小説 「堕ちる天使の情景」

見上げた空は 19 par.10

T005

 * * *  ≪ 19 ≫

【 parenthesis 10 ~堕ちる天使の情景~ 】

 部屋に戻った。
 ベッドに腰かけたバスローブ姿の好男が、熱いミルクティを飲んでいるあいだに、石橋も濡れた服をバスローブに着替えた。
 携帯の電源を入れてみる。ママからの留守電が何件も入っていたが、内容の確認はせずにまた切った。
 窓辺に立つと、屋外広場が見下ろせた。あのクリスマスツリーの下に好男はいたのだと石橋は思った。ひやりと外の寒さがガラスから伝わってくる。窓の一部は結露のためか水滴で濡れ、曇っている。暗く窓ガラスに写る自分の顔。その肩越しに見えるのはちょこんとベッドに腰かけた好男の姿だ。

 ミルクティを飲み終えたらしい好男は、寝そべるようにしてベッドサイドのスイッチをあちこち興味ぶかげにいじっていた。照明が着いたり消えたり、また和らいだりするのが面白いようすだ。
「やっぱり駄目だ」石橋は、踵を返した。
「よっちゃん、帰ろう」
 好男はきょとんと石橋を見つめた。
 枕を両腕で抱えるようにして向き直り「するんじゃないの?」と言った。
 石橋が「何もしないよ」と応えながら差し出した、好男自身の服を見てまた聞いた。
「なんでしないの?」
「何でもなにも、それはいけないことなんだよ」
「おじさんは、ぼくがきらい?」
 石橋の腕にすがりついてきた。
「そうじゃない。さっきも言ったろう」
「ならしようよ。ねえ、しようよ」
 好男はバスローブがはだけるほど強い力で石橋の身体をゆさぶる。ねえしようよ、しようよ、ねえ。石橋は目をつぶり、それに辛抱強く耐えた。
「よっちゃん」
 ゆっくりと話しかける。
「わかるかい。自分をもっと大切にするんだ。そんなふうに簡単に、自分の身体を人に委ねちゃいけない」
「大切にしてる」好男が口早に言う。「こうしたらみんなぼくを好きって言ってくれる」
「それは、本当に大切にしてるのとは違うんだ」
「だったらなに」
「だから……」
 石橋が応えようとすると、好男はふたたび「おじさんは、ぼくがきらい?」と聞いた。きりのない堂々めぐり。どうしてこんなになるんだ。石橋は深くため息をついた。
「よっちゃん、とにかく今夜は帰ろう。ママの家はまたあらためて行こう。服を着なさい。ちゃんとこれから施設まで送り届けるから」
 好男の顔がこわばった。
「ひとを荷物みたいにいうな!」いきなり石橋の腕から衣類を奪いとりベッドに立ちあがった。
「じぶんで帰ります」
 そう叫んで石橋と反対側に跳びおりる。ドアに向かおうとしたが、バスローブの裾でも踏んだらしくもんどり打って転び、そのまま床にばたりと倒れた。
「よっちゃん」
「来るな!」好男が叫ぶ。駆けより抱き起こそうとした石橋の頬に鋭い痛みが走った。
 頬に手をあてると血が出ていた。いつのまにか好男の手には、さっき石橋がサイドボードに置いた天使の人形が握られている。
「いったいぼくを、何だと思ってんだよ」
 手当たり次第に衣類を投げつけ、石橋をぼかぼかと叩いた。
「映画の券なんか、くれなきゃよかったんだ。声もかけてくれなきゃよかった。最初から、何もかまわないでくれたほうがましだった」
 好男は泣いて叫んだ。
「なんでそんな、そんな中途半端に……」
 中途半端。
 その言葉が、石橋の心を鋭く刺した。

 * * *

 石橋のいちばん幼い記憶は、自分を殴りつける父親の顔だ。
 夫から逃れることを決意した母親は、幼い石橋を連れて家を出た。あちこちを転々として暮らした。自分勝手で暴力的なあの男がいつ追ってくるかとひと時も休まることがなかった。ひっそりと母子で息をひそめ生きる日々が続いた。
 石橋にとって好男はもうひとりの自分でもあった。もし母親が自分をかばわなかったら、自分を連れて家を出なかったら、石橋自身が好男のようになっていたかもしれなかった。
 成長する中でいつの間にか石橋は、自分を助けてくれた母親を何よりも幸せにすることが、自分の義務だと考えるようになっていた。

 社会人としてはきっと成功したほうだろう。好きな仕事に恵まれ経済的にもゆとりを持てた。暖かい家庭を築いて可愛い孫の顔だって見せた。石橋は充分に満足していた。していたつもりだった。
 いったい何がきっかけだったのか自分でも記憶にない。ずっと隠し通していたことなのに、ある日、石橋はつい母親に告白してしまったのだ。
 自分は、男を愛する人間なのだ、と。
 それに対する母親の反応もじつをいうと憶えていない。だが彼女が病に倒れたのは、それからいくらも経たないうちだった。

 母親の健康状態と、自分の発言とは何の因果関係もないはずだ。しかし石橋は恐れた。自分のせいで彼女の心のバランスが崩れてしまったのではないかと気に病んだ。母親に会うのが怖かった。意識が混濁した姿を見ては、自分が彼女をこんなふうにしてしまったのではないかと考え、覚醒しているときには、彼女に何か言われるのではないかと思った。
 家庭にいるのもまた怖かった。妻にも娘にもまともに向き合えなかった。自分がいつか自分の父親のようになるかもしれないという恐れが石橋をそうさせた。
 こんなはずじゃなかった。何のためにいままでがんばってきた。人もうらやむような幸せな家庭を作りたかった。そして母親にそれを見て欲しかった。だから舜介とのことだってあきらめたのだ。

 舜介。
 あいつだって傷ついたはずだ。なのにずっと変わらない態度でいてくれた。自分はそれをいいことに、ずっと我儘放題だった。
 好男の言うとおり、自分はずっと中途半端だったのだ。
 自分が傷つきたくないばかりに、物ごとを正面から見ようとせずそこから逃げているだけだった。そうやって自分は、これまで大切な人々をすべて傷つけてきたのだ。それは忌み嫌っているはずの自分の父親とまるで同じ姿に思えた。
 今度こそ逃げるまい。
 石橋は涙でぼやけた目で少年を見つめた。好男はかすかにしゃくり上げながら、感情の波が途切れたように放心している。
「好きだ」
 好男の耳もとで言った。
「うそだよ」好男がつぶやく。
「うそじゃない」
 愛している。耳もとでそう何度もささやいた。
 それはまぎれもなく、石橋の真実の言葉だった

 あのときからすでに石橋は魅了されていたのだ。映画館の暗がりで彼を初めて見た。そして日差しの眩しいグラウンドでふたたび彼を見つけた。それらはまるで光と影の織りなす美しい幻だった。石橋はいつのまにかその情景に身も心も囚われていたのだ。
 好男のやわらかな髪をなで頬についた涙をぬぐった。彼の吐息が自分の頬に触れると、心が悦びで密かに震えた。石橋はそのまま好男を自分の唇へ誘い、やがてゆっくりと肌を合わせた。

 長い時間をかけて石橋は好男を愛した。
 悦びの反面、どこかで石橋は気付いていた。これが地獄の始まりかもしれないことを。
 だが、堕ちてしまった子を救うには、自分もまたそこへ堕ちなければならない。

 とことん、堕ちてみせよう。

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見上げた空は 18 par.9

T021

 * * *  ≪ 18 ≫

【 parenthesis 9 ~堕ちる天使の情景~ 】

 金曜日は、ひどく冷え込んだ。
 午後になって、石橋の会社にクライアントからの急なクレームが入った。先方とともに午後いっぱいは会議室に詰めなくてはならない。石橋は合間をみて愛光園に電話をした。職員の柴田が出て、好男はすでに出かけていると応えた。仕方なくママに電話をかけてみたが、携帯電話は留守電になっている。
 夕方六時半にジョイタウンで好男と約束をしているが、もしかしたら遅れるかもしれない。そのときは申しわけないが迎えに行ってくれ、とだけ伝言を入れ、石橋は会議室に籠った。

