしまーす」と声をかけてきた。よっちゃんが急いで手を拭いてレジに行く。お客のひとりから質問されたらしいよっちゃんの声が、こちらまでとぎれとぎれに聞こえてきた。
「……大学の、部活の友だち」
「……あ、うんそう。映画研究部だよ」
 楽しそうに会話をしたあと、三人組はこちらに軽く会釈をして店を出ていった。よっちゃん、長いことここで働いてるみたいだから、きっと馴染みのお客が大勢いるんだ。よっちゃんにはおれの知らなかった一面がこんなにある。あらためてそう気づいた。
 耳もとでブゥン……とかすかに雑音がする。やばい、耳鳴りが始まった。

 何度もつばを飲みこんでみたけど治まらない。膝に置いた手のひらに汗がじっとりと湧いてきた。おれはその汗を、密かに何度もズボンでぬぐう。
 店内のお客さんが、ぼちぼち帰りだした。石橋さんも立ち上がり、コートを羽織って「お先に失礼するよ」と、おれに声をかけた。おれは「どうも」と返事をしようとしたけど、声にならなかった。
 石橋さんは、レジでよっちゃんといくつか言葉を交わし店を出ていった。カランコロン、というドアベルの音が、不意におれの頭の中のノイズを打ち消した。おれは反射的に立ち上がった。そのままドアに突進し、ものすごい音で階段を駆け下りた。

 石橋さんは通りに出てすぐのところにいた。どたばたというおれの足音が聞こえたのか、けげんそうにこちらをふり向いていた。
「あ、あの……よっちゃんはっ」
 ああ、何を言えばいいんだ。
「よっちゃんは、愛人なんですかっ!」
 どわああ、直球ど真ん中!
 額から汗がどっと吹きだす。石橋さんは、片方の眉をちょっとだけ上げた。
「何?」
「聞きました。あなたの、愛人だって」
「誰が、言ったの」
「……よっちゃんです」
 ほんの少し沈黙が降りた。
「よっちゃんが、そう言ったんだ。君に?」
「……はい」
 石橋さんは、五十代としては普通だろう少し丸みを帯びてきた体格に、高めで張りのある、それでいて柔らかな声を持っていた。それがこの人をひどく好人物に見せる要因だった。だけど短期間ながら下で働かせてもらった時、見かけによらず、この人が相当にしたたかな切れ者だということを、おれは幾度もかいま見ていた。
 石橋さんはコートのポケットに手を入れたまま、ふっと笑っておれを見た。

「大山くん」
 ずい、とおれに近寄ってくる。おれの方が背だって高いはずなのに、石橋さんがものすごく大きく見えて、おれは思わず後じさった。
「確かにあの子の毎月の学費、生活費。経済的な面ですべて、わたしが面倒をみているよ。そしてその見返りといっちゃ何だが、いい思いもさせてもらっている。まあ、これを世間一般から見ると、愛人っていうんだろうねえ」
 気づくと、おれの喉はからからだ。
「こんなこと聞いて、君はどう思う?」
 石橋さんが、逆におれに問いかけてくる。
「……ひどい人だ」
  絞りだすように、必死で声を出した。
「イブの夜によっちゃん、あなたの家の前でどんな思いをしたか、あなたもわかってるでしょう? それに、あなただって家族を……裏切っている」
「そうだね」
「わかってるんなら……」
 石橋さんは笑った。
「大山くん、君は『めかけ手かけは男の働き』って言葉、知ってるかい?」
「……はい」
 掠れた声でおれが応えると
「そう、若いのに感心だ。愛人をつくれるのは金と力に余裕のある人間。働きのある男の当然の権利で、まわりがとやかく言う筋合いじゃない。そういう意味だよね?」
 ふふっと含み笑いをする石橋さんの眼は、ちっとも笑ってなかった。
「君は野暮だね。大山くん」

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見上げた空は 9

T011

 * * *  ≪ 9 ≫

 重い足どりで、カルカヤへ戻った。
 おれは、何も言えないまま石橋さんを見送った。階段の下で、女性客二人とすれ違う。ゆっくり二階まで上ると、よっちゃんが「CLOSED」の看板をドアにかけようとしていた。どうやらいまの二人が最後の客だったらしい。
 おれの顔を見たよっちゃんが、小さく何か言ったけど、うまく聞きとれなかった。さっき治まったと思った耳鳴りが復活している。
「大丈夫?」
 よっちゃんがおれの顔を覗きこんだ。
「うん……大丈夫」
 そう応える自分の声も、ずっと遠くにこもって聞こえた。

 店内に戻って、マフラーと英和辞典とくしゃくしゃの三千円を出し、よっちゃんに手渡した。
「ありがとう」
 そう言ってよっちゃんは、英和辞典を胸に抱える。
「ぼくね、カッとなると何がなんだかわからなくなっちゃう時があるんだ。いけないとはわかってるんだけど……」
 よっちゃんは眼を伏せ、古い辞書の表紙をゆっくりと撫でた。おれはよっちゃんの、その白く細い指を黙って眺めた。
 ママさんが「一緒に帰りなさい」と、よっちゃんを少し早く終わらせた。
 階段を下りたところで、ふり向いてよっちゃんが聞いた。
「大山くんは、電車?」
「うん」と応えた。
 よっちゃんは「ぼくは自転車だから」と、そっけなくおれと反対の方向に向かう。
「じゃね、バイバイ」「うん」
 おれもそのまま、よっちゃんと反対方向に歩いた。向こうから、男二人乗りのチャリが蛇行しながら走ってきた。おれと危うくぶつかりそうになる。
「あっれえ。あそこにいるの、なんかヨシオじゃねえ?」
 よけざまに、チャリの後ろに乗っていた帽子の男の声がそう聞こえた。頭の中の雑音がやむ。背後でキキッとブレーキの音がした。
 思わずふり向いた。映画館の前で、自転車を脇に置いたよっちゃんが、いまの男二人に取りかこまれていた。おれは慌てて引きかえした。
 チャリをこいでいた長髪の男が、よっちゃんの胸ぐらをつかんだ。
「やめろっ!」おれは男がよっちゃんを殴ろうとするギリギリに割って入った。
 男の長髪が一瞬なびいて、右の耳たぶがごっそりとえぐり取られているのが目に入る。男のこぶしはおれの頬をかすり、おれはそのままバランスを崩して、よっちゃんと自転車もろとも道に倒れた。

 ガシャン、と大きな金属音が路上にひびく。自転車の出っぱったどこかがみぞおちに当たって息がつまった。男たちの吐き捨てるような声がした。
「なんだあ、このやろう」
「おい、便所。こいつがお前の新しいコレってわけか?」
 強く背中を蹴られた。けらけらと笑い声が上がった。
「かわいそーに。あの金持ちの中年オヤジは貢ぐだけ貢いで、結局フラれちゃったわけえ」
「そりゃあ、どうせヤルなら若いやつの方がいいよなあ。でないとこいつのことだから満足できねーだろ」
「おーいデカイの。この便所と毎晩ヤッてんの? お前のやつを毎晩こいつにシャブらせてんの?」
 男たちはおれのわき腹にぐいぐいと汚い靴を押しつけてきた。
「こいつすげえウマいだろ。狂ったようにやるだろ。一回ヤルと、もうやめらんないだろ」
「おいデカイの。何か応えろよ!」
 ゴンとにごった音がして、頭から背中にかけ痛みが走った。きっと棒で殴ってるんだろう。何度もおれの背中に激しく振り下ろされてきた。おれは、おれの下敷きになったよっちゃんがどんな状態かもわからないまま、とにかく必死で覆いかぶさっていた。
「こらあ! てめえらなにをやってる!」
 突然、ドスの効いた男の声が、深夜の路上にひびいた。そのあと格闘するような鈍い音に重なり「ぎゃあ」「ひいい」という悲鳴がした。さらにそれが「お、憶えてろよ、このオカマ!」という声と、ガシャガシャと自転車を引きずって逃げる音に変わった。
 やがて静かになった。
 おそるおそる顔を上げると、カルカヤのママが仁王立ちで、あいつらの去った方角をにらんでいた。唖然となったおれと目が会うと、ママは美しい眉毛を八の字にして、困ったように肩をすくめた。

 * * *

 おれとよっちゃんは、ママの住むマンションに連れていかれたらしい。
 らしいというのは、おれは意識がもうろうとしたままで、最初そこがどこなのかよくわからなかったからだ。しばらくソファで横になり、腫れた後頭部に氷を当てて冷やした。頭がだんだん冴えてきて、ふと我に帰ると、ママがおれの顔をぬれたタオルで拭いてくれている。耳鳴りはもう消えていた。
「大丈夫?」
「あ、はい。……あの、よっちゃんは?」
 隣の部屋で寝かせてる、とママは応えた。
「大丈夫、たいしたケガはしてないわ。ちょっとしたカスリ傷程度よ。それよりあなたの方が大変。起き上がれるなら、脱いで見せてごらんなさい」
 おれだって大丈夫、とは思ったけど、黙って起き上がり服を脱いだ。全身にきしむよう
な痛みが走り、思わず顔をしかめた。
 ママが救急箱を持ってきた。おれの背中にていねいに湿布し始める。
「いったい何なんですか、あいつら。何か……ひどいこと言ってた」
 おれが、湿布のひやりとした感触に身をすくめながら聞くと、ママはぶっきらぼうに応えた。
「あの長髪のやつね、すごいワルで以前この界隈では有名だったのよ。当時よっちゃん、あいつらから大層な目に会ってて」
 どんな目だったのかは、やつらの言葉で想像できる。
「ある日とうとう、よっちゃんがあの男に、逆に大ケガをさせちゃったの。……あいつの耳は見た?」
 おれは、無言でうなずいた。
「向こうにヤバい事情がどっさりあって、警察沙汰にはならなかったんだけど。いろいろ噂も飛んだから、やつもこの町にいられなくなってね。まあそれで事件も治まって、四年も経てば安心って思ってたんだけど、まさか戻ってるなんて……」
 ママは、ほうっとおれの背中に深いため息をついたあと、気を取りなおすように明るく、肩をぽんと叩いた。
「さて湿布、終わったわよ」

 おれは静かに服を着た。無性によっちゃんのことが気になった。
「よっちゃんは、大丈夫かな」
「ああ、きっとまた朝になったら、本人は忘れてるわね」
「忘れてる?」
 あれ、知らなかった? という感じで、ママが微笑んだ。
「よっちゃんは、イヤなことがあってもすぐ忘れてしまうらしいの」
「は?」
「なんだか、脳みその作りがそうなってるみたいなのね。わたしも、そういうの素人だからわからないけど」
「はあ」
「つかぬことをお聞きしますがあなた、お酒を大量に飲んで記憶がとんだことは?」
 そこまではまだ、と応えると、ママは笑って「そうか、一応まだ未成年だったわね」と続けた。
「素人考えなんだけどね、よっちゃんの頭の中では、酒に酔った人と似たような作用が起こっているみたい。強いストレスがかかると、眠ってるあいだにその前後の記憶がリセットされてしまうみたいでね。酔っぱらいが、翌朝になったら何も憶えていないとか、または記憶があちこち抜け落ちてるとか、そういう話ってよく聞くでしょう? たぶんそんな感じだと思うけど」
 ああ、飲み会で先輩から聞いたことがある。「泥酔して目がさめたら、知らないあいだに家に帰って飯炊いて、チャーハン作って食ってたんだよお!」って。

「わたしも、そんな状態を初めて目の当たりにした時には驚いたけどね」
 ママはそう言いながらキッチンに立ち、ヤカンに水を入れてコンロにかけた。
 そのあいだ、おれの心は嵐になっていた。もしかしてよっちゃん、はぐらかしたんじゃなくて、あの夜のこと本当に憶えてなかったんじゃないだろうか。それならおれ、とんでもないことであいつを責めたことになる。
 それにもうひとつ。あの男たちが言ってたような下衆な行為を、想像上だったけど昨夜おれは確かにやった。よっちゃんを慰み者にし、欲望の捌け口にした。そういう意味ではおれはやつらと変わらないクソ野郎だった。これじゃ石橋さんのことだって非難する資格もない。

T010

「あらあら、どしたの」
 戻ってきたママはおれの顔を見て驚き、慌ててティッシュの箱を持ってきた。
「そんなに泣くことないでしょう。よっちゃんは大丈夫だから」
「いいえ、いいえ」おれはかぶりを振った。あとからあとから涙が溢れた。
「クリスマスイブに石橋さんちに行ったんです。サンタやってて。途中からよっちゃんどんどんおかしくなっちゃって、いきなりおじさんが愛人なんだって告白して……」
 どさくさにまぎれてとんでもないこと口走ってると自分で思ったけど止まらなかった。幸いといっていいのか、ママはよっちゃんと石橋さんのことはとっくに承知している様子で、たいして顔色も変えずおれの話を聞いていた。
「結局、おれんちでちょっとケンカみたいになって。でも翌日にはウソみたいにケロっとしてて、はぐらかされたと思ってそれで余計に腹がたって。おれよっちゃんにひどく怒っちゃって。でもいま聞いてひょっとしたら、あの夜のこと憶えてないのかもしれないと思って……」
 この自宅でのくだりが一番問題なとこなんだけど、ここはさすがに大幅にはしょった。
 ママは「なるほど」と言いながら、再びキッチンに立ち、ヤカンの熱湯を手際よく紅茶ポットに注いだ。
「本当に憶えてないのなら、それに調子を合わせてあげるってのもまあ、ひとつの方法。わたしや石橋は、これまでそれでやってきたけど」
 紅茶を乗せたお盆を手に、ママがこちらへ戻ってきた。
「四年前にくらべたら、あの子もずいぶん落ちついたもので、そんなこと、最近はなかったんだけどねえ」
 そう言って、おれにカップを渡した。
「四年前っていったい、よっちゃん……」
 おれの質問に、ママが笑った。
「そりゃいまの彼しか知らないと、きっと信じられないわね。すさんだ顔つきでひどくやせてて、情緒もすごく不安定だった。激しい癇癪をたびたび起こしてたし」
 おれは眼を丸くした。よっちゃんがさっき自分で「カッときたらわからなくなる」って言ってたけど。

「記憶のリセットはよっちゃんにとって、自己防衛というか現実逃避というか、精神的に安定するためのひとつの手段よ」
「手段……」
「でも、そうやって無理に消そうとすることで、かえってそれが昇華せずに、ずっと残ってるってこともよくあるわけ」
「残って……」
「結局、あの子の心の傷は一生癒えないのかもしれないわ」
「一生……」
「まあ、だからといって、ずっと腫れものに触るようにして面倒をみるのがいいってことじゃないでしょ? 人間、生きていれば多少の傷は負うもの。あの子が本当の強さを身につけて、自分の力で現実と向き合えるようになればそれが一番いいんでしょうけどね」
「はあ……」
「それにしても、ちょっともう君。いいかげんに泣きやみなさい。そんなにべそべそ泣いてたら台無しよ、いい男が」
 ママは、おかしくってたまらないという顔で、箱からティッシュをわしづかみにすると、おれの顔にぐいっと押しつけた。

 * * *

 泊まっていってもいいわよ、というママからの申し出を断って帰ることにした。でもその前に、よっちゃんの無事な顔を見たかった。
 隣室への引き戸を開けると、すみに小さな古い鏡台が置いてある六畳の和室だった。よっちゃんはあの英和辞典をしっかりと握ったまま、中央に敷かれた布団の中に、まるで胎児みたいに丸まって眠っていた。
「よっちゃん」
 そっと呼んでみる。目のふちに涙のあとがあった。右の頬と手の甲には真新しいバンドエイドが貼ってある。この程度ならきっとすぐに治るだろう。おれは、傷の上を手のひらでそっと撫でた。
「頭を打ってるんだし、念のために、明日はちゃんと病院に行きなさいよ」
 玄関先でママがそう言ったので、おれは「はい」とうなずいた。でもおれの傷は、きっと大丈夫だ。
 古いエレベータを使って一階まで降り、マンションの玄関を抜ける。

02

 通りへ出るとおれは左手を肩に、右手をわき腹にまわして、湿布の部分に手を当てた。そうやって自分を抱きしめるような格好で背中を丸め、しばらくそのまま歩き続けた。
 急げば最終電車にも間にあうけど、そんな気にはならなかった。コンビニの白い袋が飛んできて、おれの足にからんだかと思うと、すぐにどこかへ行ってしまった。
 ふと、よっちゃんの声が聞こえた気がした。

