
* * * ≪ 16 ≫
【 parenthesis 7 ~堕ちる天使の情景~ 】
気付くと朝だった。
石橋はママの自宅の六畳間に、じかに横たわった状態で目が覚めた。
隣のリビングからコーヒーと焼いたパンの香りがする。朝のワイドショー番組らしいテレビの音も聞こえていた。
石橋はびっしょりと汗をかいていた。頬を撫でると不自然にデコボコしていて、どうやら畳の模様がしっかりついてしまったようだ。リビングに顔を出すと、テーブルの上に朝食の準備ができていた。トーストにサラダとベーコンエッグ。
好男は、こっちを見るといつものようにもぐもぐと口を動かしながら「おはよう、おじさん」とでも言うようにニッコリと笑った。
ママが「コーヒー飲むでしょ」と席を立ち、マグカップに注いだコーヒーを手に石橋へ近づいてきた。そのままふたり六畳間まで戻り、ママが後ろ手で襖を少しだけ閉める。
ひどく戸惑った表情でママが言った。
「イシバシちゃん、いったい何なの、あの子」
「また、何かあったのか?」
石橋が慌てて聞くと
「いえ、あったっていうかなかったっていうか、ああ、どう言ったらいいのかしら」
ママは混乱したふうに頭を振る。
「明るいでしょ、あの子。起きたときからあんな調子なの。お風呂に入れて食事をさせたんだけど、昨日のことなんてまるで憶えてないみたい。なんだかちょっと怖い感じで、どうしようかって思ってたとこよ」
石橋は、思い当たった。
「おそらく記憶障害だ。何かストレスがかかって、次に起きたときにはその出来事をほとんど忘れてる。そういえば、記録にも書いてあったな。」
「……記憶障害」
ママが眉をひそめる。
「夕べ聞いた、あれだけじゃなかったんだ」
* * *
昨夜、石橋がこの部屋に戻れたのは、深夜を過ぎてからだった。
男の耳には結局、大きな傷が残ることになった。駆けつけた男の両親は、善人なのだがじつに世間知らずという体の人間で、この三人を相手になだめたりすかしたり散々な苦労をした挙句、やっと示談という形にこぎつけた。
部屋に戻ったあと、石橋はママにすべてをぶちまけた。好男との出会いのきっかけから取材先で再会した話、その後調査でわかった彼の身の上すべて。
そうせずにはいられない、ひどく忌々しい気持ちだった。
「母親はいま所在不明。父親の居場所は判明してはいるが、すでに親権喪失宣言がなされている。児童相談所の所長による申し立てだ」
「児童相談所の?」
「相当ひどいケースだってことだよ」
ママが「ああ」と、うなずいた。
「記録では父親とふたり暮らしだったその間に、二回も救急病院に搬送されてる。一回は背中の火傷、もう一回は異物の誤嚥」
「誤嚥って」
「当時あの子は七歳だ。床に落ちてるものを誤って飲み込むとか、そういう年齢じゃない。窒息しかけていたあの子の喉から、いったい何が出てきたと思う?」
石橋の口調に忌まわしいものを予感したのか、ママが美しい眉をひそめた。
「……コンドームだよ」
その言葉を発した石橋も、まるで何かが喉につかえたように苦しい。
「あの子の食べかたがあんなに遅いのは、ものを上手く飲み込めないからなんだ。怖くてたまらないんだよ。ものを嚥下することが」
石橋は布団のほうを見やる。好男はぐっすりと眠っているようだった。
「十歳でその家から逃げた。児童相談所に保護されるまでの数ヶ月を屋外で過ごした。寒い季節だ。寝る場所、食べ物、行きずりの大人から施しを受けその見返りを求められたとき、たぶんあの子にはあんなことしか応える術がなかった」
石橋は、やるせない気持ちで話を続けた。
「きっとあの子なりに必死で知恵をしぼった結果だ。あの子が食事する姿を見るたびに思うよ。ああ、いま生きようとして一所懸命なんだって。誰もあの子を責められないんだよ。本当に責められるべきは、おれたち大人なんだ」
ママが何か小さくつぶやき、深いため息をつく。
その夜の闇は、重たく、石橋とママと眠る好男にのしかかっていた。
* * *
「ママ、あのね。これ観てもいい?」
襖がカラリと開いて、好男がひょっこり顔を出した。
石橋とママが一斉に自分のほうを向いたのに、戸惑ったように目を丸くして後ずさる。好男は映画のDVDを手にしていた。「オズの魔法使」というタイトルが見える。
「朝ご飯は? 食べ終わったの?」
そういうママの問いに「あっ」という反応をしたあと、好男の顔がたちまちしぼんだ。のぞいてみると、確かに皿の上の様子はさっきとあまり変わりないようだ。
「……ごめんなさい、まだ。」
そのしぼみ具合があまりにおかしくて、石橋の頬は思わずゆるんだ。
ママも苦笑しつつ
「謝らなくていいわよ、ゆっくり食べながら観なさい。機械の動かしかた、わかる?」