 会議が終わったのは結局、七時半を過ぎていた。まあなんとかパーティの時間には間に合いそうだ。タクシーに乗り行き先を告げたところで、ふたたびママに電話をする。
「あ~、イシバシちゃん? ごめ~ん遅くなっちゃった。わたしもいま帰ったとこで何の準備もしてないのよ。まあ、内輪だけだし料理は適当にいいわよね」
 やたら明るい声で応対するママに、石橋は思わず
「伝言、聞いてなかったのか?」
「……伝言? 聞いてないわ」
石橋の頭から、すっと血が引いた。「よっちゃんはそこにいないのか?」
「いないわよ。よっちゃんがいったいどうしたの?」
 問いかけるママに応えるのももどかしく、石橋は運転手に「ジョイタウンへ」と変更を告げた。

 クリスマスツリーの下で、と約束をしていた。
 ショッピングモール内の中央広場にはきらびやかなツリーが飾ってあり、その周囲にさまざまなプレゼント用の商品が展示されている。
 てっきりそこにいるものだと思ったのだが、好男は見つからなかった。ひとりで見てまわっているのかもしれない、と専門店街を探してみたがそこにもいない。八時で閉店する店が多いらしく、フロアには人影も少ない。
 ふと、屋外広場に面した大きな窓に目を移し、石橋は思わず立ち止まった。店内を反射した明るいガラス越しにイルミネーションが点滅していた。そびえ立つきらきらと美しい光。うかつなことに、ツリーが設置されていたのはモール内だけではなかった。屋外にも、こんなに大きなクリスマスツリーが立っていたのだ。
 夏は噴水が涼しく快適で、そこが待ちあわせの場所だった。好男はいつも中央の円形になった場所に座り込み、水辺で遊ぶ子どもたちを眺めていたりしていた。
「まさか……」石橋の心臓が、どきんとはね上がった。

 * * *

 広場は、寒さの中にしんと沈みこんでいた。
 中央に立つ大きなクリスマスツリーの下に、好男がいた。
 膝を抱えしゃがみ込んでいる。こちらに気付いて立とうとしたらしいが、ガチガチに固まったようすで、立ちあがることすら困難そうだ。
 石橋が駆けよると、しっかりと握りしめていた何かをさし出した。陶器でできた小さな天使の人形だった。頭上のツリーから落ちたものらしい。羽根の部分がちょっとだけ欠けている。

T005
「わたしに?」白い息を吐きながら、石橋は聞いた。
 好男の身体はふるえて声も出なかった。歯の根があわずにガチガチ音をたてているのがわかる。あろうことか彼の服装はシャツに薄いパーカが一枚だ。スニーカーの足は靴下さえ履いていない。
 柴田が言っていたことが、石橋の脳裏に浮かんだ。

「鈍感なんですよ、あの子」

「苦痛や不快感に対して麻痺しているんです。たとえば人が、暑い寒いとか空腹とか苦しいとか、そういう普通に持っている感覚が、あの子の場合は極端に鈍いんです」

 何か他のことに気を取られている時は気をつけないと、というのもあらためて意味がわかった。普通だったら暖かい屋内に入るなり、相手が来ないと思ったらさっさと移動するなり、その時に応じた判断ができるはずだ。なのに好男はこの寒い広場で、来るかもわからない相手を待ち続けていた。
「すまない」石橋は繰り返した。「すまない」。自分のコートを脱いで好男に着せかける。彼の肩をぎゅっと抱きながら周囲を見回した。
 好男の吐く息は白くならない。身体が冷えきって息が外気と変わらない温度にまで下がっているのだ。少しでも早く彼を温めなければならなかった。
 隣接のホテルに慌てて駆け込み、石橋はツインの部屋をとった。

 * * *

 バスタブに湯を張るのも、もどかしく感じた。
 半分ぐらい溜まったところで石橋は好男を中に入れさせ、彼の冷えきった背中に熱いシャワーを流しつづけた。
 さっきロビーで、照明にさらされた好男の顔色はまるで死人だった。
 好男はうつむいて、石橋に湯をかけられるがままになっている。彼の火傷の痕を石橋はしみじみ見た。記録では知っていたが目の当たりにしたのは初めてだ。身体のあちこちに他にも無数の古い傷があり、思わず石橋は唇を噛んだ。
 バスルームから出た石橋はルームサービスに「温かい飲み物を」と頼み、それからママに電話をした。詳しくは説明できないがよっちゃんを連れてホテルにいる、と伝えたあと、しばらく考え携帯の電源を落とした。
 ふと、好男からもらった天使の人形を思い出しコートのポケットを探る。見つけた人形を石橋はベッドサイドに置いた。ベッドに腰をかけてしばらく待つ。
 あまりにも静かだ。
「もしや、倒れているのでは」石橋の心臓が、またどきんとはね上がる。
 慌ててバスルームに入ると、好男は湯につかったまま頭をバスタブにもたげ、軽い寝息をたてていた。
「よっちゃん」
 石橋は、ほうっと息を吐いた。
「よっちゃん、ここで寝たら風邪ひくよ」
 目をさまさない。石橋は好男の顔に近づき、しみじみと眺めた。
 唇は薄いが、中央がめくれあがってじつに愛嬌のある形をしている。鼻筋は通り、くせのあるくるんとした前髪をかきあげると秀でた額がのぞく。意思の強そうなしっかりした眉とあいまって、もし愛情をもって育てられていれば、聡明な少年に成長しているだろうとうかがえた。

 ふと、好男が目をさました。
 石橋を正面からじっと見る。まるで心の奥を見透かすかのような視線だ。石橋がたまらなくなり目を逸らそうとしたとたん、好男の表情がゆがんだ。そしてその目からいくつも大粒の涙がこぼれ落ちた。
 次の瞬間、彼は大声で何かを訴えはじめた。あふれる湯がバスルームの床を濡らす。激しい嗚咽まじりで支離滅裂で、何を言っているのかまるでわからない。
「よっちゃん」
 石橋は彼の腕をつかんだ。好男が暴れる。湯が飛んで石橋のシャツもびしょ濡れになったがかまわなかった。そのまま好男のからだを強く抱きしめる。
 好男はしばらく荒い息をしていたが、やがてぽつりと言った。
「ごめんなさい」
 石橋は抱いた腕をはなし、ふたたび好男の顔を見た。
「よっちゃんが謝ることはない。悪いのはわたしだ」
「きらいになったんじゃ、ないの?」
「何で嫌いになるんだ」
「ぼくがずるいこと、考えたから」
「……ずるいこと?」

 説明にならない説明を、石橋は好男の口から根気強く聞きだした。「ママへのプレゼント」などというのは口実で、本当は、彼自身が石橋に会いたくて誘ったのだと石橋は悟った。
 なんて拙い、子どもじみた企てだ。それに対する罰があんなふうに寒さの中にひとり放っておくことなのだろうか。だとしたら神は、あまりにも彼に厳しすぎやしないか。

「悪いのはわたしだ。わたしが遅刻してしまった」
「きらいじゃない? ぼくをきらいになってない?」
 好男はしつこいくらいに、それだけを確かめようとする。
「嫌いになんか、なってないよ」
「ほんとう?」
 不意打ちだった。好男がいきなり抱きつきそのまま唇を石橋に押しあてる。床が滑り、石橋は思わず尻餅をついた。もう全身ずぶ濡れだ。石橋はバランスを整えようとあたふたしながら彼の身体に腕をまわす。なんてやせた細い背中なんだと思うと石橋は、胸がしめつけられるような気持ちになった。
 腕にぎゅっと力を込め、彼を抱きしめた。