「『自分勝手や憎しみばかりが横行する世の中で、人々にとってわたしが、それを止められる力のシンボルなんだ』って」

 あの夜、よっちゃんはおれのことをシンボルだって、そう言ってくれた。
 でもおれは全然そんなんじゃなかった。おれこそが自分勝手で、人を憎んで。どす黒いイヤな気持ちが心にいっぱい渦巻いていた。

「信じることのできない人がいたら、その人の人生は、疑いだらけの寂しいものになってしまうんだ」

 おれは、ついよっちゃんを疑ってしまった。信じることができなかった。だからこんなふうになってしまった。
 それにおれには、よっちゃんは重すぎた。
 立ちどまって夜空を見上げた。吐く息が白く上がる。星が走ったような気がして眼を移したけど光はすぐに消えた。黒く影になったビルのあいだから、オリオン座がじわっとぼやけて見えた。

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見上げた空は 10 par.2

T005

 * * *  ≪ 10 ≫

【 parenthesis 2 】

 自宅の駐車スペースへ入れた車のドアを閉めながら、石橋は無意識にコートのポケットに手を入れた。
 先日、机の中から見つけた天使の人形がカチリと指にあたる。家を見やると玄関灯と窓越し居間の明かりが、あたたかく石橋を迎えようとしていた。
 人形の羽の折れた部分をゆっくりと指で触った。ギザギザした感触を確かめながら石橋は小さくつぶやいた。
「ひどい人……か」
 まったく、自分はよほどひどい人間なのだろうなと思う。あんなまっすぐな目をした青年からも言われてしまうとはね。石橋の唇に思わず笑みが浮かんだ。

 ひどい人。
 妻に投げつけられたのと同じ言葉だ。
 あの日以来、石橋はずっと演じ続けてきた。
 いや、そうではない。演じてきたのはもうずっと前からなのかもしれなかった。ただ演じかたを変えただけだ。
 皮肉な話だ。正直に生きようとすればするほど挫折をくり返した。なのに演じることを意識したとたん、まるでつかえていたものが取れたように、一切が楽になった。それは、どれだけごまかしの生きかたをそれまで自分がしてきたか、というまぎれもない証拠だ。石橋はいまの生きかたに充実を感じていた。
 ある意味、石橋にとってはいまがいちばん正直な状態なのかもしれない。
「ひどい人……だな」
 石橋はふたたびつぶやき、暗い夜空を見上げた。白い息が上がる。天空に掛かるオリオンを横切るように小さな星が流れた。

 一瞬、祈るように目をつぶったあと、次に目を開けたときには、彼はいつもの表情に戻っていた。
 石橋遼一という名の、父親の顔に。
 夫の顔に。

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見上げた空は 11

T013

 * * *  ≪ 11 ≫

 翌朝、また九時前にケータイが鳴った。
「いーかげんにしてくれ、黒木」と文句を言うつもりで通話ボタンを押したら
「君のアパートの前まで来ている。ちょっと出てこられないかね」
 有無を言わせないような声の、石橋さんからの電話だった。カーテンを開けて窓から見下ろすと、あの夜よっちゃんが転んで足をつらせた三叉路に、紺のBMWが停まっている。
 不承不承、身じたくをととのえアパートを出た。おれがBMWの助手席に乗りこむと、石橋さんは右ハンドルの車をゆっくり発進させた。
「舜……ママから、朝早くに電話があってね。若い人は自分の身体を過信して、なかなか病院に行こうとしないだろう。知り合いの医者に連絡をつけているから、いまからすぐ検査してもらいなさい」
 なるほど連絡が行ったか。なら昨夜のことは全部把握してるってわけだな。

 身体は疲れてるけど、ゆうべのケガはまるで問題ない。おれが仏頂面で返事もせずにいると、石橋さんは言葉を継いだ。
「金はこちらで出すから、心配は無用だ」
「あなたにお金を出してもらう筋合いはないです」
 そうおれが応えると、石橋さんは眉をちょっとだけ上げた。車が渋滞気味の大通りへと出る。のろのろと進む車列の後ろにBMWをつけて、石橋さんは言った。
「よっちゃんを助けてケガをしたなら、金はわたしが出すのが当然だ」
「部外者がこれ以上かかわるなって、ゆうべあなたが言ったばかりです」
 ふっ、と石橋さんが笑った。
「おれ、いろいろ考えました。四年前、ひどい状況からよっちゃんを救ったのがおそらくあなただ。あなたがいなければ、いまのよっちゃんもなかった。よっちゃんには絶対、必要なんだ。あなたが」
 すごく、悔しいけど。
「確かにおれの行いは野暮でした。おれ、もうよっちゃんには会いません。映画研究部もやめますから」
 どうせ遊んでばかりの部活動だ。

「学部も違うし、部活がなければきっとよっちゃんとは、めったに会うこともありません。どうか安心して下さい。ケガを心配してくれてありがとうございました」
 赤信号で車列が止まったのを幸いに、おれはドアを開けて車から出ようとした。そのおれの背中に、いきなり石橋さんの声が飛んできた。
「あの子と、離れないでくれ!」
 おれは思わずふり向き、眼を見張った。こんな表情の石橋さんをいままで見たことがなかった。
「乗ってくれ」
 後ろの車両からクラクションが鳴る。信号が変わり車の流れが動きそうだ。おれが慌てて助手席に戻ると、石橋さんはBMWを発進させた。
「あの子が、どうやって英会話をマスターしたか聞いてるかい?」
 石橋さんがおれに聞く。おれがかぶりを振ると、石橋さんはこう言った。
「映画だ。洋画を観ての独学なんだよ」
 絶句した。よっちゃんが「映画観てたら憶えるじゃん」なんて言ってるの、冗談だと思っていたけど、まじだったんだ。

T001

「あの子にとっては映画が、つらい現実から逃れる唯一の手段だった。きっと夢中でくり返し観ていたんだろうね。ある日わたしが、字幕もなしに洋画を観ているあの子に気づいた。ひょっとしてと英語で話しかけたら、あたりまえのように返事が返ってきたよ。本人に聞くと『自然に憶えた』なんて言うんだ。驚いた。
 言語に対する感覚が生まれつき鋭かったんだ。いったん本人が才能を自覚すると伸びるのは早かった。さらに他の学力も信じられないほど上がった。自信がついたことが情緒を安定させた。もともと聡明な子だった。環境がそれを許さなかっただけだ」
 石橋さんは、おれが聞いてるかそうでないかなんて、まるでかまわないようにどんどん話を続けた。

「大山くん、君もわかるだろう。あの子がとてもいい子なのが。感受性が豊かで、素直で、それにとてもユニークだ。可能性もたくさん秘めているのがわかるだろう」
 この時間にやたら混雑する駅前の交差点を過ぎたから、車の流れは速い。

「わたしは、あの子が将来何をするとか何になるとか、そのために何が必要だとか、全然まだ考えちゃいない。それよりも、いまある時間を大切にして幸せに生きていて欲しいと願っている。あの子はまるで奇跡のような子なんだから。
 あの子が学校で、映画を通じて友だちができたと伝えてきた時には本当に嬉しかったよ。家庭でも外でも暴力にまみれて育ち、映画の、架空の世界だけを心の拠りどころにしてきたあの子が、初めて……」
 突然、きしんだ音で急ブレーキがかかり、おれたちは激しく前につんのめった。
 赤信号だった。
 車は停止線を越え、横断歩道のすぐ手前で停まっていた。交差点の横から来たトラックがこれ見よがしなクラクションを鳴らして去った。
「……すまん。うっかりした」
 石橋さんが、大きく首を振りため息をついた。おれに隠すように石橋さんは目頭をすばやく押さえた。おれも気づかないふりをした。信号が青に変わるのを待ち、静かに発車する。石橋さんは黙って運転を続けた。

 まもなく車は病院の広い駐車場に入った。ゆっくりと端の方に停まる。
「何でそんなこと、おれに話すんですか?」
 シートベルトをはずしながらおれが聞くと
「さあ、わからないね。ひょっとしたら、誰かに話したかっただけかもしれない」
 ハンドルに寄りかかって、石橋さんは少しだけ笑った。
「本当にユニークな子なんだよ。携帯電話なんか、友だちとの連絡に必要だろうと与えようとしても、絶対に首を縦に振らない。便利だからと電子辞書を買ってやろうとしても、わたしのお古の辞書で充分だ、そっちがいいんだと」
「あの、ガムテープの英和……」
 思わずそう言うと、石橋さんは笑った。
「遠慮してるつもりなのかねえ。こづかいさえめったに受けとらない。遊ぶお金はバイト代があるからだって。週五日もバイトしたら遊ぶヒマなんかないだろうに。まあ本人がそう言うから、そうしてるけどね」
 石橋さんは、幸せそうに笑った。

T011

 受付で、石橋さんは年配の人物を呼びだし、その人としばらく話をした。
 おれは黙って、石橋さんの後ろ姿を見ていた。頭を眺めていたら、根元の白い髪が意外と多いのに気がついた。
 石橋さんは、おれに向きなおり
「すぐに診てもらえるそうだ。わたしはこのあとすぐ仕事に行くから、何かあったら電話をかけてくれよ」
 おれが看護師さんに連れられて、診察室に入るまでのあいだ、今度は石橋さんがずっとおれを見ていた。

 * * *

 検査の結果は、思ったとおり異常なしだった。
 すべて終わってから、受付で「いくらですか?」と聞くと、さばけた感じのお姉さんが「精算は、先ほどのかたによって済まれてます」と応えた。
 おれは焦った。確かに石橋さんはさっき「金の心配はない」なんて言ってたけど、やっぱりそんなわけにはいかない。
「おれ、自分で払います!」
 慌てて財布を出したけど、中身は野口英世がペラッと一枚。お姉さんがくくっと笑いをこらえながら言った。
「それより保険証、持ってないの? あなた学生さんでしょ。一人暮らし?」
「はい」
「家を離れる時に、親御さんから渡されなかった? 健康保険証のカード」
 そういえば、あったような気がする。
「それがあれば、保険が利くから安くなるわ。明日にでもあらためて持ってこれる?」
「も、持ってきます! いまからすぐ」
 慌ててアパートに戻った。タンスの引き出しを引っかきまわし、近所のつぶれたビデオ店のや何のかもわからないカードに混じって、健康保険証があるのを見つけた。

 おれはごろりと床に寝転がって、そのカードをしみじみと眺めた。
 カードには「被扶養者」と書いてあった。戻りがけに銀行に寄ってお金を下ろしてきたけど、あれも結局は、親からの仕送りだ。自分は病院に行くにも親がかりの、まだまだガキだったんだってことに、いまさら気づいた。
 再び病院へと向かう。その日は、冬とは思えない陽気だったから、ゆっくり歩いていくことにした。少し遠回りをしてよっちゃんちに寄ろうと思った。無性によっちゃんの顔が見たかった。

 よっちゃんちは木造モルタルの古いアパートだ。トイレとお風呂が共同になってて、韓国やバングラデシュなど外国からの留学生もたくさん住んでいる。常に数ヶ国語が飛びかってるような、とてもエキサイティングなアパートだった。
 よっちゃんの部屋は二階の一番端っこだ。石段を上った小高い場所に建っていて、下の道からもよく見える。
 街路樹の影からアパートを見上げると、ちょうど窓が開いて、よっちゃんが布団を干そうとしているところだった。必死にやっているからこちらには気づかないみたいだ。顔と手のバンドエイドははずれていたから安心した。
 ぽかぽかした陽射しの中で、うにたんのケージを横に置き、よっちゃんは布団にゆっくりと寄りかかった。空を見上げながら、楽しげに何かを口ずさんでいる。
 きっと『虹の彼方に』だ。よっちゃんの大好きな、すごく有名なミュージカル映画の曲。虹の向こうに夢のかなう幸せの国があるっていう歌だ。

 Some where Over the Rainbow way up high……

 よっちゃんに背中を向けて大きく深呼吸をしたあと、おれはまた歩きだした。
 泣きたいような笑いたいような、何だかおかしな気持ちだった。

Tc0201
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見上げた空は 12 par.3

T014

 * * *  ≪ 12 ≫

【 parenthesis 3 ~堕ちる天使の情景~ 】

「女を、連れこんでいる」
 石橋遼一は思った。
 メイン通りから入りこんだ細い道に建つ小さな映画館『セントラル』。五枚綴りチケットの一枚を出そうと、狭い窓口をのぞきこんだ瞬間だった。
 窓口にいるのは、石橋もよく知っている男だ。
 この古い映画館のいちおう跡取り息子ではあるが、映画のことなど何もわかっちゃいない。就職もせずブラブラしていて、たまに今日のように窓口に座っていたりもする。だがそんな時は必ずガールフレンドだか何だかが一緒にいて、こちらが券を買おうと窓口の前に立っても、平気で目障りな行為に及んでいたりするのが常だ。
 いまもカウンターの下、こちらからは見えない位置に誰かいるようだった。不愉快な気持ちで石橋は館内に入った。

 この男さえいなければ、ここは彼のお気に入りの場所だ。けっして快適ではない。椅子は古くて固いし、便所で使う消毒の臭いがロビーにまでただよっている。
 しかしそれらの何もかもが、映画に夢中になった十代の頃まで石橋の記憶を誘った。  
 いまの職業が映像関係なのも、それらの十代の体験がきっかけだ。ここは自分のルーツだと例えてもいい、と石橋は思う。
 いまは二週間、変則的に五本の古いフランス映画が上映されている。五枚綴りのチケットが発売されていて、同じ通りにある行きつけの喫茶店『カルカヤ』で買わされた。
「そのかわり、チケットを見せれば、うちのコーヒー百円引き」
 主人は笑って言った。
 長いつきあいのある主人だ。会社を経営する身でまっ昼間から映画鑑賞などする暇もないだろうが、いちおう券は購入した。まあ、コーヒー百円引きだけでもありがたい。
 そう思っていた石橋だったが、偶然にもすっぽりと午後の予定が空いた。今日の上映はルイ・マルの『地下鉄のザジ』らしい。

 後方の中央から少し右に寄った席が、石橋がいつも座る位置だ。すこし待ったあと開演ブザーが鳴る。と同時に、ひとりの少年が後方口からかけ込んで来た。袖で口をぬぐいながら、少年は石橋から二つほど空いた斜め前の席に座った。一瞬、匂いがした。
「カウンターの下にいたのは、彼だ」
 石橋は直感した。
 館内の照明が落ちた。

 * * *

 次の日も、石橋は映画館に出かけた。クライアントとの打ち合わせを先延ばしにして、無理やりスケジュールを空けたのだ。
 午後から、ゴダールの『はなればなれに』が予定になっている。
 石橋は、前日に見た光景が気になっていた。映画が終わったあと、少年はそそくさといった感じで、窓口のカウンターに戻っていった。
 あの時一瞬、感じた匂い。あんな小さなカウンターの下に入りこんで、あのいけすかない男相手に何をしているか、察することは簡単だ。
「決して、好きでやっているわけではあるまい」
 なぜだかわからないが、石橋はそう思った。
「きっと、かわりに映画を見せてやるなどと言って、それを強要しているのにちがいない」とも思った。
 少年は今日も来ていた。そして、石橋と同じように前日と同じ席に座った。
 石橋の席からは彼の横顔がよく見えた。中学生ぐらいの年頃に見えるが、昼間に映画館にいるぐらいだからそうではないのだろう。
 茶色いくせのある髪。まっすぐな鼻梁、かたちよい顎のラインが見てとれる。ただ顔色がわるくあまり健康そうではない。肩も細くて薄い感じだ。
 ついつい身を乗り出したところで、館内の照明が落ちた。

 映画の内容はほとんど頭に入らなかった。
 ずっとうわのそらだったのだ。有名なマジソンダンスのシーンでさえ、それを熱心に見入る少年のほうに気を取られていた。
 終わると同時に、石橋は自分でも信じられないことだったが、少年に声をかけた。
「もしよかったら、このチケットあと三枚もあるんだが、使ってくれないか」
 少年は、びっくりしたように石橋を見つめた。
 正面から見ると、細く見えた顎が意外としっかりしているのに石橋は気づいた。不思議なバランスの顔だ。少し角度を変えただけで印象が変わった。
「でも……」少年が声を発した。
 小さくてか細い声。口調も見た目より幼い感じがする。
「券が余っちゃってもったいないんだ。君は映画好きのようだから、使ってくれるとありがたいんだよ。いやいや、決して怪しい者じゃないから」
 石橋は、なぜだか焦っている自分がおかしくてたまらなかった。「いやいや、決して怪しい者じゃない」なんて日常、とうてい使う言葉じゃない。
「ありがとう」
 券を手にした少年がニッコリと笑う。また印象が変わった。