「うん、わかる!」
しぼんだ顔が今度はとたんに明るくなった。跳ねるようにテレビの前まで行くと、ぺたりと座り込んでプレイヤーにDVDをセットし始める。

そんな好男の後ろ姿を眺めながら、ママは石橋に言った。
「さて。あなたもひとっ風呂浴びてさっぱりして……と言いたいところだけど」
「うん」
「そのまま帰った方がいいわね」
「うん」
「着替えしてさっぱりした姿で朝帰りなんて、わたしが奥さんだったら家を出るわ」
「……もう、出てしまってるかもしれないよ」
石橋の返事に、ママは声を出さずに笑う。
昨夜すっかり参っていた石橋は、結局ホテルでの妻とのやりとりもママに告白してしまっていたのだ。ママは、笑いながら石橋のマグカップを受け取った。
「ねえ、遼ちゃん」
「うん?」
「できるだけ哀れな姿で家に帰るといいわ。そして謝る。ちゃんと言葉に出すのよ。自分が悪かったって言って、泣いて謝るの。おれには君たちしかいないって、君たちがいなくなったら自分は生きてゆけないって言うの」
ママは、カップをもてあそぶようにしながらゆっくりと微笑む。
「人はよく言うじゃない。いつも他人に見せてる顔は本当の自分じゃないからとか。本当の自分を見つけたいとか。でもね、わたし思うんだけど、そういう場合の本当の自分って、ただ『他人にそういうふうに見せたい自分』ってだけなのよね。単に、自分がかぶりたい、ちょっといい別の仮面ってだけなの。結局、それだって本当の自分じゃないのよ」
隣室で華やかにファンファーレが鳴る。、どうやら映画が始まったようだ。好男は無事にプレイヤーを操作することができたらしい。
「本当の自分はね、演じてるときに出るの。どうしようもないぐらいそこに真実が出るの。役者経験のある人間が言ってることだから、間違いない」
演じなさい、とママは繰り返した。
「その先、どういう仮面をかぶるのかは、その人の自由ではあるけどね」
エレベータに乗り込んだ石橋が開閉ボタンを押そうとしていると、「それから」と言ってママが部屋から追いかけてきた。
「よっちゃんとはもう会わないほうがいいわ。変な間違いが起こらないように」
はっと顔を上げた石橋に、ママは「心配しないで」と笑って続けた。
「あの子の面倒はわたしがちゃんと見るから。あなたは、あなた自身のやるべきことを」
「舜介!」
思わずママの名前を呼んだ石橋に、ママは明るく手を振った。
ガシャンと音をたて、エレベータのドアが閉まった。
* * *
石橋はいつものように自宅の駐車スペースへ車を入れ、玄関へ向かった。
引き戸をからりと開けると妻の瞳が、洗い物でもしていたのだろう、濡れた手をエプロンの裾でぬぐいながら出てきた。
瞳は、石橋に負けないくらいに疲れた腫れぼったい顔をしていた。
居間からは古い映画音楽が聞こえている。休日の朝にはいつもかけるCDだ。いま流れているのは『マイフェバリットシングス』。
不意に、熱いものが胸の奥からこみ上げてきた。
「すまなかった」
石橋は言った。
「おれが悪かった。おれが、間違ってた」
許してくれ、そう言いながら石橋は肩を落とした。
頭を下げたとたん、こらえきれずに石橋は嗚咽を漏らした。
「おれには君たちしかいない。君たちがいなくなったらおれは……生きてゆけない」
その言葉は、まぎれもなく石橋の真実だった。
妻も、娘も、この家も、ささやかな庭も、音楽も、身を包む何もかもが温かく、かけがえのないものだった。それに気付かないでいたことを彼はいまさら悔いた。自分は逃げているだけだった。家族に向き合おうと努力をしないで、目の前を見ないで遠くばかり見ていた。それをあらためて悔やむと、石橋は肩を震わせ泣いた。
とんとんとんと足音がして、本を抱えた絵里が二階から下りてきた。
「パパ?」
そう言いながら玄関先まで来ると、不思議そうに石橋の顔を見る。
「絵里」
石橋は、思わず絵里を手元まで引き寄せ、ぐっと抱きしめた。
「パパくさい。それにおひげが痛い」
そっけなくそう言うと、彼女は石橋の腕をすり抜け居間へ駆け去ってしまった。
呆然とする石橋に、瞳はうるんだ眼をして微笑んだ。
「だから言ったでしょ。いまちゃんと見ておかないと、女の子はすぐに口もきいてもらえない年頃になるのよ」
そう言って石橋の上着を脱がせ、自分の腕にかける。
「ああ、スーツがぐしゃぐしゃ。明日にでもクリーニングに出さなくちゃね」
石橋のために、いつものスリッパを並べた。
「あなたもお風呂に入ってさっぱりして、それからまた絵里を抱きしめてやってよ」
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