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見上げた空は 17 par.8

T020

 * * *  ≪ 17 ≫

【 parenthesis 8 ~堕ちる天使の情景~ 】

 秋から冬にかけて、石橋はやたらと忙しくなった。
 頓挫していた企画が見直され、切り口を変えて続行されることが決まった。その準備や何やかやで、まったくのところ映画に行く時間もなくなった。
 セントラルの経営権が別の人間に渡り、例の男とその両親までもが町を出たことは、ママから電話で聞いた。好男はちゃんと学校に通っているようだ。休日はどうやらママのマンションに入り浸っているらしい。
「うちにある映画のライブラリィを網羅しちゃったみたいでね。あれセット通販で買って損した~って思ってたけど、きっとこれで元は取れたわ」
 そう言いながらママは、受話器の向こうでけらけらと笑った。

 ママのほうからふたたび連絡があったのは十二月の初めだ。ちょうど出先近くの公園で、石橋は携帯電話をとった。
「クリスマス会をやろうと思うんだけど、今度の金曜日はヒマ?」
 いつにも増してはしゃいだ声だ。
「午後までちょっと用があるのよね。お店開けるのにも半端な時間だから、いっそのことお休みにして、三人でささやかにパーティなんかって。本番はあなたも家で過ごすでしょ。よっちゃんも施設でのイベントがあるそうなの。だから、今週末どう?」
「そんなこと言って。おれが、よっちゃんと会っていいのか?」
「三人だから間違いなんて起こりっこないでしょ。それにクリスマスだもの、ご褒美。よっちゃんにもあなたにも、わたしにも」
 擬似家族でいいでしょ、と笑う。
 金曜日の夜八時にママのマンションで、と約束をして電話を切ったところでふたたび携帯が鳴った。公衆電話からの着信だ。
「もしもし」
 石橋が応えると、受話器の向こうでためらう気配がある。
「よっちゃん、だね?」
 石橋は呼びかけた。ちょっと間を置いて「うん」と、小さな返事が返ってきた。

「こんにちは、ひさしぶりに声を聞くね。元気だった?」
「うん。……あのね、ママが今週の金曜日にクリスマス会をやろうって」
「ああ、たったいま聞いたよ」
「うん。……でね」
 いつも小さくためらいがちな好男の言葉を、ゆっくりと石橋は待った。
「あのねぼく、ママにプレゼントって、思って」
「うん」
「でも、何が好きかよくわかんなくて」
「そうか」
「あのね……おじさんなら、わかるかなって」
「わたしが、ママのプレゼントを選ぶってこと?」
「ん……はい」
 石橋は苦笑しながら応える。
「よっちゃんが自分で選んだほうがいいんじゃないかな。きっと何をあげてもママは喜んでくれるよ」
「あ……はい」
 そう返事をする好男の声が一気に沈んだのがわかり、石橋は柄にもなく慌てた。
「いいよいいよ。よっちゃん一緒にプレゼント選ぼう。時間や場所はどうしようか?」

 結局、クリスマス会の当日、金曜日の夕方六時半に国道沿いの『ジョイタウン』で待ち合わせをすることに決めた。  
 ジョイタウンは、映画館などのアミューズメントに大手チェーンホテルも隣接した巨大なショッピングモールだ。石橋も何度か好男と映画を観に通った。専門店もたくさんあるし、あそこなら結構いいものが見つかるだろう。
 電話を切った石橋は、なんだか心が弾んでいる自分に気付いた。
 きっと好男に会えるからだろう。「変な間違い」なんてママはこだわるが、まずそんな心配はない。二人でママへのプレゼントを選びママの家へ行く。それだけのことだ。
「それだけのことだ」。
 石橋は、確かめるようにつぶやいた。

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見上げた空は 16 par.7

T018

 * * *  ≪ 16 ≫

【 parenthesis 7 ~堕ちる天使の情景~ 】

 気付くと朝だった。
 石橋はママの自宅の六畳間に、じかに横たわった状態で目が覚めた。
 隣のリビングからコーヒーと焼いたパンの香りがする。朝のワイドショー番組らしいテレビの音も聞こえていた。
 石橋はびっしょりと汗をかいていた。頬を撫でると不自然にデコボコしていて、どうやら畳の模様がしっかりついてしまったようだ。リビングに顔を出すと、テーブルの上に朝食の準備ができていた。トーストにサラダとベーコンエッグ。
 好男は、こっちを見るといつものようにもぐもぐと口を動かしながら「おはよう、おじさん」とでも言うようにニッコリと笑った。
 ママが「コーヒー飲むでしょ」と席を立ち、マグカップに注いだコーヒーを手に石橋へ近づいてきた。そのままふたり六畳間まで戻り、ママが後ろ手で襖を少しだけ閉める。
 ひどく戸惑った表情でママが言った。
「イシバシちゃん、いったい何なの、あの子」
「また、何かあったのか?」
 石橋が慌てて聞くと
「いえ、あったっていうかなかったっていうか、ああ、どう言ったらいいのかしら」
 ママは混乱したふうに頭を振る。
「明るいでしょ、あの子。起きたときからあんな調子なの。お風呂に入れて食事をさせたんだけど、昨日のことなんてまるで憶えてないみたい。なんだかちょっと怖い感じで、どうしようかって思ってたとこよ」
 石橋は、思い当たった。

「おそらく記憶障害だ。何かストレスがかかって、次に起きたときにはその出来事をほとんど忘れてる。そういえば、記録にも書いてあったな。」
「……記憶障害」
 ママが眉をひそめる。
「夕べ聞いた、あれだけじゃなかったんだ」

 * * *

 昨夜、石橋がこの部屋に戻れたのは、深夜を過ぎてからだった。
 男の耳には結局、大きな傷が残ることになった。駆けつけた男の両親は、善人なのだがじつに世間知らずという体の人間で、この三人を相手になだめたりすかしたり散々な苦労をした挙句、やっと示談という形にこぎつけた。

 部屋に戻ったあと、石橋はママにすべてをぶちまけた。好男との出会いのきっかけから取材先で再会した話、その後調査でわかった彼の身の上すべて。
 そうせずにはいられない、ひどく忌々しい気持ちだった。
「母親はいま所在不明。父親の居場所は判明してはいるが、すでに親権喪失宣言がなされている。児童相談所の所長による申し立てだ」
「児童相談所の?」
「相当ひどいケースだってことだよ」
 ママが「ああ」と、うなずいた。
「記録では父親とふたり暮らしだったその間に、二回も救急病院に搬送されてる。一回は背中の火傷、もう一回は異物の誤嚥」
「誤嚥って」
「当時あの子は七歳だ。床に落ちてるものを誤って飲み込むとか、そういう年齢じゃない。窒息しかけていたあの子の喉から、いったい何が出てきたと思う?」
 石橋の口調に忌まわしいものを予感したのか、ママが美しい眉をひそめた。
「……コンドームだよ」
 その言葉を発した石橋も、まるで何かが喉につかえたように苦しい。
「あの子の食べかたがあんなに遅いのは、ものを上手く飲み込めないからなんだ。怖くてたまらないんだよ。ものを嚥下することが」

 石橋は布団のほうを見やる。好男はぐっすりと眠っているようだった。
「十歳でその家から逃げた。児童相談所に保護されるまでの数ヶ月を屋外で過ごした。寒い季節だ。寝る場所、食べ物、行きずりの大人から施しを受けその見返りを求められたとき、たぶんあの子にはあんなことしか応える術がなかった」
 石橋は、やるせない気持ちで話を続けた。
「きっとあの子なりに必死で知恵をしぼった結果だ。あの子が食事する姿を見るたびに思うよ。ああ、いま生きようとして一所懸命なんだって。誰もあの子を責められないんだよ。本当に責められるべきは、おれたち大人なんだ」
 ママが何か小さくつぶやき、深いため息をつく。
 その夜の闇は、重たく、石橋とママと眠る好男にのしかかっていた。