T001
 ロビーに出ると、少年はまた急いでカウンターに向かった。
 自分の早合点だったのか。余計なことをしてしまったのだろうか。石橋がそう考えながら見ていると、少年はなにやら相手の男と口論をはじめた。といっても、男のほうが一方的に何か言っているらしい。
 とうとう男が少年の胸ぐらをつかんだ。
 たまりかねた石橋が二人のあいだに割り込むと、意外と素直に男は引っ込んだ。
「ふん。いいのを引っ掛けやがったじゃないか」
 吐き捨てるように、男がそう言った。

 * * *

 喫茶『カルカヤ』の主人のことを、常連客は「ママ」と呼ぶ。
 ずいぶん若く見えるが、実際には石橋よりひとつふたつ上だ。
 個性的ないでたちのせいでいろいろと世間から誤解もされやすいが、腕はいい。コーヒーの味も出される軽食類も絶品だった。
 カウンター席に座り、石橋は百円引きのコーヒーを注文した。隣には少年がいる。何がいいかと聞くと「紅茶」と応えた。
「ここのフレンチトーストはおすすめだ。食べてごらん」
 そう言って、石橋はフレンチトーストと紅茶のセットを、少年のために頼んだ。
「名前、なんていうの?」
 自分の名を名乗ったあと、石橋は聞いた。
「水村好男」
「好男くんか」
「うん。でもみんな、よっちゃんて呼ぶ」
「あら、よっちゃんっていうの。かわいいじゃないのさ」
 カウンターの向こうから、ママが話しかけてきた。
「どうぞ。ハチミツかシロップは、自分の好きなだけかけてね」
 フレンチトーストセットを少年に出し、石橋をにらんだ。
「罪つくりねえ。どこで引っ掛けてきたの」
「そんなんじゃないってママ。セントラルでたまたま意気投合したんだよ」
 やっぱり「引っ掛けた」ように見えるのだろうか。妙な誤解をされちゃたまらないと焦る石橋に、ママが「冗談よ」と言ってけらけら笑った。

 * * *

 石橋には幼いころから父親がいない。母ひとり子ひとりで育った彼は、母親を幸せにすることが、自分の義務だと思っていた。
 十代の後半から、苦学して海外の専門学校に通い映像を学んだ。
 日本に帰ってマスコミの仕事に就いたのち二十五歳でテレビ映像の製作をする会社を立ちあげた。作るのはおもにドキュメンタリーだ。とにかくがむしゃらに働いた。一週間徹夜ということもざらにあった。
やがて、土曜日の早朝五時半で帯番組をもらった。県内にある古い仏教施設を紹介する十五分ほどの番組だ。これが視聴率をとった。たいした数値ではないが、この時間帯の番組にしては快挙だった。それをきっかけに会社を大きくした。
 結婚したのは三十五歳をすぎてからだ。仕事も安定し、母親を安心させねばという思いが先にたった。
 結婚相談所で出会った妻は瞳という名前で、気立てもよく穏やかな性格だ。今年小学三年のひとり娘、絵里もその気質を受けついでいるようだった。

 昨年、母親が死んだ。この秋で一年になる。
 いくつかの法要を終え、日常の暮らしに戻っていくうちに石橋は、自分の中で何かが足りないことに気づいた。母を失った寂しさともちがう、いくばくかの寂寥感。それがどこから来るものやらわからないが、石橋はいつもそんな思いにさいなまれていた。
 はっと我にかえった。
 となりで好男が、ハチミツをたっぷりかけたフレンチトーストと格闘している。ずいぶん長いあいだ考えにふけっていたはずだったが、皿の上のものはまだ半分しか減っていない。
「腹は減っていなかったのか」
 そう思ったが、どうやらそうではないようだ。
 とにかく食べるのが遅い。見ていると、まさにパンと対局でもしているかの様相で、ひとくちずつ口に入れる。柔らかいフレンチトーストだというのにそんなに咀嚼する必要があるのかと思うぐらい、しみじみ噛みしめている。
「おいしい?」
 石橋が聞くと、好男が彼のほうを向いた。しばらく口をもぐもぐさせながら彼をじっと見つめた。
「うん、すごくおいしい」飲み込んで、やっとそれを言った。
「そうか、よかった」
「うん」好男がニッコリと笑う。
「こんなふうに、おいしそうに食べてくれるとさ、こっちだって作り甲斐があるってもんよ、ねえ」
 ママが口をはさむ。いつも犬みたいにさっさと食べてしまう石橋へのあてつけかと思ったら、そうではないらしい。本当に喜んでいるのだ。
「ねえ、イシバシちゃん」
 ふたたび皿の上のものと格闘しはじめた好男をよそに、ママが話しかけてきた。
「またこのコ連れてきなさいよ。いろんなもの食べさせたげたいわ。それに映画好きなんでしょ、話もあうわよ。」
 そう聞いて石橋は、やっと好男と映画についてひとことも話さなかったことに気づいた。

「また今度」石橋はつぶやいた。
 また、今度。
 そう思っただけで石橋は、自分の中にひとすじの灯が点るような、そんな気持ちになっていたのだ。

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見上げた空は 13 par.4

T015

 * * *  ≪ 13 ≫

【 parenthesis 4 ~堕ちる天使の情景~ 】

 その「今度」は、思いもかけないかたちでやってきた。
 テレビ局からの依頼で、新しい企画が持ち上がっていた。「家族」をテーマにしたドキュメンタリーだ。
七月上旬の晴れた日、石橋はリサーチのため、ある養護施設に足を向けた。
 本来、何らかの家庭の都合で子どもを養育できない場合に、親に代わって子どもを養護し、自立を支援するための施設なのだが、現在かなりの割合で、家庭内での被虐待児が増える傾向にある。
 石橋が訪れたのは、中でもそれが顕著だといわれている施設だった。

 小さなグラウンドを抱えた白いコンクリート製の建物で、門の表札には『愛光園』と記してある。
 応接室で施設職員としばらく打ち合わせをしたあと、石橋は愛用のハンディカメラを手に、ゆっくりと施設内を歩いた。
 リノリウムの床にスリッパの音がぺたぺたと響いた。梅雨明け宣言がまだの天気は、日が照ってはいるがかなり蒸し暑く、屋外よりも空調の効いた室内にいる子どもが多かった。興味深そうに近寄ってくる子もいれば、恥ずかしがって逃げ出す子もいて、石橋にも思わず笑みがこぼれた。
 ふと窓の外を見た石橋は、日差しの照るグラウンドの隅っこでひとり小さくしゃがみ込む人影に気付いた。
 靴に履きかえ外へ出る。自分の影がくっきりと映る地面を視線の端に捕らえながら、石橋はその子に近づいていった。
 気配を感じたのか、子どもがふっと顔を上げた。
「……あ」
「あれっ、君か」
 石橋は思わず声に出した。
「好男くん。よっちゃん……だったね」
「うん」
 好男は、石橋の手にあるハンディカメラに目を留めたらしい。
「……おじさん、相談所の人?」児童相談所のことだろうか。
「あ、いや、テレビの人だよ」
「テレビの人……」
 つぶやくように小さな声で好男が言う。石橋は「ここ、いいかい?」と、好男の隣に腰を掛けた。のんびりとした調子で話を続ける。
「ドキュメンタリーを撮るんだけど、いまどういうものを撮ろうか考えているところ。よっちゃんはテレビは好きかい?」
「うん、好き」
 そうやって、フェンスを背にしばらくとりとめもない会話を続けた。好男は石橋と目を合わせるでなく、淡々と質問に応えた。いま中学三年生だという。ではあのとき映画館にいたのは、やはり学校をサボタージュしていたのだろうか。そう石橋は思った。

 白い建物に光が反射して眩しかった。強い日差しが二人に当たっている。
 空気も重くじっとりと肌にまとわりついて息苦しく感じた。不快指数がかなり高いようだ。石橋はにじむ汗をタオルでぬぐいながら好男に言った。
「それにしてもよっちゃん、ここは暑いよ。あっちの木蔭のほうが風も通って涼しそうだし、ちょっと移動しないかね」
「……あ、うん」
 そこが日なただったことに初めて気づいたようすで、好男がうなずく。
 ふたり揃って立ち上がろうとしたとたん、好男がぐにゃりと、まるで崩れ落ちるようにその場に倒れ込んだ。
「好男くん?」
 返事はない。好男の顔が妙に赤らんでいる。脱水症状を起こしかけているようだ。
「おおい、誰か来てくれ!」
 助けを求めながら石橋は好男を抱え上げた。彼の身体はまるで羽根のように軽かった。ばたばたと職員たちが駆け寄ってきて、好男はそのまま医務室へ運ばれた。

 応急処置で、何とか落ち着いたらしい。
 石橋は職員の柴田ミツコに導かれ、ふたたび応接室へ戻った。柴田は銀縁のメガネをかけた四十がらみの女性だ。着古したジャージ姿がかえって何か貫禄を感じさせる。子どもからも「ミツコ先生」とかなり慕われているようだった。
「熱中症です。いつものことですよ」
 熱いお茶を出しながら、ぶっきらぼうな口調で柴田が言う。
「鈍感なんですよ、あの子」
「え?」
 石橋がその意味をわかりかねていると、柴田はさらに言葉を継いだ。
「苦痛や不快感に対して麻痺しているんです。たとえば人が、暑い寒いとか空腹とか苦しいとか、そういう普通に持っている感覚が、あの子の場合は極端に鈍いんです」
「それは、やはり……」
 石橋が言いよどむと
「ええ、もちろん幼少期の虐待の影響ですよ」
 柴田は大きくため息をついた。
「今回みたいな調子で、どんなに身体がきつくっても本人は自覚なしにケロッとしているんです。でも肉体的にダメージを受けているのは確かなわけですから、そこを周囲がちゃんと見ておかないともう大変で」
 特に、何か他のことに気を取られている時など気をつけないといけない、ということだった。石橋は恐縮する思いだったが、柴田はこちらこそ説明しなかったからと詫びた。
 恐縮ついでに、好男を取材したいという話を持ちかけてみる。
「あの子は、ちょっと大変だと思いますよ」
 眉間にしわをよせ、柴田が応えた。

 * * *

 まもなく石橋は、その意味を理解した。
 愛光園で取材を続けるいっぽう関係機関をまわり、好男の父親については現在の所在地までつきとめたが、石橋はそこに足を向けることを保留した。好男の身の安全を優先するためだ。
 好男の場合だけではない。他の児童数人のケースもリサーチを始めたとたんに同じような壁にぶつかった。取材自体が、何よりも守るべき子どもたちの安全とプライバシーを脅かしかねないパラドックスに石橋は気付いた。これは企画としては失敗だった。

 秋の始めごろ石橋は、番組の企画が頓挫したことを施設に告げに行った。
「世の中にこういう現実があることを、本当は皆さんに知ってもらいたかったんですけどね……」
 取材をする中ですっかり顔なじみになっていた柴田が、そう言って残念そうにため息をついた。
 施設長にはあらためて挨拶にうかがうことを告げ、腰を上げようとしたところ、柴田がためらいながらも少し慌てた声を出した。
「あの、石橋さん」
「はい」
「もし、もしよかったら、よっちゃん……水村好男くんと、また会う機会を作ってくれませんか?」
 石橋が「は?」と怪訝な声を出すと、柴田はさらに焦ったように早口で言葉を継いだ。
「あの子、どういうわけか石橋さんが来たときはとてもいい状態で、助かってるんです。学校も休みがちだったのがちゃんと通うようになったし。フラッとどこかへ行って帰ってこないっていうのもなくなったし。本当にずいぶん良くなってきたんです。
 私たちもあの子にだけ手をかけるというわけにはいかないので。あの、本当にこんなことお願いするの申しわけないんですけど……」
 柴田の言いたいことはよくわかった。実際、職員たちの仕事はかなりのオーバーワークで、彼ら自身が疲れの限界に達しているはずだ。子どもの状態がよくなるという望みがあれば、部外者にだってすがりたい気持ちなのだろう。
「ええ、いいですよ。わたしでよければ」
 石橋は微笑んだ。
「好男くんは映画が好きみたいだから、たまに映画に連れ出すことにしましょう。それほど時間は取れないと思うのですが。そうですね、最低でも月に一回ぐらいは」
 柴田は、表情をパッと明るくして「ありがとうございます!」と叫んだ。

 * * *

「ラストシーンがすばらしかった」
 石橋の声に、カウンターの隣で好男がうなずく。
「家に続く細い曲がりくねった階段が、あの老女の生きて暮らしてきた道なんだと情景が雄弁に語っていた。静かだがさまざまなことが伝わってくる見事なラストシーンだったね」
 いくぶん興奮して喋っている自分が、自分でもおかしく思う。だが石橋が喋らないと、隣にいるこの少年はずっともぐもぐと口を動かしているだけなので間がもたない。それに、いま観たばかりの映画についてこうやって話ができるというのも、ずいぶん久しぶりのような気がして、石橋は心が弾んでいた。

T001

 月に一回、と言っていた割に、石橋はすでに三回も好男を映画に連れ出している。
 ひとりで観るのはもったいない良い映画が、続けて掛かっていたせいもあったが、本当は自分がこの子に会いたかったのだと、石橋自身も気付いていた。
 この日観たのは、セントラルで時期を遅れて上映されていた韓国の映画だ。
 カルカヤ特製のフレンチトーストをいつものようにゆっくり飲み込んで、好男は
「山の景色もきれいだったね」
 と、ニッコリした。その口の端にハチミツがついているのをぬぐってやろうと、石橋はつい手を伸ばしたが、ふと気づいてやめた。
「よっちゃん、ここ」
 石橋の言葉に、あっと気づいたように好男が袖で口をぬぐう。
「そういうときは袖じゃなくて、これを使うんだよ」
 差し出した紙ナプキンを慌てて使いながら、好男は「エヘッ」と笑った。
 些細なことだが石橋は、好男の身体に触れる行為を自分に禁じていた。先日のママの「引っ掛けた」という冗談のように、妙な誤解をされちゃたまらないと思っていた。
 それでなくても身を預かった立場だ。大人の責任というものがある。

「イシバシちゃん、ずいぶん楽しそうねえ」
 カウンターの向こうからママが話しかけた。余計なことを言うなよ、と石橋は密かに毒づく。
「あんなに仕事仕事ってやってた人間が、いつからこんな場所で油を売るようになったのやら。そろそろ一年じゃないの、あなたのお母さん」
「ああ、十月で一周忌だよ」
 石橋は応える。
 一年前、母親は認知症で自分の息子さえわからないようになっていた。介護を病院や妻にまかせっきりにしていたせいだった。
 仕事にかまけていたのだ。全国規模のTVドキュメンタリーの賞を狙っていた。三年間の長いリサーチを終え、実質的な番組製作にとりかかったばかりだった。おかげで月に一回、病院に行ければいいほうで、妻から「母親が自分の名を呼んでいる」と聞かされてもその時間がなかった。番組が完成したら思うぞんぶん会うから、と先延ばしにした。

 テレビ局で最終の編集チェックをしていたその深夜に、母親の容態が急変した。作業を終えたあと病院に向かったが、夜の明ける前に彼女は息を引きとった。石橋は母親の死に目に会うことはできなかった。
 けっきょく、賞も逃した。
 自分の中にぽっかりと穴が空いていることに石橋が気付いたのは、その頃だった。

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見上げた空は 14 par.5

T016

 * * *  ≪ 14 ≫

【 parenthesis 5 ~堕ちる天使の情景~ 】

 十月の連休の初日。母親の一周忌法要のあと、わずかな身内での会食をすませた。
 都心から少し離れた海に近い場所だ。松林に囲まれたホテルの広いロビーで、石橋は妻の瞳と向かい合いソファに腰を掛けていた。
 クラシックのピアノ曲が流れている。眠くなるような休日の午後だ。
 娘の絵里は白い襟がついた黒のワンピース。石橋たちからは少し離れ、エントランスのあたりで、瞳の妹と一緒にベビーカーの双子の従姉妹をあやしている。時々はしゃいだようにこちらを見やり、石橋に向かって「パパ!」と手を振ってみせた。
 そんな絵里に手を振り返しながら石橋が、瞳と絵里を車で自宅まで送ったあと会社に戻る、ということを告げると、妻の瞳は「そう」とうなずいた。
 ちょっとした沈黙が降りる。
 彼女は黒いツーピースの上着の裾を所在なげにいじっていた。石橋も何となく気まずい気持ちで、ついポケットのタバコに手を伸ばす。
「ひどい人よね。あなたって」
 瞳のつぶやくような声に、石橋は手を止め、顔を上げた。
「え?」
「ひどい人、って言ったの」
 一瞬、何のことかわからなかった。まさか心当たりがないわけではない。むしろあり過ぎて、どれについて言っているのか判断がつかない。
 石橋は、タバコをふたたびポケットに収め、いちばん無難と思われる返事をした。
「母のことは大変すまなく思っているよ。後悔してる。君にもずいぶん負担をかけてしまって……」
「そうじゃないの」
 石橋の言葉をさえぎるように瞳が言った。いつも穏やかな彼女にしては珍しく、棘のある口調だ。
 ロビーの大きな窓からは結婚式用の白い小さなチャペルと、そこまで続くなだらかな斜面が望める。芝生の緑が眩しかった。トンビが数羽、急降下してはまた風に乗って上昇していく。あのチャペルからはきっと海も見えるに違いない、と石橋は漠然と考えた。

「ほらね。いつもそんな調子」
「え?」
「いつもあなたは、そうやって遠くを見てばかりなのよね」
 石橋は、あらためて妻の顔を見た。彼女は思いつめたような暗い目だ。
「あなたがお母さんを亡くしたあと、あなたが悩んでいることはわかっていたの。だからそれを受け止めようとわたしは待ってた。この一年。
 だけどあなたはそうやっていつも遠くばかり見ていて、わたしや絵里のことなんてちっとも見ていなかった。最初はわたしが悪いんだと思ったのよ。わたしの力が足りないんだって。わたしが悪いから、あなたがわたしを見ないんだって。でもそうじゃないでしょ。あなたが逃げてるの。あなたが悪いの」
 瞳は一気に言った。

 絵里がまた「パパ!」と呼んでいる。叔母のショールをふわりと頭にかぶりお姫さまのポーズを決めたあと、まるで花のように笑った。石橋は内心の動揺を隠し、ぎこちなく手を振り返した。
「絵里が、一年生のときに描いたパパの絵。あなた知らないでしょう?」
 追い討ちをかけるような瞳の声。
「顔がね、なかったの」
「……え」
 石橋の頭からすっと血が引いた。
「なかったの、顔が。理由を聞いたら、あなたの顔が思い出せなかったんだって。あなたにはショックだと思って隠してた」
 瞳が髪をかき上げる。
「そりゃわたしだってショックだったわよ。こんなこと何で気付かなかったんだろうって。だけど、あなたは忙しい人だったものね。負担をかけちゃダメだってずっと我慢してたの、わたしも絵里も。だけどこの一年で考えが変わったわ。
 あなたは逃げているだけよ。家族の気持ちも知らないで、家族に向き合おうと努力もしないで。目の前を見ないで遠くばかり見て。そうよわたしちゃんと気付いてるわ、あなたが他の誰かに……」
「ママ!」
 絵里の声。瞳がはっと口をつぐむ。
「ママ、おじちゃんがおばちゃんたちを迎えに来たよ!」
 絵里が、軽快に足音をたて石橋たちのところに走ってきた。
 ロータリーで、瞳の妹夫婦が子どもたちを車に乗せようとしている。絵里に手を引かれ、石橋がエントランスへ向かったとたん携帯電話が鳴った。番号はカルカヤのママだ。
 石橋は「すまん」と、絵里の手を離しながら電話を取った。
「あ、もしもし。もしもしイシバシちゃん?」
 ママの、いつになく緊迫した声。
「よっちゃんが……よっちゃんが大変なの。あの男に」
 石橋の心臓が、どきりと跳ね上がった。
「あの男にって、何があったんだ?」
 受話器の向こうからは、ただならない様子がうかがえる。
「……ごめん。電話ではちょっと説明できない。すぐこっちに来られる?」

 すぐに行くと返事をして電話を切り、顔を上げると、すでに妹夫婦の見送りを終えた瞳が絵里の手を引いて立っていた。
「いいんですよ、行って」
 瞳が、微笑んだ。
「ご心配なくどうぞ。わたしと絵里はタクシーで帰りますから」

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見上げた空は 15 par.6

T017

 * * *  ≪ 15 ≫

【 parenthesis 6 ~堕ちる天使の情景~ 】

 車を駐車場に停め、ママの住むマンションへ急いだ。
 映画館『セントラル』の入った五階建てのビルだ。三階から上は住居になっていて、ママの自宅はその四階だった。ポンコツなエレベータのある正面玄関と映画館の横からの階段と、ふたつの出入り口がある。石橋は映画館の階段を駆け上がった。
 一気に四階まで上り、はあはあと息を切らしながら玄関のチャイムを押すと、すぐにママが顔を出した。
 その姿を見たとたん、石橋の心臓は思わず天井まで跳ね上がった。ママの髪は乱れてほつれ、白いドレスシャツの胸から腹にかけて鮮やかな赤い染みがついていた。手にも赤く汚れたタオルを持っている。
「ああ」
 ママはこわばったように笑って言った。
「大丈夫。これはわたしの血じゃないわ。よっちゃんのでも」
「よっちゃんは? あ、あの男って?」
 石橋が、胸を押さえながら必死の思いでそれだけ聞くと
「説明はあと。まず布団を敷くのを手伝ってくれる?」
 ママが、石橋を室内に入れた。

 ソファに好男が横たわっている。下半身にシーツらしき布を無造作にかけただけの姿で、その布もあちこち赤く汚れていた。湯を張った洗面器が床に置かれ、その湯もピンク色に染まっている。テーブルの上にはビニール袋に入った小さな赤い何かが、無造作に置かれていた。
 好男は静かだった。どうやら眠っているようだ。石橋は自分の足ががくがくと震えるのを感じた。
「いま身体をきれいに拭いてあげてるとこだから。奥の部屋に敷いて」
 石橋は言われるままに隣の六畳間へ行き、押入れを開けて、あたふたしながら布団を敷いた。
 しばらくすると、ママが好男を抱えてきて「よいしょ」と、彼を布団に横たえた。
 ぱりっとしたシーツに清潔そうなパジャマ。好男はかすかに息をたて眠っている。やわらかそうな髪の毛が白い顔に影を落としていた。
 その穏やかな表情を見て、石橋もいくぶん安心はしたが、強い不安はまだ彼の心を揺さぶっていた。
「いったいよっちゃんに何があったんだ。教えてくれ」

 * * *

 ついさっきのことよ。
 お店の牛乳が切れてるのに気付いたから、買いに行こうとわたし外に出たのよ。
 そしたら、ものすごい叫び声がこのマンションの上から聞こえてきて。わたし、またあのガキどもがクスリかなんかやってるって思ったのよね。ええ、そんな調子でしょっちゅう住民に迷惑かけてるのあいつら。この際だから、きつくお灸でもすえてやろうと思って、五階まで駆け上がったわけ。
 ええもちろん階段でよ。イシバシちゃんとは違うの、鍛えてるの。自慢じゃないけど階段上がったくらいで息なんて切れないわよ。
 五階の部屋に着いたらガキどもみんなパニックになってて、その中でよっちゃんとあの男が……ああ、何て言ったらいいのかしら、ハンニバル・レクター教授も真っ青というありさまでね。さすがのわたしも一瞬、動けなかった。必死になって引き離したのよふたりを。
 よっちゃんはあんな感じで、服も着てなくて。もうかなりの興奮状態でね。ひどく暴れて、震えて。こっちの言うことまったく聞きそうになかったの。仕方ないからちょっとしたコツ使って失神させて。
 その間あいつはちぎれた耳を押さえて転げまわってた。くそ汚いケツ丸出しでね。
 救急車は呼んだかってガキのひとりに聞いたら、まだだって言うから、それなら筋向かいの甲田外科にこのまま駆け込めって言ってやったわ。あそこ年寄りだけどウデはめっぽういいのよ。そこに行ったとしたらあいつ、まだいるはずね。落としてった耳の半分、持っていってやんなきゃなんないんだろうけど、まあそんなの後回しよ。
 とりあえずこのわたしの部屋まで、よっちゃんを抱えて戻ってきたってわけ。
 ああ大丈夫。いますぐ起こすことだってできるわよ。起こしてみる? いい?
 ええ、そうよね。普段そんなことする子じゃないわよね。とってもおとなしい子よね。わたしもそう思ったわよ。だからまたガキのひとりに聞いたの。「いったい何でこんなことになったんだ」って……。

 * * *

 そこまで興奮気味に、一気に喋り続けていたママが、そこで言いよどむように言葉を止める。石橋は思わずうながした。
「いったい何で、こんなことになったんだ?」
 ママが短くため息をつく。ぐしゃぐしゃと髪をかき上げるようにしながら
「……あの男がね。イシバシちゃん」
「うん」
「あんたのことでね」
「うん」
「変なふうに、言ったんだって」
 頭から血がすっと抜けた。
 好男の顔を見やる。眠った好男の顔はまるで天使のように安らかだ。
 彼は自分を庇おうとしたのだろうか。ママの口調はまるで、石橋本人を責めるようにも聞こえた。
「まず甲田外科に行ってくる。一刻も早いほうがいいだろう」
 気力を振りしぼり、石橋は立ち上がった。
「そんな……格好で?」
 ママはつい口に出したのだろうが、石橋は
「仕方ないだろう!」思わず声を荒げた。
 眠っているはずの好男が、びくっと大きく跳ねた。目をつぶったまま苦しげにあえぎ、何かから必死で逃げようとするようなしぐさを見せる。
「あなたがそんな大声を出すから」
 ママは石橋にそれだけ言うと慌てて布団に向かい、ささやくような声で怯える好男をなだめ続けた。
「よっちゃん、よっちゃん。大丈夫よ。何でもないの、大丈夫よ」
 母親の法事を終えたままの黒い喪服姿で、石橋はそんなふたりの姿をぼんやり眺めた。

「遼ちゃん」
 母親の声が、遠くで聞こえた。

「遼ちゃん。大丈夫よ。何でもないの、大丈夫よ」

T016

 石橋は黒い服を着て、古い六畳間の真ん中に立っていた。
 目の前に襖がある。その襖に自分の影が映っている。影は何だかゆらゆらとして、まるで自分が実体のないお化けのようだった。
 襖は、石橋が手をかけるとすらりと開いた。暗い奥の部屋には布団が敷いてあり、誰かがそこに寝ているようだ。
「……よっちゃん?」
 奥の部屋に踏み込んだ。畳の感触はじっとり古くたわんでいて、ぎし、ぎし、と一歩ごとに音が鳴った。
 石橋が、かがみこみ布団を剥ごうと手をかけたとき、中から小さい声がした。
「……パパ」
 絵里が、顔半分を出してこっちを見ていた。長い髪が白いシーツの上でもつれ広がっている。母親によく似たアーモンド型の目が、闇の中に暗く光っていた。
「そんな目で見るな!」
 思わず石橋は叫んだ。布団に馬乗りになり、自分の娘にぐいとのしかかった。とてつもない恐怖が、急激に石橋の心を支配した。絵里が感じる恐怖なのか、それとも自分自身の恐怖なのだろうか。そのときの石橋は絵里の目でものを見ていた。重くのしかかるものに抵抗しようともがき、泣きながら必死に声を上げていたのだ。

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見上げた空は 16 par.7

T018

 * * *  ≪ 16 ≫

【 parenthesis 7 ~堕ちる天使の情景~ 】

 気付くと朝だった。
 石橋はママの自宅の六畳間に、じかに横たわった状態で目が覚めた。
 隣のリビングからコーヒーと焼いたパンの香りがする。朝のワイドショー番組らしいテレビの音も聞こえていた。
 石橋はびっしょりと汗をかいていた。頬を撫でると不自然にデコボコしていて、どうやら畳の模様がしっかりついてしまったようだ。リビングに顔を出すと、テーブルの上に朝食の準備ができていた。トーストにサラダとベーコンエッグ。
 好男は、こっちを見るといつものようにもぐもぐと口を動かしながら「おはよう、おじさん」とでも言うようにニッコリと笑った。
 ママが「コーヒー飲むでしょ」と席を立ち、マグカップに注いだコーヒーを手に石橋へ近づいてきた。そのままふたり六畳間まで戻り、ママが後ろ手で襖を少しだけ閉める。
 ひどく戸惑った表情でママが言った。
「イシバシちゃん、いったい何なの、あの子」
「また、何かあったのか?」
 石橋が慌てて聞くと
「いえ、あったっていうかなかったっていうか、ああ、どう言ったらいいのかしら」
 ママは混乱したふうに頭を振る。
「明るいでしょ、あの子。起きたときからあんな調子なの。お風呂に入れて食事をさせたんだけど、昨日のことなんてまるで憶えてないみたい。なんだかちょっと怖い感じで、どうしようかって思ってたとこよ」
 石橋は、思い当たった。

「おそらく記憶障害だ。何かストレスがかかって、次に起きたときにはその出来事をほとんど忘れてる。そういえば、記録にも書いてあったな。」
「……記憶障害」
 ママが眉をひそめる。
「夕べ聞いた、あれだけじゃなかったんだ」

 * * *

 昨夜、石橋がこの部屋に戻れたのは、深夜を過ぎてからだった。
 男の耳には結局、大きな傷が残ることになった。駆けつけた男の両親は、善人なのだがじつに世間知らずという体の人間で、この三人を相手になだめたりすかしたり散々な苦労をした挙句、やっと示談という形にこぎつけた。

 部屋に戻ったあと、石橋はママにすべてをぶちまけた。好男との出会いのきっかけから取材先で再会した話、その後調査でわかった彼の身の上すべて。
 そうせずにはいられない、ひどく忌々しい気持ちだった。
「母親はいま所在不明。父親の居場所は判明してはいるが、すでに親権喪失宣言がなされている。児童相談所の所長による申し立てだ」
「児童相談所の?」
「相当ひどいケースだってことだよ」
 ママが「ああ」と、うなずいた。
「記録では父親とふたり暮らしだったその間に、二回も救急病院に搬送されてる。一回は背中の火傷、もう一回は異物の誤嚥」
「誤嚥って」
「当時あの子は七歳だ。床に落ちてるものを誤って飲み込むとか、そういう年齢じゃない。窒息しかけていたあの子の喉から、いったい何が出てきたと思う?」
 石橋の口調に忌まわしいものを予感したのか、ママが美しい眉をひそめた。
「……コンドームだよ」
 その言葉を発した石橋も、まるで何かが喉につかえたように苦しい。
「あの子の食べかたがあんなに遅いのは、ものを上手く飲み込めないからなんだ。怖くてたまらないんだよ。ものを嚥下することが」

 石橋は布団のほうを見やる。好男はぐっすりと眠っているようだった。
「十歳でその家から逃げた。児童相談所に保護されるまでの数ヶ月を屋外で過ごした。寒い季節だ。寝る場所、食べ物、行きずりの大人から施しを受けその見返りを求められたとき、たぶんあの子にはあんなことしか応える術がなかった」
 石橋は、やるせない気持ちで話を続けた。
「きっとあの子なりに必死で知恵をしぼった結果だ。あの子が食事する姿を見るたびに思うよ。ああ、いま生きようとして一所懸命なんだって。誰もあの子を責められないんだよ。本当に責められるべきは、おれたち大人なんだ」
 ママが何か小さくつぶやき、深いため息をつく。
 その夜の闇は、重たく、石橋とママと眠る好男にのしかかっていた。

 * * *

「ママ、あのね。これ観てもいい?」
 襖がカラリと開いて、好男がひょっこり顔を出した。
 石橋とママが一斉に自分のほうを向いたのに、戸惑ったように目を丸くして後ずさる。好男は映画のDVDを手にしていた。「オズの魔法使」というタイトルが見える。
「朝ご飯は? 食べ終わったの?」
 そういうママの問いに「あっ」という反応をしたあと、好男の顔がたちまちしぼんだ。のぞいてみると、確かに皿の上の様子はさっきとあまり変わりないようだ。
「……ごめんなさい、まだ。」
 そのしぼみ具合があまりにおかしくて、石橋の頬は思わずゆるんだ。
 ママも苦笑しつつ
「謝らなくていいわよ、ゆっくり食べながら観なさい。機械の動かしかた、わかる?」
「うん、わかる!」
 しぼんだ顔が今度はとたんに明るくなった。跳ねるようにテレビの前まで行くと、ぺたりと座り込んでプレイヤーにDVDをセットし始める。
T001