 * * *

「ママ、あのね。これ観てもいい?」
 襖がカラリと開いて、好男がひょっこり顔を出した。
 石橋とママが一斉に自分のほうを向いたのに、戸惑ったように目を丸くして後ずさる。好男は映画のDVDを手にしていた。「オズの魔法使」というタイトルが見える。
「朝ご飯は? 食べ終わったの?」
 そういうママの問いに「あっ」という反応をしたあと、好男の顔がたちまちしぼんだ。のぞいてみると、確かに皿の上の様子はさっきとあまり変わりないようだ。
「……ごめんなさい、まだ。」
 そのしぼみ具合があまりにおかしくて、石橋の頬は思わずゆるんだ。
 ママも苦笑しつつ
「謝らなくていいわよ、ゆっくり食べながら観なさい。機械の動かしかた、わかる?」
「うん、わかる!」
 しぼんだ顔が今度はとたんに明るくなった。跳ねるようにテレビの前まで行くと、ぺたりと座り込んでプレイヤーにDVDをセットし始める。
T001

 そんな好男の後ろ姿を眺めながら、ママは石橋に言った。
「さて。あなたもひとっ風呂浴びてさっぱりして……と言いたいところだけど」
「うん」
「そのまま帰った方がいいわね」
「うん」
「着替えしてさっぱりした姿で朝帰りなんて、わたしが奥さんだったら家を出るわ」
「……もう、出てしまってるかもしれないよ」
 石橋の返事に、ママは声を出さずに笑う。
 昨夜すっかり参っていた石橋は、結局ホテルでの妻とのやりとりもママに告白してしまっていたのだ。ママは、笑いながら石橋のマグカップを受け取った。

「ねえ、遼ちゃん」
「うん?」
「できるだけ哀れな姿で家に帰るといいわ。そして謝る。ちゃんと言葉に出すのよ。自分が悪かったって言って、泣いて謝るの。おれには君たちしかいないって、君たちがいなくなったら自分は生きてゆけないって言うの」
 ママは、カップをもてあそぶようにしながらゆっくりと微笑む。
「人はよく言うじゃない。いつも他人に見せてる顔は本当の自分じゃないからとか。本当の自分を見つけたいとか。でもね、わたし思うんだけど、そういう場合の本当の自分って、ただ『他人にそういうふうに見せたい自分』ってだけなのよね。単に、自分がかぶりたい、ちょっといい別の仮面ってだけなの。結局、それだって本当の自分じゃないのよ」
 隣室で華やかにファンファーレが鳴る。、どうやら映画が始まったようだ。好男は無事にプレイヤーを操作することができたらしい。
「本当の自分はね、演じてるときに出るの。どうしようもないぐらいそこに真実が出るの。役者経験のある人間が言ってることだから、間違いない」
 演じなさい、とママは繰り返した。
「その先、どういう仮面をかぶるのかは、その人の自由ではあるけどね」

 エレベータに乗り込んだ石橋が開閉ボタンを押そうとしていると、「それから」と言ってママが部屋から追いかけてきた。
「よっちゃんとはもう会わないほうがいいわ。変な間違いが起こらないように」
 はっと顔を上げた石橋に、ママは「心配しないで」と笑って続けた。
「あの子の面倒はわたしがちゃんと見るから。あなたは、あなた自身のやるべきことを」
「舜介!」
 思わずママの名前を呼んだ石橋に、ママは明るく手を振った。
 ガシャンと音をたて、エレベータのドアが閉まった。

 * * *

 石橋はいつものように自宅の駐車スペースへ車を入れ、玄関へ向かった。
 引き戸をからりと開けると妻の瞳が、洗い物でもしていたのだろう、濡れた手をエプロンの裾でぬぐいながら出てきた。
 瞳は、石橋に負けないくらいに疲れた腫れぼったい顔をしていた。
 居間からは古い映画音楽が聞こえている。休日の朝にはいつもかけるCDだ。いま流れているのは『マイフェバリットシングス』。
 不意に、熱いものが胸の奥からこみ上げてきた。
「すまなかった」
 石橋は言った。
「おれが悪かった。おれが、間違ってた」
 許してくれ、そう言いながら石橋は肩を落とした。
 頭を下げたとたん、こらえきれずに石橋は嗚咽を漏らした。
「おれには君たちしかいない。君たちがいなくなったらおれは……生きてゆけない」
 その言葉は、まぎれもなく石橋の真実だった。
 妻も、娘も、この家も、ささやかな庭も、音楽も、身を包む何もかもが温かく、かけがえのないものだった。それに気付かないでいたことを彼はいまさら悔いた。自分は逃げているだけだった。家族に向き合おうと努力をしないで、目の前を見ないで遠くばかり見ていた。それをあらためて悔やむと、石橋は肩を震わせ泣いた。
 とんとんとんと足音がして、本を抱えた絵里が二階から下りてきた。

T019
「パパ?」
 そう言いながら玄関先まで来ると、不思議そうに石橋の顔を見る。
「絵里」
 石橋は、思わず絵里を手元まで引き寄せ、ぐっと抱きしめた。
「パパくさい。それにおひげが痛い」
 そっけなくそう言うと、彼女は石橋の腕をすり抜け居間へ駆け去ってしまった。
 呆然とする石橋に、瞳はうるんだ眼をして微笑んだ。
「だから言ったでしょ。いまちゃんと見ておかないと、女の子はすぐに口もきいてもらえない年頃になるのよ」
 そう言って石橋の上着を脱がせ、自分の腕にかける。
「ああ、スーツがぐしゃぐしゃ。明日にでもクリーニングに出さなくちゃね」
 石橋のために、いつものスリッパを並べた。
「あなたもお風呂に入ってさっぱりして、それからまた絵里を抱きしめてやってよ」

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見上げた空は 15 par.6

T017

 * * *  ≪ 15 ≫

【 parenthesis 6 ~堕ちる天使の情景~ 】

 車を駐車場に停め、ママの住むマンションへ急いだ。
 映画館『セントラル』の入った五階建てのビルだ。三階から上は住居になっていて、ママの自宅はその四階だった。ポンコツなエレベータのある正面玄関と映画館の横からの階段と、ふたつの出入り口がある。石橋は映画館の階段を駆け上がった。
 一気に四階まで上り、はあはあと息を切らしながら玄関のチャイムを押すと、すぐにママが顔を出した。
 その姿を見たとたん、石橋の心臓は思わず天井まで跳ね上がった。ママの髪は乱れてほつれ、白いドレスシャツの胸から腹にかけて鮮やかな赤い染みがついていた。手にも赤く汚れたタオルを持っている。
「ああ」
 ママはこわばったように笑って言った。
「大丈夫。これはわたしの血じゃないわ。よっちゃんのでも」
「よっちゃんは? あ、あの男って?」
 石橋が、胸を押さえながら必死の思いでそれだけ聞くと
「説明はあと。まず布団を敷くのを手伝ってくれる?」
 ママが、石橋を室内に入れた。

 ソファに好男が横たわっている。下半身にシーツらしき布を無造作にかけただけの姿で、その布もあちこち赤く汚れていた。湯を張った洗面器が床に置かれ、その湯もピンク色に染まっている。テーブルの上にはビニール袋に入った小さな赤い何かが、無造作に置かれていた。
 好男は静かだった。どうやら眠っているようだ。石橋は自分の足ががくがくと震えるのを感じた。
「いま身体をきれいに拭いてあげてるとこだから。奥の部屋に敷いて」
 石橋は言われるままに隣の六畳間へ行き、押入れを開けて、あたふたしながら布団を敷いた。
 しばらくすると、ママが好男を抱えてきて「よいしょ」と、彼を布団に横たえた。
 ぱりっとしたシーツに清潔そうなパジャマ。好男はかすかに息をたて眠っている。やわらかそうな髪の毛が白い顔に影を落としていた。
 その穏やかな表情を見て、石橋もいくぶん安心はしたが、強い不安はまだ彼の心を揺さぶっていた。
「いったいよっちゃんに何があったんだ。教えてくれ」