 そんな好男の後ろ姿を眺めながら、ママは石橋に言った。
「さて。あなたもひとっ風呂浴びてさっぱりして……と言いたいところだけど」
「うん」
「そのまま帰った方がいいわね」
「うん」
「着替えしてさっぱりした姿で朝帰りなんて、わたしが奥さんだったら家を出るわ」
「……もう、出てしまってるかもしれないよ」
 石橋の返事に、ママは声を出さずに笑う。
 昨夜すっかり参っていた石橋は、結局ホテルでの妻とのやりとりもママに告白してしまっていたのだ。ママは、笑いながら石橋のマグカップを受け取った。

「ねえ、遼ちゃん」
「うん?」
「できるだけ哀れな姿で家に帰るといいわ。そして謝る。ちゃんと言葉に出すのよ。自分が悪かったって言って、泣いて謝るの。おれには君たちしかいないって、君たちがいなくなったら自分は生きてゆけないって言うの」
 ママは、カップをもてあそぶようにしながらゆっくりと微笑む。
「人はよく言うじゃない。いつも他人に見せてる顔は本当の自分じゃないからとか。本当の自分を見つけたいとか。でもね、わたし思うんだけど、そういう場合の本当の自分って、ただ『他人にそういうふうに見せたい自分』ってだけなのよね。単に、自分がかぶりたい、ちょっといい別の仮面ってだけなの。結局、それだって本当の自分じゃないのよ」
 隣室で華やかにファンファーレが鳴る。、どうやら映画が始まったようだ。好男は無事にプレイヤーを操作することができたらしい。
「本当の自分はね、演じてるときに出るの。どうしようもないぐらいそこに真実が出るの。役者経験のある人間が言ってることだから、間違いない」
 演じなさい、とママは繰り返した。
「その先、どういう仮面をかぶるのかは、その人の自由ではあるけどね」

 エレベータに乗り込んだ石橋が開閉ボタンを押そうとしていると、「それから」と言ってママが部屋から追いかけてきた。
「よっちゃんとはもう会わないほうがいいわ。変な間違いが起こらないように」
 はっと顔を上げた石橋に、ママは「心配しないで」と笑って続けた。
「あの子の面倒はわたしがちゃんと見るから。あなたは、あなた自身のやるべきことを」
「舜介!」
 思わずママの名前を呼んだ石橋に、ママは明るく手を振った。
 ガシャンと音をたて、エレベータのドアが閉まった。

 * * *

 石橋はいつものように自宅の駐車スペースへ車を入れ、玄関へ向かった。
 引き戸をからりと開けると妻の瞳が、洗い物でもしていたのだろう、濡れた手をエプロンの裾でぬぐいながら出てきた。
 瞳は、石橋に負けないくらいに疲れた腫れぼったい顔をしていた。
 居間からは古い映画音楽が聞こえている。休日の朝にはいつもかけるCDだ。いま流れているのは『マイフェバリットシングス』。
 不意に、熱いものが胸の奥からこみ上げてきた。
「すまなかった」
 石橋は言った。
「おれが悪かった。おれが、間違ってた」
 許してくれ、そう言いながら石橋は肩を落とした。
 頭を下げたとたん、こらえきれずに石橋は嗚咽を漏らした。
「おれには君たちしかいない。君たちがいなくなったらおれは……生きてゆけない」
 その言葉は、まぎれもなく石橋の真実だった。
 妻も、娘も、この家も、ささやかな庭も、音楽も、身を包む何もかもが温かく、かけがえのないものだった。それに気付かないでいたことを彼はいまさら悔いた。自分は逃げているだけだった。家族に向き合おうと努力をしないで、目の前を見ないで遠くばかり見ていた。それをあらためて悔やむと、石橋は肩を震わせ泣いた。
 とんとんとんと足音がして、本を抱えた絵里が二階から下りてきた。

T019
「パパ?」
 そう言いながら玄関先まで来ると、不思議そうに石橋の顔を見る。
「絵里」
 石橋は、思わず絵里を手元まで引き寄せ、ぐっと抱きしめた。
「パパくさい。それにおひげが痛い」
 そっけなくそう言うと、彼女は石橋の腕をすり抜け居間へ駆け去ってしまった。
 呆然とする石橋に、瞳はうるんだ眼をして微笑んだ。
「だから言ったでしょ。いまちゃんと見ておかないと、女の子はすぐに口もきいてもらえない年頃になるのよ」
 そう言って石橋の上着を脱がせ、自分の腕にかける。
「ああ、スーツがぐしゃぐしゃ。明日にでもクリーニングに出さなくちゃね」
 石橋のために、いつものスリッパを並べた。
「あなたもお風呂に入ってさっぱりして、それからまた絵里を抱きしめてやってよ」

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見上げた空は 17 par.8

T020

 * * *  ≪ 17 ≫

【 parenthesis 8 ~堕ちる天使の情景~ 】

 秋から冬にかけて、石橋はやたらと忙しくなった。
 頓挫していた企画が見直され、切り口を変えて続行されることが決まった。その準備や何やかやで、まったくのところ映画に行く時間もなくなった。
 セントラルの経営権が別の人間に渡り、例の男とその両親までもが町を出たことは、ママから電話で聞いた。好男はちゃんと学校に通っているようだ。休日はどうやらママのマンションに入り浸っているらしい。
「うちにある映画のライブラリィを網羅しちゃったみたいでね。あれセット通販で買って損した~って思ってたけど、きっとこれで元は取れたわ」
 そう言いながらママは、受話器の向こうでけらけらと笑った。

 ママのほうからふたたび連絡があったのは十二月の初めだ。ちょうど出先近くの公園で、石橋は携帯電話をとった。
「クリスマス会をやろうと思うんだけど、今度の金曜日はヒマ?」
 いつにも増してはしゃいだ声だ。
「午後までちょっと用があるのよね。お店開けるのにも半端な時間だから、いっそのことお休みにして、三人でささやかにパーティなんかって。本番はあなたも家で過ごすでしょ。よっちゃんも施設でのイベントがあるそうなの。だから、今週末どう?」
「そんなこと言って。おれが、よっちゃんと会っていいのか?」
「三人だから間違いなんて起こりっこないでしょ。それにクリスマスだもの、ご褒美。よっちゃんにもあなたにも、わたしにも」
 擬似家族でいいでしょ、と笑う。
 金曜日の夜八時にママのマンションで、と約束をして電話を切ったところでふたたび携帯が鳴った。公衆電話からの着信だ。
「もしもし」
 石橋が応えると、受話器の向こうでためらう気配がある。
「よっちゃん、だね?」
 石橋は呼びかけた。ちょっと間を置いて「うん」と、小さな返事が返ってきた。

「こんにちは、ひさしぶりに声を聞くね。元気だった?」
「うん。……あのね、ママが今週の金曜日にクリスマス会をやろうって」
「ああ、たったいま聞いたよ」
「うん。……でね」
 いつも小さくためらいがちな好男の言葉を、ゆっくりと石橋は待った。
「あのねぼく、ママにプレゼントって、思って」
「うん」
「でも、何が好きかよくわかんなくて」
「そうか」
「あのね……おじさんなら、わかるかなって」
「わたしが、ママのプレゼントを選ぶってこと?」
「ん……はい」
 石橋は苦笑しながら応える。
「よっちゃんが自分で選んだほうがいいんじゃないかな。きっと何をあげてもママは喜んでくれるよ」
「あ……はい」
 そう返事をする好男の声が一気に沈んだのがわかり、石橋は柄にもなく慌てた。
「いいよいいよ。よっちゃん一緒にプレゼント選ぼう。時間や場所はどうしようか?」

 結局、クリスマス会の当日、金曜日の夕方六時半に国道沿いの『ジョイタウン』で待ち合わせをすることに決めた。  
 ジョイタウンは、映画館などのアミューズメントに大手チェーンホテルも隣接した巨大なショッピングモールだ。石橋も何度か好男と映画を観に通った。専門店もたくさんあるし、あそこなら結構いいものが見つかるだろう。
 電話を切った石橋は、なんだか心が弾んでいる自分に気付いた。
 きっと好男に会えるからだろう。「変な間違い」なんてママはこだわるが、まずそんな心配はない。二人でママへのプレゼントを選びママの家へ行く。それだけのことだ。
「それだけのことだ」。
 石橋は、確かめるようにつぶやいた。

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見上げた空は 18 par.9

T021

 * * *  ≪ 18 ≫

【 parenthesis 9 ~堕ちる天使の情景~ 】

 金曜日は、ひどく冷え込んだ。
 午後になって、石橋の会社にクライアントからの急なクレームが入った。先方とともに午後いっぱいは会議室に詰めなくてはならない。石橋は合間をみて愛光園に電話をした。職員の柴田が出て、好男はすでに出かけていると応えた。仕方なくママに電話をかけてみたが、携帯電話は留守電になっている。
 夕方六時半にジョイタウンで好男と約束をしているが、もしかしたら遅れるかもしれない。そのときは申しわけないが迎えに行ってくれ、とだけ伝言を入れ、石橋は会議室に籠った。

 会議が終わったのは結局、七時半を過ぎていた。まあなんとかパーティの時間には間に合いそうだ。タクシーに乗り行き先を告げたところで、ふたたびママに電話をする。
「あ~、イシバシちゃん? ごめ~ん遅くなっちゃった。わたしもいま帰ったとこで何の準備もしてないのよ。まあ、内輪だけだし料理は適当にいいわよね」
 やたら明るい声で応対するママに、石橋は思わず
「伝言、聞いてなかったのか?」
「……伝言? 聞いてないわ」
石橋の頭から、すっと血が引いた。「よっちゃんはそこにいないのか?」
「いないわよ。よっちゃんがいったいどうしたの?」
 問いかけるママに応えるのももどかしく、石橋は運転手に「ジョイタウンへ」と変更を告げた。

 クリスマスツリーの下で、と約束をしていた。
 ショッピングモール内の中央広場にはきらびやかなツリーが飾ってあり、その周囲にさまざまなプレゼント用の商品が展示されている。
 てっきりそこにいるものだと思ったのだが、好男は見つからなかった。ひとりで見てまわっているのかもしれない、と専門店街を探してみたがそこにもいない。八時で閉店する店が多いらしく、フロアには人影も少ない。
 ふと、屋外広場に面した大きな窓に目を移し、石橋は思わず立ち止まった。店内を反射した明るいガラス越しにイルミネーションが点滅していた。そびえ立つきらきらと美しい光。うかつなことに、ツリーが設置されていたのはモール内だけではなかった。屋外にも、こんなに大きなクリスマスツリーが立っていたのだ。
 夏は噴水が涼しく快適で、そこが待ちあわせの場所だった。好男はいつも中央の円形になった場所に座り込み、水辺で遊ぶ子どもたちを眺めていたりしていた。
「まさか……」石橋の心臓が、どきんとはね上がった。

 * * *

 広場は、寒さの中にしんと沈みこんでいた。
 中央に立つ大きなクリスマスツリーの下に、好男がいた。
 膝を抱えしゃがみ込んでいる。こちらに気付いて立とうとしたらしいが、ガチガチに固まったようすで、立ちあがることすら困難そうだ。
 石橋が駆けよると、しっかりと握りしめていた何かをさし出した。陶器でできた小さな天使の人形だった。頭上のツリーから落ちたものらしい。羽根の部分がちょっとだけ欠けている。

T005
「わたしに?」白い息を吐きながら、石橋は聞いた。
 好男の身体はふるえて声も出なかった。歯の根があわずにガチガチ音をたてているのがわかる。あろうことか彼の服装はシャツに薄いパーカが一枚だ。スニーカーの足は靴下さえ履いていない。
 柴田が言っていたことが、石橋の脳裏に浮かんだ。

「鈍感なんですよ、あの子」

「苦痛や不快感に対して麻痺しているんです。たとえば人が、暑い寒いとか空腹とか苦しいとか、そういう普通に持っている感覚が、あの子の場合は極端に鈍いんです」

 何か他のことに気を取られている時は気をつけないと、というのもあらためて意味がわかった。普通だったら暖かい屋内に入るなり、相手が来ないと思ったらさっさと移動するなり、その時に応じた判断ができるはずだ。なのに好男はこの寒い広場で、来るかもわからない相手を待ち続けていた。
「すまない」石橋は繰り返した。「すまない」。自分のコートを脱いで好男に着せかける。彼の肩をぎゅっと抱きながら周囲を見回した。
 好男の吐く息は白くならない。身体が冷えきって息が外気と変わらない温度にまで下がっているのだ。少しでも早く彼を温めなければならなかった。
 隣接のホテルに慌てて駆け込み、石橋はツインの部屋をとった。

 * * *

 バスタブに湯を張るのも、もどかしく感じた。
 半分ぐらい溜まったところで石橋は好男を中に入れさせ、彼の冷えきった背中に熱いシャワーを流しつづけた。
 さっきロビーで、照明にさらされた好男の顔色はまるで死人だった。
 好男はうつむいて、石橋に湯をかけられるがままになっている。彼の火傷の痕を石橋はしみじみ見た。記録では知っていたが目の当たりにしたのは初めてだ。身体のあちこちに他にも無数の古い傷があり、思わず石橋は唇を噛んだ。
 バスルームから出た石橋はルームサービスに「温かい飲み物を」と頼み、それからママに電話をした。詳しくは説明できないがよっちゃんを連れてホテルにいる、と伝えたあと、しばらく考え携帯の電源を落とした。
 ふと、好男からもらった天使の人形を思い出しコートのポケットを探る。見つけた人形を石橋はベッドサイドに置いた。ベッドに腰をかけてしばらく待つ。
 あまりにも静かだ。
「もしや、倒れているのでは」石橋の心臓が、またどきんとはね上がる。
 慌ててバスルームに入ると、好男は湯につかったまま頭をバスタブにもたげ、軽い寝息をたてていた。
「よっちゃん」
 石橋は、ほうっと息を吐いた。
「よっちゃん、ここで寝たら風邪ひくよ」
 目をさまさない。石橋は好男の顔に近づき、しみじみと眺めた。
 唇は薄いが、中央がめくれあがってじつに愛嬌のある形をしている。鼻筋は通り、くせのあるくるんとした前髪をかきあげると秀でた額がのぞく。意思の強そうなしっかりした眉とあいまって、もし愛情をもって育てられていれば、聡明な少年に成長しているだろうとうかがえた。

 ふと、好男が目をさました。
 石橋を正面からじっと見る。まるで心の奥を見透かすかのような視線だ。石橋がたまらなくなり目を逸らそうとしたとたん、好男の表情がゆがんだ。そしてその目からいくつも大粒の涙がこぼれ落ちた。
 次の瞬間、彼は大声で何かを訴えはじめた。あふれる湯がバスルームの床を濡らす。激しい嗚咽まじりで支離滅裂で、何を言っているのかまるでわからない。
「よっちゃん」
 石橋は彼の腕をつかんだ。好男が暴れる。湯が飛んで石橋のシャツもびしょ濡れになったがかまわなかった。そのまま好男のからだを強く抱きしめる。
 好男はしばらく荒い息をしていたが、やがてぽつりと言った。
「ごめんなさい」
 石橋は抱いた腕をはなし、ふたたび好男の顔を見た。
「よっちゃんが謝ることはない。悪いのはわたしだ」
「きらいになったんじゃ、ないの?」
「何で嫌いになるんだ」
「ぼくがずるいこと、考えたから」
「……ずるいこと?」

 説明にならない説明を、石橋は好男の口から根気強く聞きだした。「ママへのプレゼント」などというのは口実で、本当は、彼自身が石橋に会いたくて誘ったのだと石橋は悟った。
 なんて拙い、子どもじみた企てだ。それに対する罰があんなふうに寒さの中にひとり放っておくことなのだろうか。だとしたら神は、あまりにも彼に厳しすぎやしないか。