 * * *

 ついさっきのことよ。
 お店の牛乳が切れてるのに気付いたから、買いに行こうとわたし外に出たのよ。
 そしたら、ものすごい叫び声がこのマンションの上から聞こえてきて。わたし、またあのガキどもがクスリかなんかやってるって思ったのよね。ええ、そんな調子でしょっちゅう住民に迷惑かけてるのあいつら。この際だから、きつくお灸でもすえてやろうと思って、五階まで駆け上がったわけ。
 ええもちろん階段でよ。イシバシちゃんとは違うの、鍛えてるの。自慢じゃないけど階段上がったくらいで息なんて切れないわよ。
 五階の部屋に着いたらガキどもみんなパニックになってて、その中でよっちゃんとあの男が……ああ、何て言ったらいいのかしら、ハンニバル・レクター教授も真っ青というありさまでね。さすがのわたしも一瞬、動けなかった。必死になって引き離したのよふたりを。
 よっちゃんはあんな感じで、服も着てなくて。もうかなりの興奮状態でね。ひどく暴れて、震えて。こっちの言うことまったく聞きそうになかったの。仕方ないからちょっとしたコツ使って失神させて。
 その間あいつはちぎれた耳を押さえて転げまわってた。くそ汚いケツ丸出しでね。
 救急車は呼んだかってガキのひとりに聞いたら、まだだって言うから、それなら筋向かいの甲田外科にこのまま駆け込めって言ってやったわ。あそこ年寄りだけどウデはめっぽういいのよ。そこに行ったとしたらあいつ、まだいるはずね。落としてった耳の半分、持っていってやんなきゃなんないんだろうけど、まあそんなの後回しよ。
 とりあえずこのわたしの部屋まで、よっちゃんを抱えて戻ってきたってわけ。
 ああ大丈夫。いますぐ起こすことだってできるわよ。起こしてみる? いい?
 ええ、そうよね。普段そんなことする子じゃないわよね。とってもおとなしい子よね。わたしもそう思ったわよ。だからまたガキのひとりに聞いたの。「いったい何でこんなことになったんだ」って……。

 * * *

 そこまで興奮気味に、一気に喋り続けていたママが、そこで言いよどむように言葉を止める。石橋は思わずうながした。
「いったい何で、こんなことになったんだ?」
 ママが短くため息をつく。ぐしゃぐしゃと髪をかき上げるようにしながら
「……あの男がね。イシバシちゃん」
「うん」
「あんたのことでね」
「うん」
「変なふうに、言ったんだって」
 頭から血がすっと抜けた。
 好男の顔を見やる。眠った好男の顔はまるで天使のように安らかだ。
 彼は自分を庇おうとしたのだろうか。ママの口調はまるで、石橋本人を責めるようにも聞こえた。
「まず甲田外科に行ってくる。一刻も早いほうがいいだろう」
 気力を振りしぼり、石橋は立ち上がった。
「そんな……格好で?」
 ママはつい口に出したのだろうが、石橋は
「仕方ないだろう!」思わず声を荒げた。
 眠っているはずの好男が、びくっと大きく跳ねた。目をつぶったまま苦しげにあえぎ、何かから必死で逃げようとするようなしぐさを見せる。
「あなたがそんな大声を出すから」
 ママは石橋にそれだけ言うと慌てて布団に向かい、ささやくような声で怯える好男をなだめ続けた。
「よっちゃん、よっちゃん。大丈夫よ。何でもないの、大丈夫よ」
 母親の法事を終えたままの黒い喪服姿で、石橋はそんなふたりの姿をぼんやり眺めた。

「遼ちゃん」
 母親の声が、遠くで聞こえた。

「遼ちゃん。大丈夫よ。何でもないの、大丈夫よ」

T016

 石橋は黒い服を着て、古い六畳間の真ん中に立っていた。
 目の前に襖がある。その襖に自分の影が映っている。影は何だかゆらゆらとして、まるで自分が実体のないお化けのようだった。
 襖は、石橋が手をかけるとすらりと開いた。暗い奥の部屋には布団が敷いてあり、誰かがそこに寝ているようだ。
「……よっちゃん?」
 奥の部屋に踏み込んだ。畳の感触はじっとり古くたわんでいて、ぎし、ぎし、と一歩ごとに音が鳴った。
 石橋が、かがみこみ布団を剥ごうと手をかけたとき、中から小さい声がした。
「……パパ」
 絵里が、顔半分を出してこっちを見ていた。長い髪が白いシーツの上でもつれ広がっている。母親によく似たアーモンド型の目が、闇の中に暗く光っていた。
「そんな目で見るな!」
 思わず石橋は叫んだ。布団に馬乗りになり、自分の娘にぐいとのしかかった。とてつもない恐怖が、急激に石橋の心を支配した。絵里が感じる恐怖なのか、それとも自分自身の恐怖なのだろうか。そのときの石橋は絵里の目でものを見ていた。重くのしかかるものに抵抗しようともがき、泣きながら必死に声を上げていたのだ。

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見上げた空は 14 par.5

T016

 * * *  ≪ 14 ≫

【 parenthesis 5 ~堕ちる天使の情景~ 】

 十月の連休の初日。母親の一周忌法要のあと、わずかな身内での会食をすませた。
 都心から少し離れた海に近い場所だ。松林に囲まれたホテルの広いロビーで、石橋は妻の瞳と向かい合いソファに腰を掛けていた。
 クラシックのピアノ曲が流れている。眠くなるような休日の午後だ。
 娘の絵里は白い襟がついた黒のワンピース。石橋たちからは少し離れ、エントランスのあたりで、瞳の妹と一緒にベビーカーの双子の従姉妹をあやしている。時々はしゃいだようにこちらを見やり、石橋に向かって「パパ!」と手を振ってみせた。
 そんな絵里に手を振り返しながら石橋が、瞳と絵里を車で自宅まで送ったあと会社に戻る、ということを告げると、妻の瞳は「そう」とうなずいた。
 ちょっとした沈黙が降りる。
 彼女は黒いツーピースの上着の裾を所在なげにいじっていた。石橋も何となく気まずい気持ちで、ついポケットのタバコに手を伸ばす。
「ひどい人よね。あなたって」
 瞳のつぶやくような声に、石橋は手を止め、顔を上げた。
「え?」
「ひどい人、って言ったの」
 一瞬、何のことかわからなかった。まさか心当たりがないわけではない。むしろあり過ぎて、どれについて言っているのか判断がつかない。
 石橋は、タバコをふたたびポケットに収め、いちばん無難と思われる返事をした。
「母のことは大変すまなく思っているよ。後悔してる。君にもずいぶん負担をかけてしまって……」
「そうじゃないの」
 石橋の言葉をさえぎるように瞳が言った。いつも穏やかな彼女にしては珍しく、棘のある口調だ。
 ロビーの大きな窓からは結婚式用の白い小さなチャペルと、そこまで続くなだらかな斜面が望める。芝生の緑が眩しかった。トンビが数羽、急降下してはまた風に乗って上昇していく。あのチャペルからはきっと海も見えるに違いない、と石橋は漠然と考えた。

「ほらね。いつもそんな調子」
「え?」
「いつもあなたは、そうやって遠くを見てばかりなのよね」
 石橋は、あらためて妻の顔を見た。彼女は思いつめたような暗い目だ。
「あなたがお母さんを亡くしたあと、あなたが悩んでいることはわかっていたの。だからそれを受け止めようとわたしは待ってた。この一年。
 だけどあなたはそうやっていつも遠くばかり見ていて、わたしや絵里のことなんてちっとも見ていなかった。最初はわたしが悪いんだと思ったのよ。わたしの力が足りないんだって。わたしが悪いから、あなたがわたしを見ないんだって。でもそうじゃないでしょ。あなたが逃げてるの。あなたが悪いの」
 瞳は一気に言った。

 絵里がまた「パパ!」と呼んでいる。叔母のショールをふわりと頭にかぶりお姫さまのポーズを決めたあと、まるで花のように笑った。石橋は内心の動揺を隠し、ぎこちなく手を振り返した。
「絵里が、一年生のときに描いたパパの絵。あなた知らないでしょう?」
 追い討ちをかけるような瞳の声。
「顔がね、なかったの」
「……え」
 石橋の頭からすっと血が引いた。
「なかったの、顔が。理由を聞いたら、あなたの顔が思い出せなかったんだって。あなたにはショックだと思って隠してた」
 瞳が髪をかき上げる。
「そりゃわたしだってショックだったわよ。こんなこと何で気付かなかったんだろうって。だけど、あなたは忙しい人だったものね。負担をかけちゃダメだってずっと我慢してたの、わたしも絵里も。だけどこの一年で考えが変わったわ。
 あなたは逃げているだけよ。家族の気持ちも知らないで、家族に向き合おうと努力もしないで。目の前を見ないで遠くばかり見て。そうよわたしちゃんと気付いてるわ、あなたが他の誰かに……」
「ママ!」
 絵里の声。瞳がはっと口をつぐむ。
「ママ、おじちゃんがおばちゃんたちを迎えに来たよ!」
 絵里が、軽快に足音をたて石橋たちのところに走ってきた。
 ロータリーで、瞳の妹夫婦が子どもたちを車に乗せようとしている。絵里に手を引かれ、石橋がエントランスへ向かったとたん携帯電話が鳴った。番号はカルカヤのママだ。
 石橋は「すまん」と、絵里の手を離しながら電話を取った。
「あ、もしもし。もしもしイシバシちゃん?」
 ママの、いつになく緊迫した声。
「よっちゃんが……よっちゃんが大変なの。あの男に」
 石橋の心臓が、どきりと跳ね上がった。
「あの男にって、何があったんだ?」
 受話器の向こうからは、ただならない様子がうかがえる。
「……ごめん。電話ではちょっと説明できない。すぐこっちに来られる?」

 すぐに行くと返事をして電話を切り、顔を上げると、すでに妹夫婦の見送りを終えた瞳が絵里の手を引いて立っていた。
「いいんですよ、行って」
 瞳が、微笑んだ。
「ご心配なくどうぞ。わたしと絵里はタクシーで帰りますから」

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見上げた空は 13 par.4

T015

 * * *  ≪ 13 ≫

【 parenthesis 4 ~堕ちる天使の情景~ 】

 その「今度」は、思いもかけないかたちでやってきた。
 テレビ局からの依頼で、新しい企画が持ち上がっていた。「家族」をテーマにしたドキュメンタリーだ。
七月上旬の晴れた日、石橋はリサーチのため、ある養護施設に足を向けた。
 本来、何らかの家庭の都合で子どもを養育できない場合に、親に代わって子どもを養護し、自立を支援するための施設なのだが、現在かなりの割合で、家庭内での被虐待児が増える傾向にある。
 石橋が訪れたのは、中でもそれが顕著だといわれている施設だった。

 小さなグラウンドを抱えた白いコンクリート製の建物で、門の表札には『愛光園』と記してある。
 応接室で施設職員としばらく打ち合わせをしたあと、石橋は愛用のハンディカメラを手に、ゆっくりと施設内を歩いた。
 リノリウムの床にスリッパの音がぺたぺたと響いた。梅雨明け宣言がまだの天気は、日が照ってはいるがかなり蒸し暑く、屋外よりも空調の効いた室内にいる子どもが多かった。興味深そうに近寄ってくる子もいれば、恥ずかしがって逃げ出す子もいて、石橋にも思わず笑みがこぼれた。
 ふと窓の外を見た石橋は、日差しの照るグラウンドの隅っこでひとり小さくしゃがみ込む人影に気付いた。
 靴に履きかえ外へ出る。自分の影がくっきりと映る地面を視線の端に捕らえながら、石橋はその子に近づいていった。
 気配を感じたのか、子どもがふっと顔を上げた。
「……あ」
「あれっ、君か」
 石橋は思わず声に出した。
「好男くん。よっちゃん……だったね」
「うん」
 好男は、石橋の手にあるハンディカメラに目を留めたらしい。
「……おじさん、相談所の人?」児童相談所のことだろうか。
「あ、いや、テレビの人だよ」
「テレビの人……」
 つぶやくように小さな声で好男が言う。石橋は「ここ、いいかい?」と、好男の隣に腰を掛けた。のんびりとした調子で話を続ける。
「ドキュメンタリーを撮るんだけど、いまどういうものを撮ろうか考えているところ。よっちゃんはテレビは好きかい?」
「うん、好き」
 そうやって、フェンスを背にしばらくとりとめもない会話を続けた。好男は石橋と目を合わせるでなく、淡々と質問に応えた。いま中学三年生だという。ではあのとき映画館にいたのは、やはり学校をサボタージュしていたのだろうか。そう石橋は思った。

 白い建物に光が反射して眩しかった。強い日差しが二人に当たっている。
 空気も重くじっとりと肌にまとわりついて息苦しく感じた。不快指数がかなり高いようだ。石橋はにじむ汗をタオルでぬぐいながら好男に言った。
「それにしてもよっちゃん、ここは暑いよ。あっちの木蔭のほうが風も通って涼しそうだし、ちょっと移動しないかね」
「……あ、うん」
 そこが日なただったことに初めて気づいたようすで、好男がうなずく。
 ふたり揃って立ち上がろうとしたとたん、好男がぐにゃりと、まるで崩れ落ちるようにその場に倒れ込んだ。
「好男くん?」
 返事はない。好男の顔が妙に赤らんでいる。脱水症状を起こしかけているようだ。
「おおい、誰か来てくれ!」
 助けを求めながら石橋は好男を抱え上げた。彼の身体はまるで羽根のように軽かった。ばたばたと職員たちが駆け寄ってきて、好男はそのまま医務室へ運ばれた。

 応急処置で、何とか落ち着いたらしい。
 石橋は職員の柴田ミツコに導かれ、ふたたび応接室へ戻った。柴田は銀縁のメガネをかけた四十がらみの女性だ。着古したジャージ姿がかえって何か貫禄を感じさせる。子どもからも「ミツコ先生」とかなり慕われているようだった。
「熱中症です。いつものことですよ」
 熱いお茶を出しながら、ぶっきらぼうな口調で柴田が言う。
「鈍感なんですよ、あの子」
「え?」
 石橋がその意味をわかりかねていると、柴田はさらに言葉を継いだ。
「苦痛や不快感に対して麻痺しているんです。たとえば人が、暑い寒いとか空腹とか苦しいとか、そういう普通に持っている感覚が、あの子の場合は極端に鈍いんです」
「それは、やはり……」
 石橋が言いよどむと
「ええ、もちろん幼少期の虐待の影響ですよ」
 柴田は大きくため息をついた。
「今回みたいな調子で、どんなに身体がきつくっても本人は自覚なしにケロッとしているんです。でも肉体的にダメージを受けているのは確かなわけですから、そこを周囲がちゃんと見ておかないともう大変で」
 特に、何か他のことに気を取られている時など気をつけないといけない、ということだった。石橋は恐縮する思いだったが、柴田はこちらこそ説明しなかったからと詫びた。
 恐縮ついでに、好男を取材したいという話を持ちかけてみる。
「あの子は、ちょっと大変だと思いますよ」
 眉間にしわをよせ、柴田が応えた。