「悪いのはわたしだ。わたしが遅刻してしまった」
「きらいじゃない? ぼくをきらいになってない?」
 好男はしつこいくらいに、それだけを確かめようとする。
「嫌いになんか、なってないよ」
「ほんとう?」
 不意打ちだった。好男がいきなり抱きつきそのまま唇を石橋に押しあてる。床が滑り、石橋は思わず尻餅をついた。もう全身ずぶ濡れだ。石橋はバランスを整えようとあたふたしながら彼の身体に腕をまわす。なんてやせた細い背中なんだと思うと石橋は、胸がしめつけられるような気持ちになった。
 腕にぎゅっと力を込め、彼を抱きしめた。

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見上げた空は 19 par.10

T005

 * * *  ≪ 19 ≫

【 parenthesis 10 ~堕ちる天使の情景~ 】

 部屋に戻った。
 ベッドに腰かけたバスローブ姿の好男が、熱いミルクティを飲んでいるあいだに、石橋も濡れた服をバスローブに着替えた。
 携帯の電源を入れてみる。ママからの留守電が何件も入っていたが、内容の確認はせずにまた切った。
 窓辺に立つと、屋外広場が見下ろせた。あのクリスマスツリーの下に好男はいたのだと石橋は思った。ひやりと外の寒さがガラスから伝わってくる。窓の一部は結露のためか水滴で濡れ、曇っている。暗く窓ガラスに写る自分の顔。その肩越しに見えるのはちょこんとベッドに腰かけた好男の姿だ。

 ミルクティを飲み終えたらしい好男は、寝そべるようにしてベッドサイドのスイッチをあちこち興味ぶかげにいじっていた。照明が着いたり消えたり、また和らいだりするのが面白いようすだ。
「やっぱり駄目だ」石橋は、踵を返した。
「よっちゃん、帰ろう」
 好男はきょとんと石橋を見つめた。
 枕を両腕で抱えるようにして向き直り「するんじゃないの?」と言った。
 石橋が「何もしないよ」と応えながら差し出した、好男自身の服を見てまた聞いた。
「なんでしないの?」
「何でもなにも、それはいけないことなんだよ」
「おじさんは、ぼくがきらい?」
 石橋の腕にすがりついてきた。
「そうじゃない。さっきも言ったろう」
「ならしようよ。ねえ、しようよ」
 好男はバスローブがはだけるほど強い力で石橋の身体をゆさぶる。ねえしようよ、しようよ、ねえ。石橋は目をつぶり、それに辛抱強く耐えた。
「よっちゃん」
 ゆっくりと話しかける。
「わかるかい。自分をもっと大切にするんだ。そんなふうに簡単に、自分の身体を人に委ねちゃいけない」
「大切にしてる」好男が口早に言う。「こうしたらみんなぼくを好きって言ってくれる」
「それは、本当に大切にしてるのとは違うんだ」
「だったらなに」
「だから……」
 石橋が応えようとすると、好男はふたたび「おじさんは、ぼくがきらい?」と聞いた。きりのない堂々めぐり。どうしてこんなになるんだ。石橋は深くため息をついた。
「よっちゃん、とにかく今夜は帰ろう。ママの家はまたあらためて行こう。服を着なさい。ちゃんとこれから施設まで送り届けるから」
 好男の顔がこわばった。
「ひとを荷物みたいにいうな!」いきなり石橋の腕から衣類を奪いとりベッドに立ちあがった。
「じぶんで帰ります」
 そう叫んで石橋と反対側に跳びおりる。ドアに向かおうとしたが、バスローブの裾でも踏んだらしくもんどり打って転び、そのまま床にばたりと倒れた。
「よっちゃん」
「来るな!」好男が叫ぶ。駆けより抱き起こそうとした石橋の頬に鋭い痛みが走った。
 頬に手をあてると血が出ていた。いつのまにか好男の手には、さっき石橋がサイドボードに置いた天使の人形が握られている。
「いったいぼくを、何だと思ってんだよ」
 手当たり次第に衣類を投げつけ、石橋をぼかぼかと叩いた。
「映画の券なんか、くれなきゃよかったんだ。声もかけてくれなきゃよかった。最初から、何もかまわないでくれたほうがましだった」
 好男は泣いて叫んだ。
「なんでそんな、そんな中途半端に……」
 中途半端。
 その言葉が、石橋の心を鋭く刺した。

 * * *

 石橋のいちばん幼い記憶は、自分を殴りつける父親の顔だ。
 夫から逃れることを決意した母親は、幼い石橋を連れて家を出た。あちこちを転々として暮らした。自分勝手で暴力的なあの男がいつ追ってくるかとひと時も休まることがなかった。ひっそりと母子で息をひそめ生きる日々が続いた。
 石橋にとって好男はもうひとりの自分でもあった。もし母親が自分をかばわなかったら、自分を連れて家を出なかったら、石橋自身が好男のようになっていたかもしれなかった。
 成長する中でいつの間にか石橋は、自分を助けてくれた母親を何よりも幸せにすることが、自分の義務だと考えるようになっていた。

 社会人としてはきっと成功したほうだろう。好きな仕事に恵まれ経済的にもゆとりを持てた。暖かい家庭を築いて可愛い孫の顔だって見せた。石橋は充分に満足していた。していたつもりだった。
 いったい何がきっかけだったのか自分でも記憶にない。ずっと隠し通していたことなのに、ある日、石橋はつい母親に告白してしまったのだ。
 自分は、男を愛する人間なのだ、と。
 それに対する母親の反応もじつをいうと憶えていない。だが彼女が病に倒れたのは、それからいくらも経たないうちだった。

 母親の健康状態と、自分の発言とは何の因果関係もないはずだ。しかし石橋は恐れた。自分のせいで彼女の心のバランスが崩れてしまったのではないかと気に病んだ。母親に会うのが怖かった。意識が混濁した姿を見ては、自分が彼女をこんなふうにしてしまったのではないかと考え、覚醒しているときには、彼女に何か言われるのではないかと思った。
 家庭にいるのもまた怖かった。妻にも娘にもまともに向き合えなかった。自分がいつか自分の父親のようになるかもしれないという恐れが石橋をそうさせた。
 こんなはずじゃなかった。何のためにいままでがんばってきた。人もうらやむような幸せな家庭を作りたかった。そして母親にそれを見て欲しかった。だから舜介とのことだってあきらめたのだ。

 舜介。
 あいつだって傷ついたはずだ。なのにずっと変わらない態度でいてくれた。自分はそれをいいことに、ずっと我儘放題だった。
 好男の言うとおり、自分はずっと中途半端だったのだ。
 自分が傷つきたくないばかりに、物ごとを正面から見ようとせずそこから逃げているだけだった。そうやって自分は、これまで大切な人々をすべて傷つけてきたのだ。それは忌み嫌っているはずの自分の父親とまるで同じ姿に思えた。
 今度こそ逃げるまい。
 石橋は涙でぼやけた目で少年を見つめた。好男はかすかにしゃくり上げながら、感情の波が途切れたように放心している。
「好きだ」
 好男の耳もとで言った。
「うそだよ」好男がつぶやく。
「うそじゃない」
 愛している。耳もとでそう何度もささやいた。
 それはまぎれもなく、石橋の真実の言葉だった

 あのときからすでに石橋は魅了されていたのだ。映画館の暗がりで彼を初めて見た。そして日差しの眩しいグラウンドでふたたび彼を見つけた。それらはまるで光と影の織りなす美しい幻だった。石橋はいつのまにかその情景に身も心も囚われていたのだ。
 好男のやわらかな髪をなで頬についた涙をぬぐった。彼の吐息が自分の頬に触れると、心が悦びで密かに震えた。石橋はそのまま好男を自分の唇へ誘い、やがてゆっくりと肌を合わせた。

 長い時間をかけて石橋は好男を愛した。
 悦びの反面、どこかで石橋は気付いていた。これが地獄の始まりかもしれないことを。
 だが、堕ちてしまった子を救うには、自分もまたそこへ堕ちなければならない。

 とことん、堕ちてみせよう。

Tc0301
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見上げた空は 20

T030

 * * *  ≪ 20 ≫

 年末年始を、特急とローカル線を乗りついで三時間ほどのところにある実家に帰って過ごした。
 結婚してる兄ちゃんが家族を連れて帰ってきて、その甥っ子姪っ子の相手をしたほかは、まさに食って寝てテレビ見て食って寝てテレビ見ての生活だった。
 朝からゴロゴロしてたら、姉ちゃんから「このトド野郎」と悪態をつかれた。
「せっかく共学の大学に入ったんだから、かわいい彼女ぐらい連れてくるかなって思ってたのにこのありさまだもん。それともひょっとして賢太、彼女できたけどフラれたとか? 失恋しちゃったとか?」
 姉ちゃんに思いきり座布団を投げつけて、そんでまたゴロゴロしながら思った。
 そっか失恋か、失恋、そうかもな。
 あのあと結局、診療代を払うことにはならなかった。石橋さんが病院に強く言っていたらしい。これで心情的にはおれの完全な敗北宣言。同性の同級生に恋して、ライバルの中年親父に惨敗。大山賢太、サイテーの初恋だ。笑っちゃうよ、まったく。
 そうだ、ついでに思い出の場所に行って、失恋の感傷に浸ってみるのもいいな。

 さっそく自転車を引っぱり出した。出かけたのは近所の小さな人工湖だ。おれが小さい頃から近隣の水源地として使われている。湖の東岸はきれいな道路が通り、車も走るようになっているけれど、まっすぐにおれが向かったのは西岸だった。
 浄水場の手前で自転車を降りて停める。長いコンクリートの橋を渡り、鉄製の階段を下りて広葉樹の林に踏みこんだ。土と落ち葉のふかっとした感触がスニーカーの裏に心地よかった。
 木立の奥から枯れた鳥の声がする。
 対岸の方には新しい住宅地もできて、ずいぶん開発されてしまったようだけど、こちら側はちっとも変わってなかった。水岸に沿ってしばらく歩くと高い金網のフェンスが行く手を遮っている。フェンスには「立入禁止」の看板がかけられていた。
 おれはフェンスに沿うようにして、林の奥の方へまた歩いた。登り勾配の途中に見憶えのある小岩があった。屈みこんでその根元のあたりを探る。
「あった」
 思わず口をついて出た。金網が錆びてほころび、小さな子どもが通り抜けられるぐらいの穴が開いていた。当時おれだけが知ってた秘密の抜け穴だった。子どもの頃おれは、よくここを抜けてこっそり林の中に入り、探検ごっこをして遊んだんだ。
 中学時代にもう一度入ろうとしたけど、その時にはすでに無理だった。以来あきらめてすっかり来なくなっていた。だけど、その入り口だけは昔と同じに残っていた。
 あらためて見ると、その穴は信じられないくらいに小さかった。よく入ったもんだとしみじみ思った。特に人一倍でかい図体になってしまったいまでは、片足を入れるのもやっとのような気がする。その逆といっちゃなんだが、フェンスの上の方がかえって軽々と乗り越えられそうだった。
 でも「入るなと言われた場所に立ち入らない」ぐらいの分別は、ちゃんとついたつもりだ。……ああ、何だかんだいって引きずってるよなあ、おれ。

 フェンス沿いにゆっくりと湖の岸辺へ戻る。身体を丸めてしゃがみ、静かな水面をじっと眺めた。
  いろいろ考えて、映画研究部をやめるのはやっぱりなしにした。そのかわり、おれも何も聞いてないことにして、ただの「部活の友だち」でいることにした。
 よっちゃんにあのイブの記憶がないのなら、かえって好都合だった。何もなかったと調子を合わせて、これまでみたいに下らないバカ話をしたり遊んだりして、そうやって大学の四年間を、うんと楽しく愉快に過ごそうと考えていた。それが一番、よっちゃんのためだと思った。
 雲の流れが早かった。天気予報ではのちに雪となっていたはずだ。厚めの雲のあいだから時おりさっと陽が射した。風が吹くとその光が、なめらかな湖面にきらきらと反射した。たまに対岸を行く車の姿が、遠く木立越しに見える。
 とても静かだった。
 考えたっけ、中学の頃だ。大切な子ができたら一緒にここへ来る。そして言う。「おれの一番好きな場所なんだ」って。でもって、自分の秘密を打ちあけるんだ。
 ああ、甘ったるい話だなあ。自分で考えたことだけど思い出すと身がよじれる。クサい青春映画のワンシーンだ。

 そういえば、そんなふうに想像するのが好きだった。いま思うと子どもじみた妄想にしかすぎなくて、まるで遊びだったけど、ちゃんとそれなりにコンテとか考えて、脚本らしきものも作ったことがある。当然のごとくとん挫したけど。
 ふと気づいて、つぶやいた。
「……映画?」
 おれは慌てて立ち上がり叫んだ。
「そうだ映画。映画だ!」
 何てこったい、忘れるとこだった。足もとの落ち葉をけ散らすように走った。音をたてて階段を駆け上がり橋を渡り、自転車に飛び乗ると全速力で家に戻った。
「おれ、これから帰るから!」
 呆気にとられる母ちゃんたちを尻目に、慌ただしく荷物をカバンに詰めこみ、再びとび出した。列車の連絡がうまくいけば明るいうちに向こうに着く。まっすぐ部室に行って黒木に会おう。あいつの知識は必ず役立つし、そもそもの言い出しっぺはあいつだし。そしておれが何よりも、よっちゃんのためにできる一番のことはこれだったんだし。
 よっちゃんに会ったら、まずこう言おう。
「よっちゃんで、映画を撮りたい」って。

Tc0207
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見上げた空は 21

T032

 * * *  ≪ 21 ≫

 おれが、特急列車の中で走りだしたい衝動と闘っているあいだに、空はどんよりと厚い雲に変わった。小雪もちらつき始めていた。
 荷物を肩にかけたまま駅からひたすら走って、やっと学校にたどり着いた。冬休みのキャンパスだからあまりひと気もない。はあはあと荒く息を吐きながらふと見ると、中庭の向こうから黒ずくめの男が近づいてくる。グッドタイミング、黒木だ!
「おおい! 黒木、黒木!」
 おれはその場でやつをつかまえ、新年の挨拶もそこそこに、自分のプランを黒木に対してまくし立てた。
 黒木は「わかった、わかったよ大山。でもさ」と、黒縁メガネの真ん中を指でくいっと押し上げる。
「水村って、学校やめるんじゃないのか?」
「……へっ?」
 おれは、きょとんとした。
「ついさっき部室へ来て、そんなふうなこと、おれには言ったぞ。大山、聞いてないのか?」
「聞いてないよ! そんで……そんで黒木おまえ、何て応えたんだよ」
「そうかって」
 思わず「それだけかよ!」と叫んだ。
「友だちなら、そんなの止めるべきだろ?」
「だって他人の事情じゃないか。そんなに深くは聞けないよ」
「でも、事情わかんなくたって、力になりたいって思うだろう。何かできないかって思わないのかよ?」
 黒木が、もどかしそうに髪をかき上げた。
「だから大山、お前に聞いたんだろうが。本人に聞けないから。まさか、お前が知らないなんて……」
 おれは踵を返した。後ろから黒木の声が聞こえたけど無視した。おれは大学じゅうを走りまわってよっちゃんを探した。生協に学食、図書館、いろんなとこに行ってみたけど当然まだ休みで、もちろんよっちゃんの姿もない。家かもしれないと考えてまた走った。

 アパートの、共同になった玄関で靴を脱ぎ捨て、建てつけの悪い階段をどすどす上がって、端にあるよっちゃんの部屋のドアを叩いた。
「よっちゃん、よっちゃん!」
 ドアノブを回すとカギがかかっていない。開けようとドアを引いたとたん、よっちゃんが反対側のノブにしがみついたまま、廊下にぽろりと転がり出てきた。
「ダメーッ」そんでもって、慌ててまたドアを引き戻そうとするから、おれも必死に引っぱった。
「よっちゃん、よっちゃんてば!」
 騒ぎを聞きつけたのか、隣のドアから留学生の李さんが「ヨッチャン、ドーシマシタカ」と顔を出した。
「ううん、何でも……」
 よっちゃんがそう言って気を取られたすきに、おれはドアを力ずくで引っぱり、無理やり室内に入りこんだ。
 おれは、はあはあと息をしながら、八畳ひと間に流しのついた小さな部屋を見まわす。室内は雑然としていた。