 * * *

 まもなく石橋は、その意味を理解した。
 愛光園で取材を続けるいっぽう関係機関をまわり、好男の父親については現在の所在地までつきとめたが、石橋はそこに足を向けることを保留した。好男の身の安全を優先するためだ。
 好男の場合だけではない。他の児童数人のケースもリサーチを始めたとたんに同じような壁にぶつかった。取材自体が、何よりも守るべき子どもたちの安全とプライバシーを脅かしかねないパラドックスに石橋は気付いた。これは企画としては失敗だった。

 秋の始めごろ石橋は、番組の企画が頓挫したことを施設に告げに行った。
「世の中にこういう現実があることを、本当は皆さんに知ってもらいたかったんですけどね……」
 取材をする中ですっかり顔なじみになっていた柴田が、そう言って残念そうにため息をついた。
 施設長にはあらためて挨拶にうかがうことを告げ、腰を上げようとしたところ、柴田がためらいながらも少し慌てた声を出した。
「あの、石橋さん」
「はい」
「もし、もしよかったら、よっちゃん……水村好男くんと、また会う機会を作ってくれませんか?」
 石橋が「は?」と怪訝な声を出すと、柴田はさらに焦ったように早口で言葉を継いだ。
「あの子、どういうわけか石橋さんが来たときはとてもいい状態で、助かってるんです。学校も休みがちだったのがちゃんと通うようになったし。フラッとどこかへ行って帰ってこないっていうのもなくなったし。本当にずいぶん良くなってきたんです。
 私たちもあの子にだけ手をかけるというわけにはいかないので。あの、本当にこんなことお願いするの申しわけないんですけど……」
 柴田の言いたいことはよくわかった。実際、職員たちの仕事はかなりのオーバーワークで、彼ら自身が疲れの限界に達しているはずだ。子どもの状態がよくなるという望みがあれば、部外者にだってすがりたい気持ちなのだろう。
「ええ、いいですよ。わたしでよければ」
 石橋は微笑んだ。
「好男くんは映画が好きみたいだから、たまに映画に連れ出すことにしましょう。それほど時間は取れないと思うのですが。そうですね、最低でも月に一回ぐらいは」
 柴田は、表情をパッと明るくして「ありがとうございます!」と叫んだ。

 * * *

「ラストシーンがすばらしかった」
 石橋の声に、カウンターの隣で好男がうなずく。
「家に続く細い曲がりくねった階段が、あの老女の生きて暮らしてきた道なんだと情景が雄弁に語っていた。静かだがさまざまなことが伝わってくる見事なラストシーンだったね」
 いくぶん興奮して喋っている自分が、自分でもおかしく思う。だが石橋が喋らないと、隣にいるこの少年はずっともぐもぐと口を動かしているだけなので間がもたない。それに、いま観たばかりの映画についてこうやって話ができるというのも、ずいぶん久しぶりのような気がして、石橋は心が弾んでいた。

T001

 月に一回、と言っていた割に、石橋はすでに三回も好男を映画に連れ出している。
 ひとりで観るのはもったいない良い映画が、続けて掛かっていたせいもあったが、本当は自分がこの子に会いたかったのだと、石橋自身も気付いていた。
 この日観たのは、セントラルで時期を遅れて上映されていた韓国の映画だ。
 カルカヤ特製のフレンチトーストをいつものようにゆっくり飲み込んで、好男は
「山の景色もきれいだったね」
 と、ニッコリした。その口の端にハチミツがついているのをぬぐってやろうと、石橋はつい手を伸ばしたが、ふと気づいてやめた。
「よっちゃん、ここ」
 石橋の言葉に、あっと気づいたように好男が袖で口をぬぐう。
「そういうときは袖じゃなくて、これを使うんだよ」
 差し出した紙ナプキンを慌てて使いながら、好男は「エヘッ」と笑った。
 些細なことだが石橋は、好男の身体に触れる行為を自分に禁じていた。先日のママの「引っ掛けた」という冗談のように、妙な誤解をされちゃたまらないと思っていた。
 それでなくても身を預かった立場だ。大人の責任というものがある。

「イシバシちゃん、ずいぶん楽しそうねえ」
 カウンターの向こうからママが話しかけた。余計なことを言うなよ、と石橋は密かに毒づく。
「あんなに仕事仕事ってやってた人間が、いつからこんな場所で油を売るようになったのやら。そろそろ一年じゃないの、あなたのお母さん」
「ああ、十月で一周忌だよ」
 石橋は応える。
 一年前、母親は認知症で自分の息子さえわからないようになっていた。介護を病院や妻にまかせっきりにしていたせいだった。
 仕事にかまけていたのだ。全国規模のTVドキュメンタリーの賞を狙っていた。三年間の長いリサーチを終え、実質的な番組製作にとりかかったばかりだった。おかげで月に一回、病院に行ければいいほうで、妻から「母親が自分の名を呼んでいる」と聞かされてもその時間がなかった。番組が完成したら思うぞんぶん会うから、と先延ばしにした。

 テレビ局で最終の編集チェックをしていたその深夜に、母親の容態が急変した。作業を終えたあと病院に向かったが、夜の明ける前に彼女は息を引きとった。石橋は母親の死に目に会うことはできなかった。
 けっきょく、賞も逃した。
 自分の中にぽっかりと穴が空いていることに石橋が気付いたのは、その頃だった。

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見上げた空は 12 par.3

T014

 * * *  ≪ 12 ≫

【 parenthesis 3 ~堕ちる天使の情景~ 】

「女を、連れこんでいる」
 石橋遼一は思った。
 メイン通りから入りこんだ細い道に建つ小さな映画館『セントラル』。五枚綴りチケットの一枚を出そうと、狭い窓口をのぞきこんだ瞬間だった。
 窓口にいるのは、石橋もよく知っている男だ。
 この古い映画館のいちおう跡取り息子ではあるが、映画のことなど何もわかっちゃいない。就職もせずブラブラしていて、たまに今日のように窓口に座っていたりもする。だがそんな時は必ずガールフレンドだか何だかが一緒にいて、こちらが券を買おうと窓口の前に立っても、平気で目障りな行為に及んでいたりするのが常だ。
 いまもカウンターの下、こちらからは見えない位置に誰かいるようだった。不愉快な気持ちで石橋は館内に入った。

 この男さえいなければ、ここは彼のお気に入りの場所だ。けっして快適ではない。椅子は古くて固いし、便所で使う消毒の臭いがロビーにまでただよっている。
 しかしそれらの何もかもが、映画に夢中になった十代の頃まで石橋の記憶を誘った。  
 いまの職業が映像関係なのも、それらの十代の体験がきっかけだ。ここは自分のルーツだと例えてもいい、と石橋は思う。
 いまは二週間、変則的に五本の古いフランス映画が上映されている。五枚綴りのチケットが発売されていて、同じ通りにある行きつけの喫茶店『カルカヤ』で買わされた。
「そのかわり、チケットを見せれば、うちのコーヒー百円引き」
 主人は笑って言った。
 長いつきあいのある主人だ。会社を経営する身でまっ昼間から映画鑑賞などする暇もないだろうが、いちおう券は購入した。まあ、コーヒー百円引きだけでもありがたい。
 そう思っていた石橋だったが、偶然にもすっぽりと午後の予定が空いた。今日の上映はルイ・マルの『地下鉄のザジ』らしい。

 後方の中央から少し右に寄った席が、石橋がいつも座る位置だ。すこし待ったあと開演ブザーが鳴る。と同時に、ひとりの少年が後方口からかけ込んで来た。袖で口をぬぐいながら、少年は石橋から二つほど空いた斜め前の席に座った。一瞬、匂いがした。
「カウンターの下にいたのは、彼だ」
 石橋は直感した。
 館内の照明が落ちた。

 * * *

 次の日も、石橋は映画館に出かけた。クライアントとの打ち合わせを先延ばしにして、無理やりスケジュールを空けたのだ。
 午後から、ゴダールの『はなればなれに』が予定になっている。
 石橋は、前日に見た光景が気になっていた。映画が終わったあと、少年はそそくさといった感じで、窓口のカウンターに戻っていった。
 あの時一瞬、感じた匂い。あんな小さなカウンターの下に入りこんで、あのいけすかない男相手に何をしているか、察することは簡単だ。
「決して、好きでやっているわけではあるまい」
 なぜだかわからないが、石橋はそう思った。
「きっと、かわりに映画を見せてやるなどと言って、それを強要しているのにちがいない」とも思った。
 少年は今日も来ていた。そして、石橋と同じように前日と同じ席に座った。
 石橋の席からは彼の横顔がよく見えた。中学生ぐらいの年頃に見えるが、昼間に映画館にいるぐらいだからそうではないのだろう。
 茶色いくせのある髪。まっすぐな鼻梁、かたちよい顎のラインが見てとれる。ただ顔色がわるくあまり健康そうではない。肩も細くて薄い感じだ。
 ついつい身を乗り出したところで、館内の照明が落ちた。

 映画の内容はほとんど頭に入らなかった。
 ずっとうわのそらだったのだ。有名なマジソンダンスのシーンでさえ、それを熱心に見入る少年のほうに気を取られていた。
 終わると同時に、石橋は自分でも信じられないことだったが、少年に声をかけた。
「もしよかったら、このチケットあと三枚もあるんだが、使ってくれないか」
 少年は、びっくりしたように石橋を見つめた。
 正面から見ると、細く見えた顎が意外としっかりしているのに石橋は気づいた。不思議なバランスの顔だ。少し角度を変えただけで印象が変わった。
「でも……」少年が声を発した。
 小さくてか細い声。口調も見た目より幼い感じがする。
「券が余っちゃってもったいないんだ。君は映画好きのようだから、使ってくれるとありがたいんだよ。いやいや、決して怪しい者じゃないから」
 石橋は、なぜだか焦っている自分がおかしくてたまらなかった。「いやいや、決して怪しい者じゃない」なんて日常、とうてい使う言葉じゃない。
「ありがとう」
 券を手にした少年がニッコリと笑う。また印象が変わった。

T001
 ロビーに出ると、少年はまた急いでカウンターに向かった。
 自分の早合点だったのか。余計なことをしてしまったのだろうか。石橋がそう考えながら見ていると、少年はなにやら相手の男と口論をはじめた。といっても、男のほうが一方的に何か言っているらしい。
 とうとう男が少年の胸ぐらをつかんだ。
 たまりかねた石橋が二人のあいだに割り込むと、意外と素直に男は引っ込んだ。
「ふん。いいのを引っ掛けやがったじゃないか」
 吐き捨てるように、男がそう言った。

 * * *

 喫茶『カルカヤ』の主人のことを、常連客は「ママ」と呼ぶ。
 ずいぶん若く見えるが、実際には石橋よりひとつふたつ上だ。
 個性的ないでたちのせいでいろいろと世間から誤解もされやすいが、腕はいい。コーヒーの味も出される軽食類も絶品だった。
 カウンター席に座り、石橋は百円引きのコーヒーを注文した。隣には少年がいる。何がいいかと聞くと「紅茶」と応えた。
「ここのフレンチトーストはおすすめだ。食べてごらん」
 そう言って、石橋はフレンチトーストと紅茶のセットを、少年のために頼んだ。
「名前、なんていうの?」
 自分の名を名乗ったあと、石橋は聞いた。
「水村好男」
「好男くんか」
「うん。でもみんな、よっちゃんて呼ぶ」
「あら、よっちゃんっていうの。かわいいじゃないのさ」
 カウンターの向こうから、ママが話しかけてきた。
「どうぞ。ハチミツかシロップは、自分の好きなだけかけてね」
 フレンチトーストセットを少年に出し、石橋をにらんだ。
「罪つくりねえ。どこで引っ掛けてきたの」
「そんなんじゃないってママ。セントラルでたまたま意気投合したんだよ」
 やっぱり「引っ掛けた」ように見えるのだろうか。妙な誤解をされちゃたまらないと焦る石橋に、ママが「冗談よ」と言ってけらけら笑った。

 * * *

 石橋には幼いころから父親がいない。母ひとり子ひとりで育った彼は、母親を幸せにすることが、自分の義務だと思っていた。
 十代の後半から、苦学して海外の専門学校に通い映像を学んだ。
 日本に帰ってマスコミの仕事に就いたのち二十五歳でテレビ映像の製作をする会社を立ちあげた。作るのはおもにドキュメンタリーだ。とにかくがむしゃらに働いた。一週間徹夜ということもざらにあった。
やがて、土曜日の早朝五時半で帯番組をもらった。県内にある古い仏教施設を紹介する十五分ほどの番組だ。これが視聴率をとった。たいした数値ではないが、この時間帯の番組にしては快挙だった。それをきっかけに会社を大きくした。
 結婚したのは三十五歳をすぎてからだ。仕事も安定し、母親を安心させねばという思いが先にたった。
 結婚相談所で出会った妻は瞳という名前で、気立てもよく穏やかな性格だ。今年小学三年のひとり娘、絵里もその気質を受けついでいるようだった。

 昨年、母親が死んだ。この秋で一年になる。
 いくつかの法要を終え、日常の暮らしに戻っていくうちに石橋は、自分の中で何かが足りないことに気づいた。母を失った寂しさともちがう、いくばくかの寂寥感。それがどこから来るものやらわからないが、石橋はいつもそんな思いにさいなまれていた。
 はっと我にかえった。
 となりで好男が、ハチミツをたっぷりかけたフレンチトーストと格闘している。ずいぶん長いあいだ考えにふけっていたはずだったが、皿の上のものはまだ半分しか減っていない。
「腹は減っていなかったのか」
 そう思ったが、どうやらそうではないようだ。
 とにかく食べるのが遅い。見ていると、まさにパンと対局でもしているかの様相で、ひとくちずつ口に入れる。柔らかいフレンチトーストだというのにそんなに咀嚼する必要があるのかと思うぐらい、しみじみ噛みしめている。
「おいしい?」
 石橋が聞くと、好男が彼のほうを向いた。しばらく口をもぐもぐさせながら彼をじっと見つめた。
「うん、すごくおいしい」飲み込んで、やっとそれを言った。
「そうか、よかった」
「うん」好男がニッコリと笑う。
「こんなふうに、おいしそうに食べてくれるとさ、こっちだって作り甲斐があるってもんよ、ねえ」
 ママが口をはさむ。いつも犬みたいにさっさと食べてしまう石橋へのあてつけかと思ったら、そうではないらしい。本当に喜んでいるのだ。
「ねえ、イシバシちゃん」
 ふたたび皿の上のものと格闘しはじめた好男をよそに、ママが話しかけてきた。
「またこのコ連れてきなさいよ。いろんなもの食べさせたげたいわ。それに映画好きなんでしょ、話もあうわよ。」
 そう聞いて石橋は、やっと好男と映画についてひとことも話さなかったことに気づいた。

「また今度」石橋はつぶやいた。
 また、今度。
 そう思っただけで石橋は、自分の中にひとすじの灯が点るような、そんな気持ちになっていたのだ。

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堕ちる天使の情景

T005

小説「見上げた空は」。
ただいま、よっちゃんと石橋さんの過去篇が
挿話として、やたらシビアに進行中なのですが
ふと、これは独立したひとつの読み物としてもいけるな
と気付いたので、ひとつのカテゴリとして独立させてみました。

「本編が長すぎて、読めねえよ~」と、お嘆きのかたは
お試しに、まずこちらからどうぞ。本編よりは、短いです(汗)。

もちろん、本編「見上げた空は」にも 、この挿話の部分はそのまま残してあります。

世界観(設定)も、もちろんリンクしています。
それを踏まえて読まれると、いっそう面白さが増すかもしれません。

見上げた空は 12 par.3 【 parenthesis 3 】から、はじまります。

小説 堕ちる天使の情景 

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