 よっちゃんがいつも勉強机がわりにしているデコラ板の小さなテーブルは、年季の入った収納ボックスに立てかけられ、ボックスに入っていた教科書や参考書が、ひもをかけてその横に積まれてあった。本の上にはハムスターのケージが乗っている。うにたんは巣箱の中で寝ているようだった。そしておれのすぐ目の前には、ミカンだの何だのと印刷された段ボール箱が積まれ、衣類などが無造作に入れられていた。
「……よっちゃん、どしたのこれ」
「引っ越し」
 ドアのところに力なく立って、よっちゃんはうつむいたまま言った。
「引っ越しって、どういうことだよ!」つい声がでかくなる。「それに学校やめるって、いったいどういうことなんだよ!」
 よっちゃんは、消え入りそうな声で応えた。
「県外にね、住みこみで工場なんかたくさんあるから。だから、そういうところに行こうかって、考えて……」
 段ボールの横に、無料の求人雑誌がいくつか重ねてあるのが見える。
「だって勉強はどうすんだよ。よっちゃんいまの学校、勉強したくて入ったんだろ?」
 無遅刻無欠席なんてこと、そうそうできるもんじゃない。よっちゃんの勉強熱心さは、みんながよくわかってる。

「……でも、本当なら、そういうはずだったんだ」
 よっちゃんは部屋の中まで戻り、ゆっくりと荷造りの続きを始めた。
「上の学校なんて到底、来れるはずなかった。本当ならぼくはひとりで社会に出て、ひとりで何とかして食べてかなきゃならない人間だった。だから」
 いまからそれに戻るだけだよ。学校もやめて。おじさんとのこともやめて。
 つぶやくように、よっちゃんは言った。
「石橋さんには?」
 おれが聞くと、首を横に振る。
「何で言わないんだよ。大事なことだろ?」
「だって……おじさんに悪い」
「どっちが悪いんだよ!」
 思わず声を荒げた。よっちゃんがびくっと震える。おれはかまわず続けた。
「あんなによっちゃんのこと心配して、深く愛してくれてる人なんて、他にいないじゃん。その人に理由も言わないで、黙って遠くに行っちゃうなんてそりゃないだろ。ちゃんと学校通ってちゃんと卒業して、あの人の気持ちに応えなきゃなんないのに!」
 あれ。……おれいつのまにか石橋さんのカタ持ってるし。
「それに……それによっちゃん。おれたちこれから、まじに映画を作るんだぜ?」
 その言葉に、よっちゃんの黒い瞳が大きく見開いた。
「……えい、が」
「そうだよ! 作るんだよこれからまじで。映画研究部で。もうストーリーの原案も練ったから脚本はすぐにできる。よっちゃんが、主演やるんだよ!」
 おれは、もう必死だった。
「あれをベースにした話にするんだよ、よっちゃん。以前おれこの部屋で言ったろ。おれ宇宙人に会ったことあるんだって」
 そうだ、あの春の夜だ。この部屋で初めておれは、他人に自分の秘密を話した。
「おれ、宇宙人に会ったことあるんだぜ」
 ……って。

 * * *

「よっちゃん。おれ、宇宙人に会ったことあるんだぜ」
「すんげー、いつ?」
「六歳んとき。近所に小さい水源地があって、休みの朝に探検に行ったんだ。おれしか知らない秘密の入り口があってさ。中に入って遊んでたら、遠くからなんか光る皿みたいのがヒューンって飛んできて」
「大山くんの、近くまで、来たの?」
「うん、すっげえ近くまで来た。じっと見てたら、アンテナみたいなのがピューッて出て」
「ピュー」
「んで、そのUFOの真ん中から、今度は光がサーッっておれに降りてきて」
「サーッ」
「で、おれ持ち上げられちゃったんだ。UFOの中には宇宙人がいて、そいつらがおれに話しかけてたのは憶えてる」
「うわー」
「うちではおれがいなくなったってみんな探してて、その日の夕方に、反対側の岸の林でおれが倒れてたのを、兄ちゃんが見つけたんだって」
「よかったねえ、大山くん」

「うん。……でね、二回目もあるんだ」
「ええっ、二回目?」
「中二の時に、サッカーゴールが倒れてきてケガしたって、おれ前に言ったじゃん」
「ウンウン、聞いた」
「そん時だよ。本当は脳みそんとこにすっごい血の塊ができて、それが手術もできないところで。おれ、もう絶対死ぬって、医者から宣告されたんだって」
「ええーっ?」
「だけど、眠ってたおれの夢の中に、その時の宇宙人があらわれて言ったんだ。『オマエハ追跡対象ダカラ、死シナセルワケニイカナイ』って」
「ツイセキタイショーって、何?」
「ほら、渡り鳥とかクジラとかに発信機をつけて放して、行方を調査するやつがあるじゃん。あれかなって思ってるんだけど」
「あっ、きっとそれだね」
「そいつが手をかざして、おれの頭の中にあったものすごい血の塊をピューッて取ってっちゃったんだ」
「よかったねえ、大山くん」

「でねその時、こんな事故がまたあっちゃ困るからって宇宙人がおれに言ったんだ。『コノぱわーヲ、オマエニモ使エルヨウニ、シテオイテヤロウ』って」
「えっ、パワーを?」
「うん。だからさ、おれのこの手には、その時に宇宙人から授かった癒しのパワーがあるんだ。おれがこうして手を当てて気持ちを集中させると、ケガをした傷はたちどころに治るし、痛みだってすぐに消えてしまう」
「……うん」
「だからうにたんもさ、あした病院に連れていくまで、おれが一晩じゅうこうやって、ずっと両手で包んでいてやるから。よっちゃんは心配しないで。こんな足のケガなんか、おれの力があればすぐに治っちゃうよ」
「うん」
「安心していいから、ね。よっちゃん」
「うん」

「…………」
「…………」
「…………」
「……ね、大山くん」
「……ん?」
「うにたん、だいぶおとなしくなってるね」
「……うん」
「きっと、痛みが消えたんだよね」
「うん」
「みんな、大山くんのおかげだよね」
「…………ん」
「ありがとう、ありがとう大山くん。ありがとう」

 * * *

 あのサッカーゴール事故のあと昏睡状態からさめて、おれはすぐ父ちゃんや母ちゃんや兄ちゃんや姉ちゃんに「パワーを宇宙人から授かった」って話した。でも、夢を見たんだろうって笑われた。
 新学期になってから、友だちにも話してみた。なら試してみろよって言われて試してみたけど、なぜかその時はうまくいかなかった。次にやってもうまくいかなかった。何回やってみても、うまくいかなかった。
 おれはうそつき呼ばわりされた。クラスのみんなが口をきいてくれなくなった。おれの靴や教科書は汚され捨てられた。
 父ちゃんからは、お前が考えなしにバカなことを言うからだって叱られた。なんだかひどい耳鳴りが続いた。おれは自分の部屋から出られなくなった。兄ちゃんや姉ちゃんも、おれには妙にぎこちない態度をとった。一日のほとんどをひとりで過ごした。ひとりで空想の世界に逃げて過ごした。長い時間そうして暮らした。おれはカウンセラーって人のとこに連れていかれた。母ちゃんが泣いた。
 おれは、もうそのことを人に言うのをきっぱりやめた。いつのまにか耳鳴りも治まった。そして、あれはほんとに夢だったんだと思うことにして、まるで何にもなかったように、なかったつもりで数年間を普通に過ごした。
 そうやっておれは、おれの秘密をずっと心の中に封印して生きてくんだなって。そんなふうにずっと思ってた。

 だけど、その封印を解いたのがよっちゃんだった。よっちゃんだけがおれの話をちゃんと聞いてくれた。よっちゃんだけがすごいって言ってくれた。よっちゃんだけがおれの力を信じてくれた。
 よっちゃんが、おれの心を開いてくれた。

 * * *

「その宇宙人ってのがさ、実はサンタクロースの正体で、世界じゅうの人に、いろんなものを信じることの大切さを伝えていくって話なんだ。そんなサンタクロースにぴったりな配役がよっちゃんなんだから、監督のおれさまとしては、いまよっちゃんに学校やめられちゃ困るんだよ!」
 実はそんな原案なんて全然なかった。ほとんど考えなしの口から出まかせだった。けどとにかく、おれは必死だった。
 離れるのはイヤだよ。ただの友だちでいいからよっちゃんと一緒にいたいよ。本当はそう言いたかった。そう言って泣いてすがりつきたかった。そうだよ、「大切な子に」なんて思ってたあの話って、おれ、とっくの昔によっちゃんに打ちあけちゃってたんだ。

T008

「でも……おじさんに悪い」
 よっちゃんがまた首を振る。ああ、もう堂々めぐりだ。
「だから、さっきも言ったろう。黙って遠くに行くのと、どっちが悪いんだよって!」
 おれはよっちゃんにつめ寄った。
「そもそもやめたい理由って何なんだよ。石橋さんの……家族のこと?」
 よっちゃんは、かぶりを振った。
「映画館の前で会った……あいつら?」
 またかぶりを振った。
「いったい、何なんだよ。応えろよ」
 よっちゃんはおれの腕をすり抜け、がっくり崩れ落ちるようにその場に座りこんだ。
「……大山くん」
 つぶやくみたいに、よっちゃんが言う。
「え、何?」思わず聞きかえした。
 よっちゃんは、消え入るような声で
「だから、……理由」
「へっ?」
 お、おれ?
 思わずしゃがんで、よっちゃんの顔を覗きこんだ。おれの身体を押しやるようにしたよっちゃんの顔は、ゆがんでいまにも泣きそうだった。
「大山くんは」大きく鼻をすすり上げる。「イブの夜、何もなかったことにできる?」
 おれの声が、思わず掠れた。
「よっちゃん。もしかして……あの夜のこと、憶えてるの? 忘れてないの?」
 よっちゃんは、小さくうなずいた。
「必死で、忘れたふりをしてただけ」
 泣きそうな顔でかすかに笑う。
「これまでのぼくだったら、忘れるなんて簡単にできたからね。イヤなこととかつらいこととか痛いこととか、全部リセットしちゃって。それでこれまでうまくやってこれたから。だから、あの夜のことも忘れてしまおうと思った。……だけど」
 おれの心臓が鳴った。
「あの時、大山くんの部屋で大山くん言ってくれたよね。それにぼくが応えたよね。あれが、ずっと記憶から消えない」

「おれが何とかするから」

「大山くん、ぼくとセックスする?」

「おれは、おれはそういうつもりで言ったんじゃ……」

「そういうつもりじゃないの? 何とかって」

 よっちゃんは「あれさえ消えてくれれば、ぼくはよかったんだ」と、小さくつぶやいた。おれだってもう口から心臓が飛び出そうだった。しどろもどろで言った。
「でも、でもあれはおれが悪いんだよ、おれがはずみで言っちゃったから、よっちゃんはそれにつられただけで、はずみなんだから。だから……」
「ぼくは、本気で言ったよ」
「へっ?」思わず、耳を疑う。
「はずみだけど、本気だった」
 よっちゃんは顔を上げ、黒く濡れた瞳でおれを見た。
「ずっと前から思ってた。でもさ、やっぱりさ、友だちにこんなこと感じるなんて、ぼくおかしいよね。普通の人ならおかしいって思うよね。だから、それだけは絶対に気づかれないようにって気をつけてたのに、あの夜、大山くんがあんなふうに言ってくれたから、つい……」
 よっちゃんの眼から、ぽろぽろと涙がこぼれだした。
「もう、気持ちが止められない。このまま大山くんと一緒にいると、自分がどうにかなっちゃいそうなんだよ。だってぼくにはおじさんが、いるのに……」
 思わずおれは、よっちゃんの肩を両手でつかんだ。
「だから、おじさんに悪いって?」
 うん、とよっちゃんはうなずいた。
「このままだと、ウソをつき続けなくちゃなんない。大山くんにも、おじさんにも。自分にも」
「だから、学校をやめるって。ひとりで遠くに行くって?」
 よっちゃんはまた、うん、とうなずいた。そしてつぶやくように喋り続けた。
「忘れてしまいたい。全部、忘れてしまいたいんだ。遠く離れてしまえば、なかったことにできるから。時間が経てば忘れてしまえるから。声も顔も見なきゃ、忘れてしまえるから。全部、記憶の中から捨ててしま……」
 おれは強くよっちゃんの肩を引きよせ、その唇をおれのでっかい口でふさいだ。
 息の続くかぎり、そうしていた。

 力を抜いて唇を離すと、よっちゃんが戸惑ったようにおれを見た。
「……大山く……?」
 おれは立ち上がり肩にかけていたカバンをどすんと下ろした。マフラーをとり上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンをはずながら言った。
「おれいまから、よっちゃんとやるから」
「え?」
 よっちゃんは、きょとんとした。
「おれと、セックスしよう」
 靴下を脱いでぽいと放った。ズボンのベルトに手をかける。よっちゃんが、また不思議そうにおれの名を呼んだ。
「……大山くん?」
「忘れさせるもんかよ!」
 おれは、中途半端に脱ぎ散らかしたおかしな格好で叫んだ。
「よっちゃんバカだよ。そんな下らないことで人生を棒に振るなんて何考えてんだよ。四年間がんばったことをムダにするわけ? おれひとりのためにムダにするわけ? おれそんなのイヤだよ。せっかくみんなの力を借りてここまで来れたんじゃん。ちゃんと自分の力で来たんじゃん。ひどい目に会っても生きてきたんじゃん。そりゃ生きてりゃつらい目には会う、そんな時には誰でも逃げたいって思うよ。けどそこで逃げちゃダメなんだよ。いくらごまかしたって自分でわかるだろ、どこにも逃げられないってことは」
「でも、ぼくは強くない」
 よっちゃんは、首を横に振った。
「強くなくない!」
 おれも首を横に振った。
「人は、自分で思ってるより弱くない。よっちゃんはちゃんと強くなってるはずだよ。自分の力で現実と向き合えるはずなんだ。それなのにそれにも気づかずに、いまよっちゃんは現実から逃げようとしてる」
 おれだってさっきまで同じだった。自分の気持ちをごまかして無理やり納得させて、それでものごとを安易にすまそうとしてた。おれは、おれ自身にも言いきかせているつもりだった。座って、よっちゃんの肩を両手で強く抱いた。よっちゃんはおれを見た。よっちゃんの黒い瞳におれが映る。

「だから、忘れさせない」
「……でも」
「一回きりだ。確かめるためだ」
 ギリギリの選択だった。
「そう、石橋さんには悪いけど。ただ自分たちがちゃんと前を向いていけるように、逃げださないためにやるんだ。だから心配することはない。それに、よっちゃんひとりじゃない。大丈夫だよ、おれがいるから」
 ああおれ、我ながらいいこと言うよなあ。
 ……こんなにズボンの前を突っぱらかせて言うセリフじゃないけど。

 よっちゃんは、しばらく黙ったあと
「わかった」
 そう、応えた。応えてニッコリ笑った。
 おれたちは、また長いキスをした。
 あれだけの口上をえらそうに述べておきながら、おれ実をいうと心配があった。どうしようか迷ったすえ、「あのさ、よっちゃん」と切り出した。
「ん?」よっちゃんが優しく首をかしげる。
 おれは、思いきって言った。
「おれさ……やりかたが、よくわからない」

Tc0209
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見上げた空は 22

T033

 * * *  ≪ 22 ≫

  よっちゃんは、おれの言葉を聞くとしばらく絶句した。そしてぷーっと吹きだした。
「大丈夫」笑いながら言った。「ぼくが、何とかするから」
 散らかった部屋の真ん中あたりを無理やり寄せて広げ、押入れから布団を取りだそうと奮闘した。やたらハイな気分になって、二人ともゲラゲラ笑った。
 襖が、段ボールに引っかかり開かなくて、結局そのすき間から引っぱり出せたのは、古い毛布が一枚だった。
 仕方ないからそれを畳の上にじかに敷いた。その上に座りまたキスをする。
 おれは、よっちゃんのシャツを脱がせた。
 見るとよっちゃんの身体には、背中のほかに、腕やわき腹のあたりにも傷がたくさんあった。おれはその傷あとをひとつひとつ手でなぞった。
「よっちゃん、これって……」
「古いものだから」
 よっちゃんは、そう言って微笑んだ。
 かすかに上下する胸に手を当てる。よっちゃんが、ほうっという息をついた。
「ドキドキしてるね」
「うん、ドキドキしてる」
 ゆっくり手を下の方に持っていく。ジッパーに手をかけた。よっちゃんが腰を浮かせたので、そのまま一気に降ろし下着ごと剥ぎとる。細くて白い身体がすべて露わになった。よっちゃんの、柔らかな体毛に囲まれたその芯の部分もすでに息づいていた。
 おれが何かやたら感動してるあいだに、よっちゃんはおれのアンダーシャツと、中途半端に穿いていたデニムを必死で脱がそうとしてたから、慌てておれも脱いだ。焦ってズボンの片っぽがかかとに引っかかる。もがいているとよっちゃんが笑いながら手伝ってくれた。おれたちはそのままゆっくりと身体を寄せ横たわった。

 息をひそめ、しばらく互いをまさぐりあう。
「よっちゃん、柔らかい」
「大山くん、あったかいよ」
 そんなこと互いに口にしながら、すっげえ幸せな気分に浸ってたら、よっちゃんが急に、身体をするりと滑らせるようにして、おれの前に屈みこんだ。
「え、えっ?」
 戸惑うおれに、よっちゃんはこっちの顔を見上げ、ニッコリ笑った。
 うわあ、よ……よっちゃん、まじ?
 あ、よっちゃん、そ、そんな。そそ、そんな。
 そ……

 想像以上。

 思わず腰が浮き「は、んッ」と、はしたない声が出た。おれの下腹部の欲情を、淫らな温もりが包みこんでいる。よっちゃんの茶色い髪の毛がおれの腹の上にあるのが見える。
 先端からたちまち湧きだす滴を、愛しく舐めとるかのように舌をからめながら、よっちゃんは添えた手を動かした。まるで人の敏感な部分を知りつくしているかのようなよっちゃんの手が、舌が、容赦なくおれを絶頂へと追いこむ。
「ああ、よっちゃん、……よっちゃん、よっちゃん、よっちゃん」
 ああもうダメ、我慢できない。よっちゃんの髪の毛を慌てて必死でつかんだ。顔を起こそうとしたけど間にあわず、おれの放った飛沫は、よっちゃんの口に溢れてしまった。
「ご……ごめんっ。よっちゃんごめんっ」
 慌てふためきながらおれが言うと、よっちゃんはゆっくりと顔を上げた。

 暮れかけた窓からの光が、よっちゃんの顔に影を作っている。よっちゃんは眼を閉じ、口に含んだおれのものを、唇の端から静かに手のひらにこぼす。白い液が指のあいだから滴り、腕に伝わって流れた。
 手を濡らしたまま、よっちゃんは残りの液体を嚥下した。こくり、と白い喉が動く。それを見たとたん、いま果てたばかりのおれの分身は再びいきり立った。
「大山くんの、これを使うね」
 よっちゃんが、濡らした手を自分の後ろに持っていく。
「な、何すんの?」と、おれが聞くと
「あのね、女の人みたいには……濡れないから、こういうのが必要なんだ。これ、使うね」
 そう言って反対の手でおれを引っぱる。おれの手は、よっちゃんの濡れた手とからみ合った。そのまま導かれるように、よっちゃんのまだ固い蕾へ。
「わかる? ここを、柔らかくして」
「あ、うん」
 心地よい感触だった。よっちゃんの秘められた箇所が、いま自分の放った液体にまみれて濡れている。そう思うと、おれの身体もますます熱さを増した。
 からめたよっちゃんの指が、おれの中指をぎゅっとそこへ押しこんだ。一瞬、驚いたけど、すぐにおれをリードしてくれてるんだと気づいた。おれのために半ば強引に進んでくれるよっちゃんが頼もしい半面、これまでよっちゃんがどんな体験をしてきたか、それがかいま見えるような気がして少し切なかった。

 そろそろと奥までいってみる。きゅっと固く狭い部分を過ぎるとすぐに、とても柔らかな、からみつくような感触。よっちゃんの深い部分の体温が、指先に直接伝わってくる。
 奥をそっと探ってみた。
「あ、ン」
 よっちゃんが、甘く声をもらす。
「おー」と思いそのまま、ゆっくりと大きめに動かしてみた。よっちゃんの前の方のがぴくんとはねた。また動かすと、再びかわいくぴくんとはねた。また動かすとはねた。もう一回動かすとまたはねた。
「大山くん、面白がってるでしょ」
 よっちゃんが、ついにおれの頭をぺしゃりと叩いた。……前々から思ってたけど、よっちゃんっておれには、なんかやたら乱暴なんだよなあ。
「ここ、気持ちいいの?」
 指を動かしながらおれが聞くとよっちゃんは、うん、うん、とくり返しうなずいた。
 やがて、いまかわいくぴくんとはねていた先から、透明な蜜の滴がみるみるうちに溢れてくる。よっちゃんの呼吸もしだいに、乱れた感じに変わってきた。
 さっき、よっちゃん「女の人みたいには」なんて表現していたけど、おれがやたら触りまくっているうちに、よっちゃんのその部分は何だか熱を帯び、潤いも増してきたような気がおれはした。まるで花の蕾がほころぶように、柔らかく膨らみ始めている。すでに下っ腹でおれの分身もはちきれそうだった。
「よっちゃん、入ってもいい?」

 仰向けのよっちゃんの中心に、ゆっくりとおれのをあてがった。下半身をうずめるように進もうとすると、よっちゃんは少しつらそうに眉をゆがめた。
「つ……」
「だ、大丈夫?」
 慌てて身を引こうとしたら
「大丈夫、そのまま」
 よっちゃんが、小さく言っておれに両手を差しのべてきた。
 おれは、覆いかぶさるようにしてよっちゃんの身体を強く抱きしめる。よっちゃんはおれの背中に腕をからめながら、何度も深く息を吸ったり吐いたりした。
「……いいよ、大山くん」
「あ……う、うん」
 おれはよっちゃんの呼吸に合わせて、再び慎重に身を沈めていった。正直しんどかった。かすかに痛みさえある。もしかしておれ、よっちゃんを傷つけてるんじゃないか? そう思って内心はらはらした。
 何とかおれがすべて入ってしまうと、よっちゃんは安堵したように、おれにからめた腕の力を抜いた。おれは上半身を起こしてよっちゃんの顔を見た。
「ごめんね、おれ馴れてなくて……」
 おれが泣きそうになって言うと、よっちゃんは優しく笑った。何か喋ろうとしているけど聞きとれない。
「ん?」と耳を近づけた。
「……これより、うんとつらかったのって、何度も……経験あるから」
 よっちゃんが、かすかな息の下でそう言ったのに、たまらなくなって涙が流れた。おれが焦って離れようとすると、よっちゃんは「離れないで。聞いて」と再び背中にまわした腕に力をこめた。
「あのね、ぼく……ずっと前、誰かれかまわず、こういうことやってた」
「よっちゃん」
「いつも、何かが空っぽだった。だから誰かが入ってくれると、そのすき間が埋まるような気がしたんだ。自分の内部で繋がってると感じるだけですごく安心した。だから、誰とでもやった。自分がおかしいってよくわかってた。でも、やめられなかった」
 よっちゃんは、ささやくように続けた。
「だって、そんな安心した気持ちはいつも、あっけなく消えてなくなっちゃう」
「よっちゃん」
「あのね。おじさんは好き、だけど」
「……ん」
「ぼくひとりのものじゃないから、やっぱりすぐ、消えてなくなる」
 こんなことさせちゃってごめん、って、よっちゃんは小さく言った。ぼくなんかのわがままで、こんなことさせちゃってごめん、って。
 そんなことないよ。よっちゃんが謝ることない。よっちゃんが謝ること全然ない。おれはよっちゃんのためなら何でもできるんだから。おれはよっちゃんがうんと喜んでくれて、ほっと安心してくれたら、それが、おれの何よりの幸せなんだから。

 おれはふたたびよっちゃんをぎゅっと抱いて、強く口づけをした。
 大山くん、ぼく絶対、忘れないからね。
 長いキスが終わるとよっちゃんは、歌うようにそう言った。
 おれは、おれとよっちゃんが繋がっているのを確かめるためにゆっくりと下がった。よっちゃんも自分で触って確かめると、ふふ、と満足したように笑った。
 おれはまたゆっくりとよっちゃんの中に身を沈めた。よっちゃんは最初より楽なようだったから安心した。おれは慎重に何度もそれをくり返した。
 よっちゃんはずっとうわ言のように「忘れないから」と、つぶやき続けた。

 外では日も暮れて、雪が本格的に降りはじめたようだった。いつのまにか部屋の中も暗くなっていた。うにたんがケージで目をさました気配がする。しばらくゴソゴソと動いたあと、おもむろに回し車に乗って走り始めた。リンリンリンと小気味よく鈴の音が鳴る。まるで小さなトナカイの引くソリみたいだ。
 やがてよっちゃんは、うっとりと陶酔の表情に変わってきた。すすり泣くような声を出し、ひと呼吸ごとに大きくその細い身体をのけぞらせた。おれもどんどん昂まってきていた。身体じゅうがかっと燃えるように熱くて、冬だというのにびっしょりと汗が出た。よっちゃんとおれは互いをむさぼるように激しく動いて昇りつめ、そして一緒に悦びを放った。
 おれは、よっちゃんをおれで満たした。

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見上げた空は 最終話

T034

 * * * 《 最終話 》

「こんな脚本で本当にいけるって、本当に思ってんのか。大山ぁ」
 黒木が眉をひそめて文句をたれた。
「サンタクロースが、本当は宇宙人で世界じゅうを救ってまわる、という発想はなかなかユニークだと思うよ。そのサンタクロース役が水村っていうのも斬新なアイデアだ。だけど、とにかく展開がムチャクチャじゃないか。おまけにラストには、いきなりミュージカルに……ああ、もう頭が痛い」
 おれの狭い1Kの部屋に、昼間っから男三人が膝をつき合わせている。実はいま、われら映画研究部がうちでミーティングのまっ最中なのだ。
「それに大山、いきなり八ミリフィルムを使いたいって、どういうつもりだよ」
「だってだって、せっかくならノスタルジックな雰囲気に作りたいじゃん?」
「大山ぁ。今どきフィルムなんてどの映画サークルでも使ってないって。それに八ミリキャメラとフィルムなんて、初心者が扱えるわけないだろう。お前ごときにはこの家庭用ビデオで充分だ」
「えー。家庭用はイヤだよ~。ビデオならせめてプロ用のを使いたいよお~」
 黒木持参の、新春セールで購入したという真新しいビデオカメラと、おれが先日書き上げた自慢の脚本を前に、そんなミーティングにもならない低レベルなやりとりをしていると、よっちゃんがフライパンを片手に割りこんできた。髪をバッサリ切ってイメージチェンジしたのはいいけど、後頭部には相変わらず寝ぐせがついたままだ。

「あのね。ぼくのおじさんがね、記録映画を作る会社をやってるから、機材を借りるのなら、頼んでみたらどうかなあ」
 黒木が、へえ! と新鮮そうな表情をした。あれ、そういえばこいつって、石橋さんとは顔見知りじゃなかったんだっけ。
「いいじゃん大山。どうしてもっていうならそれにしたら? 水村、もちろん機材は安くで貸してもらえるんだろ?」
「うん、たぶん」
 こっくりとうなずくよっちゃんに、おれは慌てて言った。
「割引はしてもらわなくていいよ」
 黒木が口を出す。
「大山、自主製作なんだから、ムダな出費はなるべく減らして少しでも安く上げろってOBたちも言ってたろ。コネがあるんならそれをうまく使えよ」
 おれは「いや、いい」と、かぶりを振った。
「ほかにもいろいろ探してみて、安かったら石橋さんとこで借りる。でも特別に割引は必要ない。おれ、ちゃんと正規の値段で借りる。いいだろ? よっちゃん」
 よっちゃんはしばらく考えたあと、「ウン、いいよ」とニッコリ笑った。

T001

 不満そうに黒木が顔をしかめ、盛大に盛られた目の前のフレンチトーストを見て、さらに顔をしかめる。よっちゃんがたったいまテーブルに乗せたものだ。
 あのあと、よっちゃんに薦められて『クレイマー・クレイマー』を観た。映画の中で父と子が作るフレンチトーストは、食パンと卵に牛乳があればできるごく単純な料理で、いったいどんなに立派なんだろう、と想像してたおれは、少し拍子抜けした。
 だけど実際に、カルカヤに行って食べてみたところ、なるほど石橋さんの薦めたとおりその味は絶品だった。
「単純なものほど、奥は深いのよ」
 ママはそう言って、けらけらと笑った。

 というわけでおれたちはいま、よっちゃんのフレンチトースト修行にもつき合っているわけだ。
 ものごとは何ひとつ解決していない。というか、かえって複雑になったような気もしないでもない。だけどきっと何とかなるよね。おれ考えなさすぎるかな。でも、それがおれなんだから仕方ないな。
「重くたって二人で持つと楽ちんだよ」
 クリスマスイブのあの日、よっちゃんはそう言った。そのとおりだ。ひとりではつらくても二人なら何とかなる。だからこれからも、逃げないでひとつひとつ前に進んでいこう。

「あっ。あれ、何だろう?」
 よっちゃんが、窓の外を指さして言った。
「なになに」
 おれと黒木が争うように窓のところに走る。ベランダ越しの遠い空に、楕円形の光る物体が小さく浮いていた。
「うわあっ! UFOだ、UFO!」
「黒木、カメラ、カメラ回せ、カメラ!」
「すげー。ねえ、なんかアンテナみたいなのが出てきたよぉ」
 黒木とおれとよっちゃんの三人は、狭い窓のところで押しくらまんじゅうになって空を見た。光る小さな物体はしばらく空中に止まったあと、まるでこちらに信号を送るようにジグザグに空を横切ると、ものすごい加速で上空にパッと消えた。
「撮った撮った、バッチリ撮った! これ、どこかのテレビ局に送ってみようぜ、採用されるかもしれないぞ!」
 黒木がいつになく興奮した口調なのがおかしくておれは笑った。よっちゃんもけらけら笑った。

 四角い窓から見上げた空は、とても青くて透きとおっていた。

 もしかしたらあいつ、おれを見にきたのかな。ひょっとしておれがよっちゃんとあんなことになって心配したかな。それならどうぞご心配なく。おれたちこうやって、普通に仲良しを続けてるし。
「そうだ! 二作目にはこういうのどうだろう。ドキュメンタリータッチの作品でさ、『実録、黒木カオル未確認飛行物体を追う!』」
「うわー大山くん。それいい、ぼく賛成!」
 よっちゃんとおれは調子に乗って、いろいろとアイデアを喋り始めた。
「何をバカな話してんだ。ああもう、お前らといると本当に先が思いやられるよ。いいか大山、映画を作るんならまず脚本だ。このままだったらおれは認めないぞ。絶対!」
 黒木は不機嫌そうに口をとがらせたあと、目の前のフレンチトーストをパクつきだす。

 おれとよっちゃんは笑い転げた。その拍子によっちゃんの指先が、テーブルの下でおれの手に触れる。それで二人また顔を見合わせ、次はお腹を抱えて笑った。

                                     (おわり)

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「見上げた空は」アンケート

T034

おかげさまで、やっとエンディングを迎えた「見上げた空は」。
長いことおつきあいいただき、ありがとうございました。

せっかくなので、感想アンケートなど募集したいと思います。
今後の参考にもしたいので
差し支えなければ皆さま、お応えくださいませ。

 * * *

【1】 お気に入りのキャラは誰?
A 大山くん B よっちゃん C 石橋さん D その他(    )

【2】 お気に入りのシーンは?
(                 )

【3】 これから、どんなものを読みたい?
A 大山くんとよっちゃんのシリーズ
B 大山くんとよっちゃん以外のキャラが登場するBL小説
C BL以外のジャンルの小説(    )
D 小説以外の創作作品(    )
E 映画の感想など、創作以外のもの
F プロフィールをちゃんと仕上げてくれ

【4】 そのほか感想、質問、意見などあればどうぞ。
(                 )

メールのあて先は、こちら→「tomtit」へのメール
※回答には、お手数ですが上の文章をコピペしてお使いください。

 * * *

ひと段落したから……というわけでもないのでしょうが
どういうわけかこの黄金週間、ホラー映画にハマってます。
「輪廻」と「サイレントヒル」と「サスペリア」を見ました。

ただ、GyaOで無料配信されてた「マングラー」ってスティーブン・キング作品は
超ビビってしまって、10分で止めてしまいました……(ダッテ怖カッタンダモン)。

じつはホラーには、あまり詳しくないのです。
なので、これはオススメ!という作品があったら
そういうのも、教えてくださいませ。

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